最終更新: kyo_miyato 2017年04月28日(金) 01:18:15履歴
洛北の大原は、高野川が流れ、若狭街道が通るのどかな山里である。( 91 )が開いた延暦寺との関わりが深く、平安時代に天台寺院が多く建立された。 天台宗三門跡の一つ三千院の本堂は、往生極楽院阿弥陀堂と呼ばれ、堂内にある阿弥陀三尊像は平安後期を代表する仏像として国宝に指定されている。また、三千院の北側には、後鳥羽天皇とその皇子で百人一首に歌が残る( 92 )の御陵がある。 近くにある勝林院や来迎院は、天台声明(てんだいしょうみょう)の根本道場として建立された。勝林院は文治2年(1186)、浄土宗の( 93 )が招かれ、いわゆる「大原談義」が行われたことで知られる。 来迎院は一時期衰退したが、融通念仏の開祖である( 94 )が再興し、以降勝林院と並び声明音律の中心地となった。 これら三寺とは高野川を挟んで西側の山麓に寂光院がある。『平家物語』灌頂巻(かんじょうのまき)に( 95 )が出家の後隠棲したと記され、寺内には物語りにちなむ数々の史跡が残っている。 |
(91) 洛北の大原には、( )が開いた延暦寺との関わりが深く、平安時代に天台寺院が多く建立された。
(92) 三千院の北側には、後鳥羽天皇とその皇子で百人一首に歌が残る( )の御陵がある。
(93) 勝林院は文治2年(1186)、浄土宗の( )が招かれ、いわゆる「大原談義」が行われたことで知られる。
(94) 来迎院(らいごういん)は一時期衰退したが、融通念仏の開祖である( )が再興し、以降勝林院と並び声明音律の中心地となった。
(95) 寂光院については、『平家物語』灌頂巻(かんじょうのまき)に( )が出家の後隠棲したと記され、寺内には物語りにちなむ数々の史跡が残っている。
京都盆地の東を区切る東山は、北は比叡山から南は稲荷山までを指すのが一般的である。 ( 96 )の随筆『枕草子』の冒頭で「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて・・・」はその姿を描写したといわれ、のちには東山三十六峰と賞された。 平安京の建設によって都城の境界となり、鳥辺野を中心とする葬地としての性格を帯びた。入口の六波羅には( 97 )によって六波羅蜜寺が創建された。平安後期には、( 98 )の院御所である法住寺殿や平家一門の屋敷が建設されるなど、政治の舞台ともなった。 鎌倉時代には、無関普門を開山とする南禅寺や( 99 )を開山とする東福寺など、後の京都五山となる禅宗寺院が建立された。 また、室町幕府の将軍( 100 )の山荘に起源を持つ銀閣寺には、二層の銀閣や東求堂(共に国宝)があり、東山文化を象徴する建築として有名。 |
(96)( )の随筆『枕草子』の冒頭で「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて・・・」は京都盆地の姿を描写したといわれ、のちには東山三十六峰と賞された。
(97) 平安京の建設によって都城の境界となり、鳥辺野を中心とする葬地としての性格を帯びた。入口の六波羅には( )によって六波羅蜜寺が創建された。
(98) 平安後期には、( )の院御所である法住寺殿や平家一門の屋敷が建設されるなど、政治の舞台ともなった。
(99) 鎌倉時代には、無関普門を開山とする南禅寺や( )を開山とする東福寺など、後の京都五山となる禅宗寺院が建立された。
(100) 室町幕府の将軍( )の山荘に起源を持つ銀閣寺には、二層の銀閣や東求堂(ともに国宝)があり、東山文化を象徴する建築として有名。
タグ
このページへのコメント
(91)公式テキスト[新]97ページ
(99)公式テキスト[新]135ページ