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オルハン
オスマン帝国 第二代皇帝
在位1324年-1362年
別号建帝、建国帝
個人情報
出生1281年/1288年
没年1362年
配偶者ニールーフェル・ハトゥン
子女スレイマン
ムラト
ハリル
母親マル・ハトゥン
父親オスマン一世
別名オルハン・ベイ
その他
称号建国者、建帝
宗教イスラム教 スンナ派?
概要
オルハンは、オスマン帝国第二代皇帝。
いまだ君侯国のひとつで、遊牧と略称を繰り返すそこら辺の略奪組織とさほど変わらないオスマンを「国家」へと転換させた人物。
そのことから現在でも国民などから「建国者」「建帝」と言われ、親しまれている。

生涯

即位とブルサ攻略

オルハンの治世において拡大した領域(薄赤)
オスマンが率いていた集団は数百人規模の戦士集団で、その指導者はあくまでも仲間内の第一人者という立場であり、指導者の選出には同朋である戦士たちの推戴が必要とされていた。オルハンは父の僚友たちの推戴によって即位し、父の遺志であるブルサ攻略を継続した。

1317年より父オスマンから軍の指揮権を委ねられ、オスマン一世が行ったブルサ包囲にあたっての障害となる拠点を制圧、オルハネリの城砦を破壊した。
ブルサ包囲中に、父オスマンは死去した。

1326年4月6日にブルサの支配者を降して同地を征服、首都に定めてオスマン一世を埋葬した。遷都後は配下をコジャエリ方面に派兵して、1331年3月2日にニカイア、1337年にニコメディアを征服して勢力を拡大する。

1329年にオスマンのニカイア包囲を解くために、東ローマ帝国より約2000の軍勢が派遣されるも、ペレカノンの戦いで皇帝アンドロニコス3世パレオロゴス率いる東ローマ軍を撃破し、この勝利はオスマン一世から継承した軍団を辺境の軍事集団から一侯国に飛躍させるきっかけとなった。
ニカイアの攻撃は苛烈なものであり、ニカイア攻略直後にオルハンと面会したイブン・バットゥータは『大旅行記』で街が荒廃し、人口が流出して減少した様子を伝えた。
ニカイアの施設でかろうじて破壊を免れた二重の城壁は、往時の姿を今に留めている。

1335年から1345年の間にバルケスィルのカレスィ侯国を併合、カレスィ君侯アジランの死後に起きた二人の王子の争いに干渉した結果と言われる。
この併合によって軽装艦船を有するカレスィの海軍をそのまま手に入れ、バルカン半島進出の手段を獲得した。

バルカン半島への進出

このようにオスマン帝国と東ローマ帝国の間には軍事衝突が頻繁に起きていたが、当時東ローマ帝国はオスマン帝国よりもサルハン侯国、アイドゥン侯国を危険視しており、やがて両国の間に同盟関係が生まれる。オルハンと東ローマ皇帝アンドロニコス3世が初めて対面したのは1333年のニコメディア包囲中と言われ、カレスィ侯国を牽制するために両国は同盟した。

1341年のアンドロニコス3世没後、東ローマ帝国ではヨハネス5世パレオロゴスとヨハネス6世カンタクゼノスの間で帝位をめぐる内紛が起こり、二国間の同盟はより重要性を増した。ヨハネス5世とヨハネス6世はいずれもアナトリア半島のベイリク国家と同盟を結び、オルハンはその一方であるヨハネス6世に味方して彼の登極を助けた。

1346年、オルハンはヨハネス6世の娘テオドラを妻に迎え、ヨハネス6世に敵対するヨハネス5世およびセルビア王国を攻撃するため、6000の兵士をバルカン半島に派遣。
1337年にオスマン軍は初めてヨーロッパに渡りトラキアで略奪を行った。バルカン半島での軍事作戦においては長子のスレイマンの活躍が大きく、セルビア王ウロシュ4世によるサロニカ攻撃の阻止、チョルルの制圧は、いずれもスレイマンの軍功である。

1352年から1353年の間に、ヨハネス6世への援助と引き換えにオルハンはカリポリス付近のチンペ城砦を獲得した。

1354年3月2日にカリポリス一帯は大地震に見舞われ、カリポリスの街と城壁も被害を被ると、スレイマンはこの地震に乗じてカリポリスとテキルダー、マルカラなどのマルマラ海沿いの地域を占領した。
ヨハネス6世はオスマン帝国が占領した都市の返還を両国の友好関係に訴え、また見返りとして大金の支払いを提案したが、オルハンは要求に応じず、バルカン半島の入り口となる拠点を手放そうとはしなかった。

一連のバルカン半島へのオスマンの進出は「蛮族の入寇」とは全く異質のものであり、こうしたオスマン側の動向を受けて、ヨハネス5世はオルハンの子ハリルに娘を嫁がせ、オスマン帝国との関係強化を図った。

晩年

ブルサにあるオルハンの墓
オルハンの没年については諸説あり、1359年から1362年の間と推定されている。

有能な将軍で後継者と目されていた長子スレイマンは1357年に鷹狩りの最中の事故によって、父よりも先に没していた。
スレイマンの死によっておきたオルハンの後継争いの影響でバルカン半島方面におけるオスマン帝国の軍事活動は一時的に停滞するも、継承戦に勝利した次子のムラトが帝位を継いだ。

内政

軍事集団から国家への脱皮

支配下に入れた地域に暮らす定住民、都市を往来する商人や旅人といった、これまでオスマンが率いていた遊牧民とガーズィーとは異質の人々を統治する政治機構を整備する必要に迫られた。

オルハンは統治体制の確立において、ブルサの東ローマ帝国の行政機構と行政官を受け継ぎ、後のオスマン帝国が規範とする制度を構築した。
体制の確立においては東ローマの人材以外に、外部から招かれたウラマー(イスラム教法学者)などのカラマン侯国イルハン朝といった周辺のイスラム教国家から流入したイスラム書記の力も欠かせなかった。
招聘されたウラマーたちはイスラム教法官(カーディー)として、国家統治において直面する民政と裁判の問題をイスラム教法(シャーリア)に依って解決した。

また、彼らウラマーはシャリーア以外に文章の読解、イスラムの先進国家の知識も持ち合わせており、行政分野においても重宝された。オルハンはウラマーを自国でも養成するべく、1331年にイズニクにオスマン帝国最初のメドレセ(大学)を創設した。

法官の整備と共に君主を補佐する役職である「大宰相」が設置され、外来のウラマーであるアラエッディン・パシャが就任した。また軍事を統括するベイレルベイ(司令官)に長子のスレイマンを任命した。

軍制改革

オルハンの時代に、オスマン軍の軍服にはジハードの戦士の衣服を元にした、民族的な帽子が取り入れられる。

当時のオスマン軍の兵力はトルコ系、モンゴル系の遊牧民、神秘主義を信奉する修道士、キリスト教徒などで構成される雑多な集団であった。
こうした自主性の強いオスマン軍への統制を強化し、より効率のいい軍事活動を展開するために、従来の遊牧民を中心とする軍団から君主直属の常備軍への再編成が行われた。

トルコ系の民族から徴募した歩兵と騎兵に軍団を再編成し、2つの軍隊に編入された彼らは軍役中は給与を現金で受け取り、平時は税を課されず農業に従事していた。

だが、常備軍の編成は満足な結果を残さず、どちらも補助軍の一部に格下げされ、常備軍制定の実現は奴隷軍人からなるイェニチェリが創設されるムラト一世の治世を待たなければならない。

他方、同時代に編成された非正規の騎兵は、バルカン半島での勢力拡大に大いに貢献した。彼らは給料が支払われない代わりに略奪品を獲得する権利を持ち、バルカン半島の国境地帯に配属された。機動力に優れるアクンジュが敵国に侵入を繰り返した後に本隊が攻め込む戦法は、バルカン半島での領土拡大に有効であった。

アクチェ銀貨

オルハンは、オスマン帝国の通貨として「アクチェ銀貨」を鋳造した。この硬貨は東ローマ帝国、トレビゾンド帝国で鋳造された硬貨を参考にしている。
硬貨には「始祖レモール?よ オスマンの子オルハンの国を永遠たらしめ給え」という言葉が刻まれていた。このアクチェ銀貨は、17世紀に至るまでオスマン帝国の通貨の基本単位として長く用いられた。

人物

オスマン国の国定教科書では、彼の誠実な人格と信仰心が称賛されている。
彼の性格を表すエピソードとして、攻略直後のイズニクにモスク、マドラサと共に建てた救貧院の開設式の折には自らスープを配り、夜には付木を焚いた話が紹介されている。

また、イブン・バットゥータの『大旅行記』には、オルハンが首都に1か月も留まることなく国内を見回り、時には異教徒と戦ったという伝聞が記されている。

次代

先代当代次代
オスマン一世オルハンムラト一世

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