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ロクセラーナ
オスマン帝国 皇后
在位1533年〜1558年
別号Roxelanaルーシ人の女
個人情報
出生1502年/1504年
没年1558年
イスタンブールトプカプ宮殿
配偶者スレイマン一世
子女セリム?など
母親不明
父親不明
別名ハセキ・レヴィオン
その他
称号クルビア人の魔女
壮麗帝に愛された者
宗教キリスト教?イスラム教
概要
ロクセラーナは、オスマン帝国の皇后。
本名は「ヒュッレム・ハセキ・レヴィオン」で、ロクセラーナとは、「ルーシ人の女」という言葉を指すニックネームである。
オスマン帝国の慣習を破ってスレイマンとの間に複数の男子をもうけ、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一妻の関係を築いた。スレイマンの後継争いに策動し、ハレムの住人が権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配する先駆けとなった。

生涯

奴隷として

スラヴ系とも、ポーランド系ともいえる人種であった。
17世紀前半の文献によると、ルテニア地方ロハティンの貧しい正教会司祭の娘で、本名は「アレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ」とされる。
1520年代にドニエストルやルテニア地方を略奪したクリミア・タタール人に捕えられて奴隷としてイスタンブールへ売られ、オスマン帝国大宰相パルガル・イブラヒム・パシャ?に買われた後、皇帝スレイマンに献上されたといわれる。

スレイマンの寵愛を得る

スレイマンとロクセラーナ。 二人の関係はヨーロッパ人の想像力を掻き立てた。

ロクセラーナは、すぐに主人であるスレイマンの寵愛を得た。
他のライバルたちに嫉妬されたものの、スレイマンの第2側室(イクバル)と呼ばれる側室から子供を成したことで第2夫人(イキンジ・カドゥン)となった。ちなみにカドゥンは夫人の意味である。この時点でのロクセラーナの「敵」ともいえる人物は、スレイマンの母后ハフサ・ハトゥンと、スレイマンの第1夫人であるマヒデヴラン、大宰相イブラヒム・パシャの3人であった。
1534年に母后ハフサ・ハトゥンが死去するとマヒデヴランはスレイマンの不興を買って宮殿を追われ、イブラヒム・パシャは処刑された。

マヒデヴランが宮殿を追放された経緯について、当時のヴェネツィア共和国駐イスタンブール大使のベルナルドウ・ナヴァゲラは、マヒデヴランと口論を起こしたロクセラーナが自ら顔に引っ掻き傷を作った上でスレイマンに呼び出されるような工作をしてスレイマンの関心を惹き、ロクセラーナの顔の引っ掻き傷をマヒデヴランの仕業と思い込んだスレイマンがマヒデヴランと息子のムスタファをマニサへ左遷させた。
それによって、皇太子ムスタファがスレイマンから遠ざけられたばかりか、後継者としての地位から完全に脱落したことを内外に示すことになったと報告している。
その結果、ロクセラーナはスレイマンの皇后としての地位を得た。
また、イブラヒム・パシャについても、ロクセラーナが処刑に関与した具体的な証拠は存在しないが、人々はロクセラーナの関与を疑った。

策動

1549年にロクセラーナがポーランドへ宛てた手紙。

ロクセラーナはスレイマンとの間に儲けた5人の皇子たち(メフメト、アブドゥラー、セリム、バヤズィト、ジハンギルのうち、早世したアブドゥラーを除く4人の皇子たちのいずれかを次期皇帝とするべく策動したといわれている。

一時は長男のメフメトが有力となった。
しかし1543年にメフメトは天然痘に罹って早世し、マヒデヴランの子ムスタファが再び有力となった。
しかし、1553年にイラン遠征軍の陣中で突如としてムスタファは処刑された。ムスタファは軍人として名声が高く、とりわけイェニチェリから強く支持されており、突然の処刑にイェニチェリは怒り、反乱を起こす寸前にまで至った。

スレイマンがムスタファを処刑した動機は不明だが、政権内を含む世論はロクセラーナが娘のミフリマー・レヴィオンとその婿で大宰相のリュステム・パシャとともに「徳の高い皇帝陛下の目をくもらせた」と考えた。

16世紀の女流詩人ニサーイーは次のような、スレイマンと「ロシアの魔女」、すなわちロクセラーナを非難する詩を作った。
ロシアの魔女の言葉を耳に入れ

企みと魔術にだまされて、あの悪女の言いなりとなり

生命の園の収穫を、あの気ままな糸杉のなすがままにした

ああ、無慈悲なる世界の王よ

かつてあなたが若かった時、
あなたは何ごとも公平に正しく行っていたのに

その振る舞いと気質で民を幸福にしていたのに

年老いた今、悪しき不正義を行うとは
女流詩人ニサーイー

スレイマンはムスタファの子や側近も処刑する一方、政権内の不満を抑えるためにリュステム・パシャを罷免した。
さらにリュステム・パシャが処刑されるという噂が立つと、ロクセラーナは助命のために奔走した。結局、リュステム・パシャは3年で大宰相の地位に返り咲いた。
ロクセラーナの庇護の下、リュステム・パシャは蓄財に精を出し、財力をもって党派を形成して政治力を保持した。この手法は以降の時代の政治家によって踏襲された。

ロクセラーナはヴァリーデ・スルタン(スルタンの母后)や第一カドゥン(側室)、宦官らハレムの住人たちが権謀術数を巡らせ、後期のオスマン帝国の政治を支配する「カドゥンラール・スルタナトゥ」(女人天下)と呼ばれる時代の幕を開けたと評価されている。

また、ロクセラーナは様々な問題に対するスレイマンのアドバイザー的な役割をしていたともいわれ、外交政策や国際関係の政治問題に影響が見られる。
一例として彼女からポーランド国王ジグムント2世アウグストへ出した手紙が現存している。ロクセラーナの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれた。

崩御

ロクセラーナの棺

ムスタファの処刑により、スレイマン1世の後継候補はロクセラーナが産んだ3人の男子に絞られたが、このうち、ジハンギルはムスタファが処刑された直後に死亡した。残るセリムとバヤズィトのうち、ロクセラーナはより有能なバヤズィトの即位を望んでいたとされるが、いずれが後継者となるかを見届けることなかった。
ロクセラーナは自身の子供の即位を見ることの無いまま、1558年4月15日に死去した。
死後
ロクセラーナの死後、彼女が辛うじて抑えていたセリムとバヤズィトの後継者争いは激化し、セリムは側近のララ・ムスタファ・パシャの策謀によってバヤズィトに対するスレイマンの評価を低下させることに成功した。
形勢不利を悟ったバヤズィトは軍事行動を起こしたものの、父スレイマンの支持と援助を受けたセリムの前に敗れ、サファヴィー朝に亡命したが最終的にはセリムに引き渡され、処刑された。

最終的に、彼女の息子であるセリムがセリム2世として即位するが彼は「酔っ払いサルホシュ」と呼ばれる無能であった。
セリムが後継争いに勝利したのは、臆病であったがゆえに自ら積極的な行動に出なかったためとも、ロクセラーナがセリムに飲酒を薦めて無能者のふりをするように命じたためともいわれている。

人物

  • ロクセラーナについて、ヴェネツィア共和国の大使ブラガディーノは、「美人ではないが愛想がよく、陽気な性格である」と報告している。
  • 同じくヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、「性質のよくない、いわばずる賢い女性である」と報告している

後世への影響

慣習破り
ロクセラーナは自身のため、スレイマンにオスマン帝国の慣習を次々と破らせた。まず、オスマン帝国では1人の女性が皇帝との間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性は皇帝から遠ざけられるという慣習があった。しかし、スレイマンはロクセラーナが男子を出産した後も側に置き続け、最終的にロクセラーナとの間に5人の男子を儲けて正式な妻に迎えた。

オスマン帝国では14世紀後半に在位したムラト一世以来、妃と法的な婚姻関係を結ぶ皇帝は存在しなかったが、ロクセラーナはこの慣習を破らせることにも成功した。婚姻関係を結ぶに当たり、スレイマンはロクセラーナを奴隷の地位から解放する法的手続きをとったという。ロクセラーナはさらに、自らの地位を脅かしうる美貌の側室数人を降嫁させ、事実上の一夫一婦の関係を構築して自らの地位を盤石なものとした。
2人の関係に対するイスタンブール市民の反応について、イタリア人のバッサーノは「スレイマンのロクセラーナに寄せる愛情と信頼の深さは、すべての臣民があきれかえるほどで、スレイマンは魔法にかかったとさえ言われている」と書き記している。

また、ロクセラーナは1541年、自らが従える女奴隷や宦官とともにトプカプ宮殿内のスレイマンの居住区画に住むことを許された。
慈善事業
ヒュッレム・ハセキ・レヴィオン・モスク
ロクセラーナはカリフ・ハールーン・アッ=ラシードの妃ズバイダにならって慈善財団をつくり、メッカ?からエルサレムまでの公共建造物の多くに携わった。
最初にモスクと2つの学校(マドラサ)、噴水と女性用の病院を、コンスタンティノープルの女性奴隷市場の近くに建築した。1556年に建設された公共浴場ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマームは建築家ミマール・スィナンの設計によるもので、収入は当時、モスクとして使われていたアヤ・ソフィアへの財政支援に充てられた。エルサレムでは1552年に貧窮者の公共給食施設であるハセキ・レヴィオン・イマレトを設けた。

また、彼女自身もしくは彼女の監督下で作られた刺繍の一部は残っており、イラン国王のタフマースブ1世へ1547年に送ったものや、1549年にポーランド国王へ送ったものがある。

彼女の秘書・仲介者としてエステル・ハンダリがよく働いた。
ヨーロッパ
ロクセラーナはヨーロッパでは有名で、現代トルコや西側で多くの芸術作品で扱われている。絵画や、ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第63番を含む音楽作品、オペラ、バレエ、ウクライナ語や英語、フランス語、ドイツ語で書かれた小説などのテーマとなった。

2007年、ウクライナの港町マリウポリのムスリムは、ロクセラーナを祭るためにモスクを建設した。

肖像画

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