☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
- 法然上人の教義および開いた宗派
- 後鳥羽上皇の怒りをかった法難の名
- 法然を開山として知恩院を整えた弟子の名
- 今年(平成23年)は法然上人の何年の遠忌にあたるか
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《解答例》※これらのポイントうち、赤字のキーワード部分を含む解説を適正に記述することができて正答 公式テキスト[増]121ページ/[新]156ページ
◦ 法然上人は、長承2年(1133)に美作国(現在の岡山県)に生まれ、保延7年(1141)に父の死がきっかけで9歳で出家することになった。そこから修業を重ね18歳で法然房源空と改名し、
承安5年(1175)上人が43歳の時に阿弥陀仏の本願の真意感得して「浄土宗」を開く。
◦ その教えは、『「南無阿弥陀仏」を口に出して唱えれば、必ず仏の救済を受けて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができる。どこにいても、何をしていても「南無阿弥陀仏」を唱えよ、
南無阿弥陀仏と口に唱えて仕事をしなさい。その仏の御名(みな)の中に生活しなさい』というものである。
◦ このような教義の下、庶民だけではなく貴族や武士にも広く信仰を集めた「浄土宗」であったが、建永元年(1206)に事件が起こる。法後鳥羽上皇が熊野詣で留守中に、上皇寵愛の鈴虫と松虫
という2人の女官が法然上人の弟子である住蓮と安楽が催した念仏会に無断で参加し、その教えに共感して帰依してしまった。それを知った後鳥羽上皇は激怒し、住蓮・安楽ら4名を死罪に処し、
法然上人も土佐(のちに讃岐に配流地が変更)に流刑された。これを「建永の法難」という。
◦ 法然上人といえば、安元元年(1175)に東山大谷の吉水に建てた坊舎が、のちに知恩院の始まりとなったことで有名。法然の死後に弟子の源智が廟堂を復興して、大谷寺として寺基を整えたもの
である。
◦ なお、今年(平成23年)は法然上人の没後800年の大遠忌にあたる年で、総本山の知恩院をはじめ、浄土宗各寺院において大遠忌法要が壮大に営まれた。
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