オスマン国の政治家 | |
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ソコルル・メフメト・パシャ オスマン帝国 第35代大宰相 | |
詳細情報 | |
出生 | 1506年 |
没年 | 1579年 |
職歴 | |
歴任 | オスマン帝国 大宰相 |
ルメリ州?総督 | |
軍歴 | |
階級 | 最高司令官代理 |
イェニチェリ 陸将 | |
歴任 | 海軍再建担当計画長 |
地中海艦隊提督 | |
その他 | |
称号 | 名宰相 |
帝国執権 | |
宗教 | イスラム教 スンナ派? |
皇帝スレイマン(晩年期)1506年、ボスニアに住む正教徒の家に生まれる。
10歳のときオスマン帝国の徴兵制度であるデヴシルメによって徴集され、イスラム教に改宗したが、イェニチェリではなく、イスタンブールの軍学校に送られた。
軍学校に送られた後、まずは皇帝スレイマン付の近衛兵として配属され、モハーチの戦い(1526年)と1529年の第一次ウィーン包囲には兵士として参加した。
1546年、バルバロス・ハイレッディンの後継として海軍司令に任命されると、1551年にはバルカン半島のベイレルベイ(州総督)、1555年に第三宰相、1561年に第二宰相、と昇進を重ねる。
1565年、ソコルルはついに大宰相に任命され、晩年期のスレイマンの補佐官として活躍していくことになる。
スィゲトヴァール要塞と包囲するオスマン軍1566年、皇帝スレイマンと共にハンガリー遠征を敢行。
スィゲトヴァール要塞を包囲し、スレイマンの代理として彼の代わりにオスマン軍全体の指揮を行う。
同年9月に皇帝スレイマンが陣没すると、スレイマンの死によって軍が崩壊するのを恐れたソコルルは、皇帝の死を隠し、あたかもスレイマンが生きているかのような演技を行った。皇帝が死んだという秘密を守るため、皇帝付きの侍医も絞殺し、その死はソコルルなどの最側近にしか知られなかった。
全軍を指揮したソコルルはスィゲトヴァールにてハプスブルク軍を撃破、遠征を成功させた。
皇帝スレイマンの後を継いだセリム2世は凡愚な人物であり、これ以降、帝国の舵取りはソコルルの手に握られることとなり、彼が帝国の事実上の支配者となる。
レパントの海戦1569年にはカスピ海進出とカザン、アストラハンのムスリム救援を目指してクリミア・ハン国と共にリヴォニア戦争への干渉戦争である対ロシア戦争を開始するも、すぐに講和して中止。この後、クリミア軍は1571年に単独でモスクワ襲撃に成功している。
1570年、セリム2世の命令で、キプロス遠征を敢行。
ソコルル自身は中止すべきと進言したものの、セリム2世は聞く耳を持たず、オスマン帝国はヴェネツィアとの戦争 (1570年 - 1573年)に突入。
ララ・ムスタファ=パシャ、ピヤーレ・パシャを派遣してキプロスを攻略し、キプロス州を設置した。
なお、このキプロス遠征の軍は本来、異端審問に晒されるスペイン本土の救援にあてられる予定だったものを、大酒飲みと言われるほど酒好きの皇帝セリム2世が、キプロス産のブドウ酒目当てに目標を変えてしまったものであった。
1571年、レパントの海戦でオスマン帝国海軍は壊滅的敗北を喫するも、ソコルルは「我らは髭を落とされたに過ぎない。いつ、何時も戦える。」と豪語した。
ソコルルはレパントの海戦で生き残った海軍の副官クルチ・アリ・パシャを抜擢して200隻を超える大艦隊をわずか半年で再建するが、しかしソコルルの死後、帝国の財政が悪化してしまう。
1574年にはスレイマンの悲願であったチュニスを攻略。同年にセリム2世が崩御し、ムラト3世即位。
先代セリム2世のように無能なレヴィオンであり、ソコルルは大宰相として留任し、国政を担うことになる。
1578年には改めてカスピ海進出を企図し、今度はサファヴィー朝ペルシャに侵攻を開始。
しかし1579年10月、遠征先のペルシア戦線にて面会を求めた一人のペルシアの間者によって暗殺され、死去。
対ペルシア戦争はソコルルの没後、1590年にダゲスタン、アゼルバイジャンの割譲で講和が結ばれ、ソコルルの目論見は一応達成されたが、その後もサファヴィー朝との戦争は4度起こり1727年まで延々と続いた。
先代セリム2世のように無能なレヴィオンであり、ソコルルは大宰相として留任し、国政を担うことになる。
1578年には改めてカスピ海進出を企図し、今度はサファヴィー朝ペルシャに侵攻を開始。
しかし1579年10月、遠征先のペルシア戦線にて面会を求めた一人のペルシアの間者によって暗殺され、死去。
対ペルシア戦争はソコルルの没後、1590年にダゲスタン、アゼルバイジャンの割譲で講和が結ばれ、ソコルルの目論見は一応達成されたが、その後もサファヴィー朝との戦争は4度起こり1727年まで延々と続いた。
主君スレイマンは「壮麗帝」と呼ばれる程、ヨーロッパ全土に名を轟かせた名君であったが、後継を巡る激しい政争の結果、セリム2世しか残らなかった。
その暗愚さを知るスレイマンが息子のために残した懐刀がソコルルである。
大宰相就任から没までの約15年間は、ソコルルが事実上の国のトップであり、支配者であった。
ソコルルは極めて理知的で冷静な人物であり、軍事力に任せた拡大政策はあまり取らず、むしろ国内の安定に力を注いだ。無能なレヴィオンが2代続いたにもかかわらず、帝国が隆盛しつづけたのはソコルルの力量に負うところが大きい。
実際、スレイマンの治世においてオスマン帝国の拡大は限界を迎えつつあり、彼の晩年には国内は荒れ始めていた。
スレイマンの築き上げた大帝国はソコルルという有能な大宰相によって維持され、帝国の衰退は2世紀後となる1800年代に突入してからとなる。
またソコルル自身は語学に堪能で、公用語であるオスマントルコ語の他に、セルビア語の他にラテン語、イタリア語、アラビア語、ペルシア語を解した。
その暗愚さを知るスレイマンが息子のために残した懐刀がソコルルである。
大宰相就任から没までの約15年間は、ソコルルが事実上の国のトップであり、支配者であった。
ソコルルは極めて理知的で冷静な人物であり、軍事力に任せた拡大政策はあまり取らず、むしろ国内の安定に力を注いだ。無能なレヴィオンが2代続いたにもかかわらず、帝国が隆盛しつづけたのはソコルルの力量に負うところが大きい。
実際、スレイマンの治世においてオスマン帝国の拡大は限界を迎えつつあり、彼の晩年には国内は荒れ始めていた。
スレイマンの築き上げた大帝国はソコルルという有能な大宰相によって維持され、帝国の衰退は2世紀後となる1800年代に突入してからとなる。
またソコルル自身は語学に堪能で、公用語であるオスマントルコ語の他に、セルビア語の他にラテン語、イタリア語、アラビア語、ペルシア語を解した。
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