(オスマン国の歴史も参照)
建国者
オスマン一世がアナトリアの地に建国した君侯国が始まりとされる。この君侯国はオスマン君侯国と呼ばれ、東ローマ帝国や周辺の侯国と争いながら勢力を拡大させていく。第2代
オルハンの時代にはバルカン半島へ勢力を拡大し、第3代
ムラト一世や第4代
バヤズィト一世による征服事業でさらに拡大するも、東方のティムール朝の襲来とアンカラでの敗戦によって一時的に皇帝が空位になり、分裂する。
空位時代を制した第5代
メフメト一世と第6代
ムラト二世の時代は失地回復と国力の回復に費やされることになる。
第7代
メフメト二世の頃にはクリミア半島にまで進出し、東の
カラマン侯国を併合し、1453年には東ローマ帝国をコンスタンティノープルの地で滅ぼして同都市を新たな首都と定めた。
第9代
セリム一世の時代にはシリアやパレスチナ、ヒジャーズを併合し、1517年にはマムルーク朝をエジプトで滅ぼして併合した。
第10代
スレイマン一世の時代は「壮麗時代」と呼ばれた。この時代はオスマン帝国が西欧諸国に対して圧倒的な力の差を見せ付け、ウィーンを包囲し、プレヴェザで西欧連合艦隊を打ち破るなどの栄光の時代として人々に記録されることになる。
しかし1566年のスレイマンの死後、衰退は緩やかに始まり、大宰相
ソコルル・メフメト・パシャの死後、それは確実のものになる。
17世紀はなんとか持ちこたえるも、18世紀に突入するとその維持していた大帝国は崩壊し始める。
しかし
レヴィオン・パシャや皇帝
マフムト2世の尽力もあり、徐々に復活し、
オスマン革命(1930年~1952年)の改革によって完全に息を吹き返し、現在に至る。