最終更新: kyo_miyato 2016年11月03日(木) 16:39:20履歴
- 平安中期、粟田口三条坊の刀匠・三条小鍛冶宗近が、後一条天皇から鎮護の刀を打つことを命ぜられた
- 弟子になりたいという童子と名刀「小狐丸」を打った
- 童子の正体は稲荷の狐の化身であったという伝説が残る神社
- 金戒光明寺の山上墓地の北東にある墓地
- 幕末には、金戒光明寺が松平容保率いる会津藩の本陣だったため
- 毎年5月15日に行われる賀茂社=賀茂別雷神社(上賀茂神社)および賀茂御祖神社(下鴨神社)の例祭
- 正式名「賀茂祭」であったが、祭儀に関わる人々・牛車・氏子の家の軒下に至るまで、双葉葵が掛けられていたことから江戸時代以降に「葵祭」と呼ばれた
- 石清水祭・春日祭とともに三勅祭のひとつ、石清水祭(南祭)に対して「北祭」ともいわれる
- 古典文学の『源氏物語』では葵上の六条御休憩との車争いが描かれ、『徒然草』では祭の面白さの例えに葵祭が用いられ、単に「祭」といえば葵祭を意味していた
- 明治4年(1871)から中絶していた際は岩倉具視の尽力により同17年に再興され、5月15日に固定された
- 昭和31年(1956)に鎌倉初期から途絶えていた斎王の女人列が、「斎王代」という形で復活
- 葵祭の行列は「路頭の儀」と呼ばれる祭儀で、総勢500名余り、約1キロの行列が御所の建礼門前から下鴨神社を経て上賀茂神社に向かう
- 下鴨神社と上賀茂神社では、それぞれ「社頭の儀」が執り行われる
- 毎年4月24日に行われる宮津市の籠神社(このじんじゃ)の例祭
- 丹後最古の祭礼で、賀茂社の葵祭の双葉葵に対して藤を付ける
- 西山浄土宗の総本山、本尊は阿弥陀如来
- 建久9年(1198)に法力坊蓮生(熊谷直実)が法然の勧めにより、念仏三昧院を開いたことに始まる
- 本堂(御影堂)に法然自作の「張子の御影」が祀られている
- 法然が初めて念仏の教えを説いた「浄土門根源地」として信仰を集める
- 青蓮院に所蔵される不動明王の坐像を描いた「不動明王二童子」(国宝)
- 通称「青不動」といい、川崎大師の「赤不動」・三井寺の「黄不動」とともに日本三大不動のひとつ
- 京の伝統野菜に指定
- 現在は絶滅した「郡だいこん」の変異種とされている
- 小指ほどの細さの小さな大根で、軽く湾曲したみの半分ぐらいまでが鮮やかな緑色をしている
- 生食のほか、椀種、炊き合わせ、漬け物にも用いられる
- 永承7年(1052)、藤原頼道が平等院を建立する際の鎮守社として建てられた
- 6月5日の深夜から翌未明に行わる県祭は、暗闇の奇祭として有名
- 毎年6月5〜6日にかけて深夜に行われる「梵天渡御」が有名
- 青竹に球状の御幣を付けた梵天が勇壮に走り回り、それを勢い良く回転させる「ぶん回し」などが披露される暗闇の奇祭
- 毎年10月体育の日の前日に、八瀬童子会によって赦免地踊が催される
- 頭に赤紙で作った透かしの彫の切子燈籠を載せた少年たちが、八瀬天満宮の摂社である秋元神社に行列する
- 八瀬は古来、租税を免除されていた地域(赦免地)で、宝永4年(1707)に老中秋元但馬守喬知の尽力に感謝して、秋元神社に但馬守が祀られ、踊が奉納される
- 車屋町通の松原以南の通り名
- 因幡堂(平等寺)の正門がこの通りに面していたが、常に閉ざされていたため名前が付いた
- 天正10年(1582)、本能寺で織田信長を打った明智光秀が、羽柴秀吉に天王山で敗れたあと坂本に落ちる途中、小栗栖の竹藪で農民の槍に刺殺されたという
- その後、この地の竹を伐る農民がケガをしたり、どこからともなく騎馬隊の軍勢の雄たけびが聞こえたり、血のような赤い枝の竹が生えたり、周辺の竹が次々腐るなど、光秀の祟りではないかといわれた
- 南禅寺湖畔の「瓢亭(ひょうてい)」の朝粥は、京料理の息として長く愛されている
- 吉井勇は「瓢亭の 朝がゆすすり 松に吹く 風の音聞けば 心すがしも」と詠んでいる
- 室町幕府発祥の地
- 征夷大将軍であった足利尊氏の居所が、現在の押小路高倉にあり、この地はのちに足利家菩提所である等持寺になった
- 謡曲「芦刈」に取材
- 妻と別れ、難波の里で芦刈をする老翁の人形を御神体として祀る
- 老翁が着る綾地締切蝶牡丹文片身替小袖(あやじしめきり ちょうぼたんもん かたみがわりこそで)の襟裏には天正17年(1589)の銘があり、山鉾最古の衣装で重要文化財に指定
- 宇治の平等院方面から宇治公園に向かう途中の橘橋から、宇治川の左岸(西側)に沿って続いている小道
- 「網代木(あじろぎ)」とは、宇治川で行われていた独自の漁法「網代漁」に使われる網代を繋いでおく杭のこと
- 全国に約800社ある愛宕神社の総本社
- 大宝年間(701〜704)に役行者らが愛宕山をひらいて神廟を築いたのが始まりとも、天応元年(781)に僧の慶俊が和気清麻呂が勅を奉じ王城鎮護の神として阿多古社を鎮座したのに始まるともいわれている
- 古来より鎮火の神として崇敬される一方、将軍地蔵は武家の崇敬を集めた
- 3歳までに子供が参ると、一生火難を逃れられるといわれている
- 修験道七高山のひとつで、天狗信仰により多くの修験者によって愛宕信仰は全国に広まった
- 「千日詣り」と呼ばれる通夜祭は、毎年7月31日夕刻より8月1日朝にかけて行われ、参拝すると1000日分の御利益がある
- 古くから葬地として知られる化野に、弘仁年間(810〜824)にくうかいがこの地にほうむられた人々を追善するために開創
- 当初は五智山如来寺として真言宗に属していたが、法然が念仏道場にしたことから念仏寺として浄土宗に改められた
- 8月23・24日には「千灯供養」が行われ、同寺にある8000体にも及ぶ無縁の石仏を供養する
- 毎年7月24日、午前9時半に烏丸御池から巡行が始まり、寺町御池でくじ改めが行われる
- 河原町御池と四条河原町では、方向転換の辻回しが行われ、四条烏丸辺りで解散して各鉾町に戻る
- 同日、午前10時からは八坂神社を起点に「花傘巡行」も行われる
- 亀岡市にある、西国三十三所観音霊場第二十一番札所
- 寺伝によれば、慶雲2年(705)に大伴古麿によって、薬師如来を本尊として創建
- 『今昔物語』などに記された、身代り観音の説話で有名
- 南観音山で、後祭巡行の前夜(7月23日)午後11時半頃から、御神体である楊柳観音と善財童子を輦台(れんだい)と呼ばれる台座に縛り付けて町内を3周する
- 「あばれ観音」が終わると、楊柳観音と善財童子は丁重に南観音山の上に安置され、翌日の巡行に臨む
- 御神体は町名の由来にもなってる公家の風早家伝来の天神(菅原道真)像
- 油小路通にあることから「油天神山」と呼ばれ、勧請された日が牛の日であったため別名「牛天神山」とも
- 今宮神社の門前名物で、東門前参道に長保2年(1000)創業の一和があり、その向かいに寛永14年(1637)江戸時代から続くかざりや
- 長さ20センチほどの竹串に、親指大にちぎった餅を刺し、きな粉を付けたあと炭火であぶり、さらに溶いた白味噌を付けたもの
- 毎年4月の第2日曜日に開催される「やすらい祭」では、あぶり餅を食べて無病息災を祈願する
- 今宮神社の境内にある不思議な石で、別名「重軽石」ともいわれる神占石
- 最初に手のひらで軽く3回叩いて持ち上げると重く、次に願いを込めて3回撫でてから持ち上げた時に軽くなったら願いが叶うという
- また、病気やケガなどがある人が健康になるように祈りながら石を撫で、その撫でた手で体の悪い所をさすれば健康回復が早まるともいわれている
- 日本三景のひとつである天橋立の北側には籠神社(このじんじゃ)が、南側には智恩寺がある
- 成相寺は日本三景の天橋立(国指定の特別名勝)を一望できる景勝地
- 雪舟は相国寺で学び、中国に遊学して、帰国後は日本の水墨画の師と仰がれた
- 晩年に描かれた「天橋立図」(国宝)には、天橋立を中心に智恩寺・籠神社(このじんじゃ)・成相寺・国分寺などが墨と淡筆で生き生きと描かれている
- 正式名称「捴見院(そうけんいん)阿弥陀寺」=捴見院は織田信長の法名
- 開山は清玉上人で、正親町(おおぎまち)天皇や織田信長など多くの武将の帰依を受け、元亀元年(1570)には伽藍が整った
- 天正10年(1582)の本能寺の変後に、清玉は信長らの遺体を荼毘に付して持ち帰ったとされることから「織田信長公本廟所」と称される
- 信長父子や森蘭丸をはじめとする家臣の墓がある
- 通称「古知谷(こちだに)阿弥陀寺」
- 慶長14年(1609)に木食上人弾誓(もくじきしょうにん-たんせい)が念仏道場として開祖
- 現在も弾誓の即身仏(ミイラ)が、本堂背後の開山窟に安置されている
- 本尊の「植髪の尊像」は、弾誓の自作自像と伝わる
- 境内にある「古知谷のカエデ」は京都市指定の天然記念物
- 2基ある傘鉾のうち、綾小路通に鉾町があることから綾傘鉾と呼ばれる
- 明治時代に途絶えていたが、昭和54年(1979)に再興
- 巡行の際などに行われる棒振り囃子が特徴で、壬生六斎念仏保存会によって演じられる
- 鉾には2つの大きな傘と、御神体の鶏が乗る
- 綾傘鉾は山鉾巡行の際に6人の稚児が徒歩で参加するが、毎年7月7日に八坂神社に参って祭の無事を祈願する「稚児社参」を行う
- かつては綾戸宮と國中宮の二社であったが、戦国時代に綾戸宮の境内に國中宮が移されて以来、現在の名称となった
- 祇園祭では、毎年7月13日に駒形を奉納する「久世駒形稚児」が当社から出るのがならわしで、神幸祭・還幸祭の際にはスサノオノミコトが乗る中御座神輿に供奉して先頭を行く
- 毎年11月の第2日曜日に大堰川一帯で、嵐山・小倉山の紅葉の美しさを讃え、嵐山蔵王権現に感謝する行事
- 渡月橋付近から平安管絃船・能舞台船・今様船などさまざまな趣向を凝らした船が、大堰川を上下しながら妙技を演じる
- また、湖畔に固定された船の上では嵯峨大念仏が上演され、島原太夫による茶の湯の点前披露や道中も行われる
- かつて京都に大火がおこった時、霰と天神(菅原道真)像が降って来て鎮火したとされることから別名「火除天神山」とも、錦小路にあることから「錦天神山」ともいう
- その時に降って来たといわれる天神像を祀り、その由来から火除け・雷除けのお守りが授与される
- 毎年10月の体育の日の2日前から15日にかけて粟田神社で行われる、一連の祭事で粟田神社大祭とも
- 体育の日に行われる神幸祭では、神輿渡御の露払いである剣鉾差しは、祇園祭の山鉾の原型とされる長さ約8m、重さ約40kgの剣鉾を1人で持ち、剣先をしならせながら鈴を鳴らして歩行する妙技
- 貞観18年(876)、出羽守藤原興世(ふじわら の おきよ)の奏上により清和天皇の勅命を得てこの地に大己貴命(おおなむちのみこと)を祀り、のちに牛頭天王(ごずてんのう)が合祀された
- また、一説にはこの地を治めていた粟田氏が、氏神として創建したとも伝わる
- かつては感神院新宮あるいは粟田天王宮とも呼ばれていたが、明治になって現在の名前に改称された
- 同社の石段下は旧東海道、東山道であり、今日の七口のひとつ「粟田口」にあたるため、古来より京に行き来する旅人が安全を祈願したことから旅立ち守護として崇敬
- 10月に行われる「粟田祭」は1000年以上の歴史があり、室町時代には祇園祭の代わりに祇園御霊会の役割も担っていた
- 北野天満宮の門前茶屋、天和2年(1682)創業の粟餅所澤屋の名物菓子
- 餡で粟をついて作った餅を包んだ餡餅と、その餅にきな粉をまぶしたきな粉餅の二種類
- 法然の弟子として知られる住蓮と安楽が開いた念仏道場に始まる
- この念仏道場に後鳥羽上皇の女御であった松虫と鈴虫が秘かに出家したことがきっかけで、上皇が激怒して念仏を禁止するとともに両僧は死罪となった
- また、師である法然も四国に流罪となるなど、関係者も粛清された
- 毎年7月25日には「鹿ヶ谷かぼちゃ供養」が行われ、中風除けに鹿ヶ谷かぼちゃの煮物が振る舞われ、寺宝が一般公開される
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