☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
- 上下賀茂社の正式名称
- 5月15日に行われる行列の名称
- 本列および女人列の中心的人物
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《解答例》※これらのポイントうち、赤字のキーワード部分を含む解説を適正に記述することができて正答 公式テキスト[増]206・224ページ/[新]254ページ
◦ 葵祭は、毎年5月15日に行われる賀茂別雷(かもわけいかづち)神社(上賀茂神社)および賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)の例祭。
◦ 古くは「賀茂祭」と呼ばれ、4月の中酉日(なかのとりのひ)に行われていた。祭儀に関わる人々や牛車、氏子の家の軒先まで双葉葵を掛けていたことから江戸時代以降に「葵祭」と呼ばれるように
なった。
◦ 石清水八幡宮の石清水祭・春日大社の春日祭とともに「三勅祭」のひとつで、石清水祭を南祭と呼んだのに対して、葵祭を北祭ともいった。
◦『源氏物語』や『枕草子』など多くの古典文学にも祭の面白さの例えに葵祭が取り上げられており、特に『徒然草』では単に「祭」といえば葵祭を指していた。
◦ 祇園祭が庶民の祭であったのに対して、葵祭は朝廷が執り行っていたため貴族が多く見物する祭であった。
◦ 567年に欽明天皇が風水害で凶作に見舞われ五穀が実らなかったため、占いにより賀茂の神々の祟りであるとされ、4月の吉日に馬には鈴をつけて走らせ五穀豊穣を祈ったことが始まりとされている。
◦ 応仁の乱まで続いたが、文亀2年(1502)から途絶え元禄7年(1694)に再興、明治4年(1871)に再び中絶したが、岩倉具視の尽力により14年間ぶりに復活した際に5月15日に変更された。
◦ さらに第二次世界大戦の影響で昭和18年(1943)から10年間に渡って、中絶や5月15日に行われる「路頭の儀」が中止されていた。
◦ また、同31年には鎌倉初期から途絶えていた斎王の女人列を、「斎王代」として復活させた。
◦ 葵祭の主な行事としては、5月3日に下鴨神社の糺の森で行われる「流鏑馬(やぶさめ)神事」や、5日には上賀茂神社で10頭の馬を走らせる「競馬会(くらべうまえ)神事」などが有名。
◦ それらの祭事を終えると、15日午前10時半に行列が御所の建礼門を出発し、葵祭のメインイベントとなる行列「路頭の儀」が執り行われる。
◦ 本列は警護の行列として騎馬の検非違使(けびいし)や山城使(やましろのつかい)とその従者、天皇からのお供え物の御幣櫃を運ぶ内蔵寮(くらのりょう)の役人、走馬に関わる馬寮(めりょう)の
役人と奉納の馬、中心には天皇の使いである勅使と随行の陪従(べいじゅう)、舞人(まいうど)に牛車や風流傘の列に分けられる。
◦ 女人列は腰輿(およよ)に乗った斎王代を中心に、女別当、内侍、命婦(みょうぶ)、女嬬(にょじゅ)、騎女(むねのりおんな)、童女(わらわめ)など女官たちの華麗な行列。
◦ 総勢500人余(約1km)の行列が御所から下鴨神社へと練り歩き、11時40分頃に到着すると直ちに「社頭の儀」が執り行われる。その後、糺の森の馬場で馬を疾走させる「走馬の儀」が行われる。
◦ 午後2時ごろに行列を整えて、一同は上賀茂神社に向けて再び出発。3時半頃に到着すると、下鴨神社と同様に「社頭の儀」が執り行われて、祭が終わる。
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