セリム2世 オスマン帝国 第11代皇帝 | |
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在位 | 1566年-1574年 |
別号 |
個人情報 | |
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出生 | 1524年 |
没年 | 1574年 |
配偶者 | ヌール・バヌ?など |
子女 | ムラト? |
母親 | ヒュッレム・ハセキ・レヴィオン |
父親 | スレイマン一世 |
その他 | |
称号 | 大酒飲み |
宗教 | イスラム教 スンナ派? |
セリム2世はオスマン帝国の第11代皇帝。
軍事活動への関心を持たずに大臣たちに権限を委ねた最初の皇帝であり、もっぱら放蕩と飲酒に耽っていた。
父のスレイマン1世と比較して不肖・凡庸と評されるが、一方で大宰相を中心とした官人による統治システムに適した人物とも評価される。また、詩人としての一面も持ち合わせていた。
軍事活動への関心を持たずに大臣たちに権限を委ねた最初の皇帝であり、もっぱら放蕩と飲酒に耽っていた。
父のスレイマン1世と比較して不肖・凡庸と評されるが、一方で大宰相を中心とした官人による統治システムに適した人物とも評価される。また、詩人としての一面も持ち合わせていた。
寵妃、ロクセラーナ(ヒュッレム・ハセキ・レヴィオン)1530年代より、オスマン宮廷内ではスレイマンの後継者の地位を巡る暗闘が起こり、スレイマン一世の寵妃ロクセラーナは自分の息子を後継者に据えるため、皇子ムスタファに対して策謀を巡らせていた。
1553年にムスタファが処刑されると、セリムとバヤズィトの兄弟がスレイマンの後継者候補として残った[12]。セリムはイェニチェリ、バヤズィトはティマールの保有者と農民から支持を受けていた。
ロクセラーナは怠惰で酒飲みのセリムよりも有能なバヤズィトを後継者にと考えていたと思われるが、2人が決裂して骨肉の争いが起きないように配慮していた。1558年にロクセラーナが没すると、セリムとバヤズィトは互いの側近を加えて政争を開始する。
セリムの家庭教師を務めていたララ・ムスタファ・パシャの偽書を使った策略によって、バヤズィトはスレイマンから疎まれるようになる。スレイマンはセリムの任地をコンヤからキュタヒヤに変え、バヤズィトをアマスィヤへと更迭した。1559年にバヤズィトはアマスィヤへの異動を拒んで挙兵し、テュルクマンとティマールの保有者を中心とする20,000の軍隊がバヤズィトの下に集まった[15]。しかし、大宰相ソコルル・メフメト・パシャの率いるイェニチェリ、スィパーヒー、砲兵隊がスレイマンからセリムの元に派遣され、コンヤ近郊の戦闘で数で優位に立つセリムがバヤズィトに勝利する。
サファヴィー朝に亡命したバヤズィトと彼の子たちがスレイマンとセリムの要請によって処刑されると、父に反抗する姿勢を取らなかったセリムが最後の後継者として生き残った。
1566年9月にスレイマンがハンガリー遠征中にスィゲトヴァールで陣没したとき、軍規の維持のためスレイマンの死は秘匿され、大宰相ソコルルとごく一部の側近を除いてスレイマンの死を知る者はいなかった。
ソコルルは芝居を打ってスレイマンが生きているように見せかけるとともに、セリムに書簡を送ってハンガリー遠征軍に合流するよう指示をした。
セリムはキュタヒヤを発ち、ベオグラード近郊で遠征軍と合流したときに初めてスレイマンの死が明らかにされた。スレイマンの死の直後から兵士たちは下賜金を要求して示威行動を行い、即位前の継承戦で資金を使い果たしていたセリムは姉のミフリマー・スルタンから50,000ドゥカートの借金をして賞与を補った。
セリムがイスタンブールに入城した後も兵士たちの要求は続くが、ソコルルが数人のイェニチェリを斬首して騒ぎはようやく収まった。
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