最終更新: kyo_miyato 2017年05月03日(水) 01:12:12履歴
出発地は四条大宮。ここから京福電鉄嵐山線に乗り、太秦を目指す。この地域は平安京以前から渡来系の秦氏が進出し、養蚕・機織技術を扶植し、豊かな産業地帯にした。太秦駅で下車し、広隆寺を見学。広隆寺は、法隆寺や四天王寺などとともに聖徳太子が建立した七大寺のひとつである。国宝指定第一号の( 41 )は飛鳥時代を代表する仏像で、わずかに微笑んだ表情が美しい。 太秦から再び京福電鉄に乗って嵐山に向かう。終点の嵐山駅で電車を降り、左手に向かうと、大堰川に架かる( 42 )橋に至る。ここから上流を眺めると、嵐山の紅葉が一望できる。大堰川は、河川開発事業に活躍した( 43 )が慶長11年(1606)に開削、これにより丹波からの農産物や材木がより多く京の都へ運ばれる様になった。 天龍寺は、室町時代には京都五山の第一位を占めた格式の高い寺院で、足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために( 44 )上皇の亀山殿の地に開創した。庭園は国の史跡・特別名勝で、近景の亀山や遠景の嵐山を借景とした池泉回遊式で、( 45 )の作庭といわれている。 竹林の小径を少し行くと、源氏物語の舞台にもなった( 46 )神社がある。そこは、その昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が伊勢へ行かれる前に身を清められたところである。黒木鳥居と小柴垣が平安の風情を現在に伝えている。 大河内山荘の前を通り過ぎ、トロッコ嵐山駅を越えると、常寂光寺に着く。藤原定家の歌「忍ばれむ 物ともなしに ( 47 ) 軒端の松ぞ なれてひさしき」にちなんで軒端寺(のきばじ)とも呼ばれる。近くには、向井去来が晩年を過ごした庵である( 48 )がある。さらに進むと、「桜の馬場」「紅葉の馬場」で知られる二尊院にたどり着く。二尊院の名は、釈迦如来と阿弥陀如来の二体の本尊に由来するといわれている。 二尊院を東に進むと、通称「( 49 )」といわれている清凉寺がある。源融(みなもと の とおる)の山荘であった棲霞観(せいかかん)に阿弥陀堂を建て、棲霞寺(せいかじ)としたのに始まる。室町中期には融通念仏の道場となった。現在も境内の狂言堂で、嵯峨大念仏狂言が上演される。 コースの終点は大覚寺。嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を寺に改めたことに始まる。境内には、中国の洞庭湖を模して造られた( 50 )池があり、月の名所として有名である。 |
(41) 聖徳太子が建立した七大寺のひとつである広隆寺が所蔵している国宝指定第一号の( )は、飛鳥時代を代表する仏像で、わずかに微笑んだ表情が美しい。
(42) 太秦から再び京福電鉄に乗って嵐山に向かう。終点の嵐山駅で電車を降り、左手に向かうと、大堰川に架かる( )橋に至る。
(43) 大堰川は、河川開発事業に活躍した( )が慶長11年(1606)に開削、これにより丹波からの農産物や材木がより多く京の都へ運ばれる様になった。
(44) 天龍寺は、室町時代には京都五山の第一位を占めた格式の高い寺院で、足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために( )上皇の亀山殿の地に開創した。
(45) 天龍寺の庭園は国の史跡・特別名勝で、近景の亀山や遠景の嵐山を借景とした池泉回遊式で、( )の作庭といわれている。
(46) 竹林の小径を少し行くと、源氏物語の舞台にもなった( )神社がある。その昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が伊勢へ行かれる前に身を清められたところである。
(47) 常寂光寺は、藤原定家の歌「忍ばれむ 物ともなしに ( ) 軒端の松ぞ なれてひさしき」にちなんで軒端寺(のきばじ)とも呼ばれる。}
(48) その近くには、向井去来が晩年を過ごした庵である( )がある。
(49) 二尊院を東に進むと、通称「( )」といわれている清凉寺がある。源融(みなもと の とおる)の山荘であった棲霞観(せいかかん)に阿弥陀堂を建て、棲霞寺(せいかじ)と
したのに始まる。
(50) 大覚寺は、嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を寺に改めたことに始まる。境内には、中国の洞庭湖を模して造られた( )池があり、月の名所として有名である。
タグ
コメントをかく