img街の魔法少女の素質ある「」を集めてるポン

登場キャラクター:

 彼女は祖父の本と共に大きくなった。
 彼女は大人しく振舞ったが本心は行きたい場所があれば地を這ってでも一端を逃すまいと血気盛んになる好事家な活動家。

 彼女の住居の裏には大きな山があり、熱水泉が沸いている。彼女は1871年に行われた地質調査において地質学者が注目し、その印象的な色彩から命名された。その色彩には青、緑、黄、オレンジ、金、赤及び茶が含まれ、光学プリズムによる白色光から虹色への分散を思い起こさせるそこへ赴くのを好んでいたようだった。泉の大きさはおよそ80×90mであり、深さは50mである。この泉は一分間に70℃の熱水が2,100リットル湧き出している。

 彼女の母親は警戒する気配すら見せず普通の友人を案内するようにどうぞ、と貴女達を彼女の部屋へと案内した。

 彼女の母親はお茶を用意すると下の階へと降りて行った。

 彼女の部屋には大量の本やファイルの詰まった立派な木製の大きな棚、無骨なパソコン、それらを申し訳程度に飾る様に少女向けの小物で飾られた家具が並んでいた。国語辞典や漢和辞典、百科事典はもとより、英英辞典、外国の分厚い専門書などが大きな本棚に窮屈そうに身を寄せ合っていた。
 しかしそれは蠢く本どものほんの一部に過ぎず、大半はわけのわからない外国の辞典、綿密な動物のスケッチで埋め尽くされた分厚い本、人体の本などが占めていた。それらはかなり古いものらしく、丁寧に使われてはいたが取り出して戻しを幾年も繰り返した事が読み取れるだろう。
 そんな中で貴女達は、棚の一区画の蔵書が他よりもかなり新しい事に気付くかもしれない。それこそ、本当にここ最近のもので数週間ほどしか部屋の主の彼女の世話になってはいない事に。
 そして彼達新入りの背中には、擦り傷とは無縁の少し線の入った真新しい『脳科学』の文字が読み取れるかもしれない。隣のファイルには大量の外国語の印刷物、どうやら論文のようだった。

 ・ファイルはA4及びB4サイズのものがあり、ページを構成する2枚の印刷された紙の間にもう1枚紙が挟まっている。内容は腫瘍学と脳科学と解剖学、遺伝子工学に関するものである。
  
 ・通常の細胞内にあるmicroRNAを破壊すると、細胞の結合を切断するPLEKHA7というタンパク質の生成が防がれ、細胞が増殖を繰り返しガン細胞に切り替わる
 ・そのプロセスを反転させる、つまりガン細胞中のmicroRNAを通常レベルにまで修復すると、ガン細胞の成長が止まるどころか、成長が退化し元の細胞に戻ったことが確認された
 ・細胞の過度な増殖と危機的な成長を防ぐ機能(microRNA)を修復することで、ガン細胞の成長をストップさせ元の細胞に戻すことができた
 ・鳥取大学医学部の研究グループが、2014年にmicroRNAを悪性度の高い未分化ガンに注入すると、正常な細胞に戻すことが可能なことを世界で初めて発見しました。ただし、日本の鳥取大学医学部が行った実験はマウスを使ったもの
 ・2015年08月27日 23時00分00秒
ガン細胞を元の良性細胞に戻すことが可能である研究結果が明らかに
 貴女達の中に姿や気配を消せる魔法少女がいるのなら、彼女以外の部屋を探る事もできるかもしれない。もしそれが可能であれば、彼女の詳しい診療記録及び家族の日記帳が見つけられるかもしれない。
 内容は小児精神科、小児脳科学科の診断結果と家族の日記帳と彼女と行っていた交換日記である。

 1歳、あの子は本当に本が好きなようでいろいろな本を熱心に眺めている。お伽話の本を与えれば地図帳と風土記と伝記を持っていってしまう。

 嗅覚と触覚が強い。遺伝的モザイク様を示す。

 魔法によって自らの躰躯を変形、マリーの魔法で修復を繰り返す。DNAを変形させ染色体を変化させる。頭部以外に身体の別の位置に副脳を生成する。

 軟体部分は「味が無いしこりこりして噛み切れない。」(ミル貝、ウミウシ)

 ディート (DEET) は昆虫などの忌避剤(虫よけ剤)として用いられる化合物である。IUPAC名は N,N-ジエチル-3-メチルベンズアミドだが、N,N-ジエチル-m-トルアミドとも呼ばれる。分子量 191.27。融点 ?45 ℃、沸点 285 ℃で、常温では無色液体である。水には溶けにくくアルコールなどの有機溶媒によく溶ける。CAS登録番号 [134-62-3]。消防法に定める第4類危険物 第3石油類に該当する。法規情報 (東京化成工業株式会社)。
 ディートは第二次世界大戦中のジャングル戦の経験に基づきアメリカ陸軍で開発された。1946年に軍事用、1957年に民生用の使用が開始された。現在ほとんどの虫よけスプレーなどで、主成分として用いられる。昆虫が一般にこの物質の臭いを嫌うのであろうが、忌避作用の詳細はわかっていない。この効果は昆虫に限らず、昆虫とは構造が全く異なるヒルやナメクジ等の一部にも有効である。

「付き合い始める前に一番悪いことを打ち明けあうのは、お互いにとっていい事じゃない?」
『人間が真に研究すべきは人間』
「しかし、彼はなかなか手ごわいと気づくはずだ。賭けてもいいが、君がホームズについて知るより先に、もっとホームズが君のことを知っているだろうな。さようなら」
大きな窓があり、明るく風通しの良い広い部屋だった。

「一滴の水から」著者は言う。「論理家は大西洋やナイアガラ瀑布が存在しうる事を、実際に見る事も聞くこともなく推察できる。同じように全ての生命は大きな連鎖になっており、その一つの連鎖を提示されれば、全体の性質はいつでも分かる。他の全ての芸術と同様、この推論と分析の科学は、長く忍耐強い訓練を通してのみ獲得できる。これを最高の次元にまで極めるには、一生をかけても十分とは言えない。精神的で知性的な様相に関しては最高度に難しい技術が要求されるので、この方面に応用する前に人間調査員はもっと初歩的な問題を解決することから始めるべきである。まず、ある人物に会った時、一目見てその人物の経歴と職業を見極めることを学習させるべきである。そういう訓練は他愛のないものに見えるかもしれないが、それによって観察の技能が鋭敏になり、見るべき点と探すべき箇所が学べる。人間の爪によって、コートの袖によって、靴によって、ズボンの膝によって、人差し指と親指のタコによって、表情によって、シャツの袖口によって、・・・・これらの一つ一つによって、人間の職業は明瞭に暴かれている。これらを総合すれば、いかなる場合であっても有能な人間調査員が解読に失敗するなどとは、ほとんど考えられないことである」

 人間と動物を分けるものは何か、というと、それは理性である。動物は本能に支配されて生きている。人間は、理性を持つことで、本能から自由になっている。自らの内側にある理性に従って生きることこそが、人間だけに与えられた自由である。本能や欲望や欲求に惑わされず、理性の声に耳を傾ける。すると、自分が何をしなければならないか、ということが、おのずと明らかになってくるはずだ。
カントの言う「義務」。どのような行動を自分がとらなければならないのか。
何をしなければならないのか。自分に問いかけることによって初めて、人間は本能や欲望や欲求から自由になることができ、しなければならない、と、自分の理性が命じる行動をとることこそが、真に自由になることである。人倫の形而上学の基礎づけ、カント。

 サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と説いています。彼の実存主義によれば、人間の本質を規定する神がいないならば人間は自由ですが、自由であることは同時に孤独も意味します。自分の行為に対する責任は自分自身にあり、自分一人で物事を決定せねばならないからです。
また、フロムは、人間は完全な自由の下では困惑し、却って自ら支配されることを望むという意味で「自由からの逃走」という言葉を残しています。

 西洋的な自由とは、父親を殺し、神は死に、実存は本質に先立ち、人を殺そうが自殺しようがすべては自我と自意識によって決定され、運ばれる状態を指していいます。
そして、それを虚無(ニヒリズム)と言います。
ドストエフスキィに言わすれば、そこは蜘蛛の巣のはった孤独と倦怠と退廃と空虚の閉ざされた世界ということになりましょう。
あなたの自由はそうなってはいませんか。
ところが他方、東洋的自由とは、天衣無縫、融通無碍、自由闊達な創造の世界を指して言います。
自由は、自己表現という意志のうちにあると言うのです。

 DNAすら魔法で変質させる。

 意識の迷妄
 人間だけはこうした因果関係から独立に、自らの意志で自由に行為できる、と思われるかもしれないが、このような「自由だ」という意識は、決定論によれば、自分の行為を決定している諸要因を知らないことに由来する迷妄である。今日学校に行かないことを自分で決めたように見えても、そのときの気分や体調、気候(温度・湿度)、昨日学校であった出来事など、さまざまな要因の複合的な因果作用の結果なのである。人間の内面や精神は物質界を支配する因果関係が入り込まない特別な領域であるように見えるが、感情や思考などの現象は脳に起きている生理的な現象であり、生理的な現象は複雑な物理現象である。

 決定論に対する批判
 だが、1)決定論は証明しようがない。宇宙の初期状態とすべての自然法則を知れば、その知識に基づき未来を予言できる。そして実際、何もかも予言通りに起きるならば、決定論は正しい。しかし、そのような知識は不可能なので、ある出来事が起きても、それが必然的に起きたのか偶然なのかは、わからない。2)犯罪を犯しても、決定論によれば、さまざまな因果連鎖の結果としてそうするほかはなかったということになる。だが、そうすると、もはや、行為の道徳的責任を問うことはできなくなる。
 3)物理学的な決定論はニュートン物理学に基づいているが、われわれは現代の物理学を知っている。量子力学によれば、運動する電子の位置は確率的にしか分からない。量子の世界だけではない。ウィーナーは因果作用を含めた情報の伝達にノイズが不可避であり、物理学は物理現象を確率論的にしか扱えないと言う。

 両立主義。また別の哲学者は、決定論と自由意志は両立可能であると考えた。これは両立主義(りょうりつしゅぎ)とよばれる考え方である。多くの両立主義者にとって、自由意思とは、「その個人の意志にしたがい、他者から妨げられることなく行動する自由」を意味する。この立場は両立主義の典型である。

 古典的両立主義。ホッブズのような両立主義者は一般に、人が行為を意志しその人が意志したならば別様に行為することが(仮言的に)できただろう場合にのみ、人は自由に行為する、と主張する[11]。彼らはしばしば、強姦、殺人、強盗、等々といった誰かの自由意志が否定される明快な事態を指摘する。この事態のカギは、過去が未来を決定しないという点にでなく、侵害者が犠牲者固有の行為についての欲求や選好を無視するという点にある。侵害者は、犠牲者の意志に反する行為を強いる。決定論は問題でなく、我々の選択が我々自身の欲求や選好の結果であり、いかなる外的な力によって(あるいは内的な力によってですら)も無視されない、ということが重要なのである。

 物理学。一般的に、「意志は脳の働き」であり、かつ、「脳が物理法則に従う」ならば自由意志はないと考えるのが適当である。逆に自由意志があるのであれば、これらの一方か、両方が否定されなければならない。

 生物学。物理学者と同様に、生物学者もまた自由意志の問題を頻繁に提起してきた。
生物学の最も白熱した議論の一つが「氏と育ち」(nature and nurture, 本性と教育)の議論である。人間的行為において文化と環境に比較して、遺伝学と生物学はどれほど重要であるか?遺伝学的研究は、ダウン症候群のような明白な場合から統合失調症になる統計学的傾向のようなより微妙な影響まで、個人の性格に影響を与える多くの特殊な遺伝的要因を見極めた。
かつては氏か育ちかという二者択一的な議論がなされ,社会学者は主に後者の立場から前者の立場を生物学的決定論として非難した(といっても育ち理論もつきつめれば決定論なのだが)。しかし,現在の生物学者の一般的な合意は、氏と育ちの両方によって人は形成されているのであり,さまざまな行為のそれぞれについて遺伝の影響と環境の影響が複雑に絡み合っているということである。

 自由とは何か。要は、自分の思うがままに考え、行動できることだと思う

自由には身体的自由と精神的自由がある

身体的自由は、身体が何者にも縛られずに、動かすことができること

精神的自由は、心が何者にも縛られずに、考え、感じることができること

身体的自由は、物理的に体を拘束するものがなければ、可能だろう

精神的自由も、心を縛り付けるもの、抑圧するものがなければ、可能だろう

しかし、心を縛り付けるもの、抑圧するものがない人間は少ないだろう

野生で生きていれば、ほとんど本能に忠実に生きれるかもしれない
しかし、社会を形成して生きていれば、ルールに従い、モラルや道徳を植えつけられる

それを、教育というのだろう

教育は、その社会に適した人間を育てるものだ

悪く言えば、その社会で都合の良い人間に調教することだ

その教育が、良くも悪くも心を縛り付けるものと思う

その社会で生きやすいように、心を作っていくのが教育だろう

身体は環境が変われば、物理的に自由になれる

しかし、心、精神は環境が変わっても自由になれないものと思う

トラウマや、洗脳などが良い例だ

その社会で生きてきて、自分が良いと思うことを、信じてきた

また、それまで自分が良いと思ってやってきたことが、間違ってたとしたら、それまでの自分を否定することとなる

それは、とても苦痛なことだ

そうなると、今までのやり方を守ろうとするだろう

それが、心を縛るものと思う



例を挙げると、ダーウィンの進化論だ

今までは、アダムとイブが最初の人間と思ってきた

しかし、祖先は猿だという理論が生まれた

今まで、自分が信じてきたものを否定しなければならないことになった

否定したくないがために、彼を迫害した

迫害した人たちも、もしかしたら、内心では、感づいていたのかもしれない

しかし、認めたくないがために、迫害した

これと同じで、信じて病まないものであればあるほど、それが覆されたときに苦痛を感じるだろう

心が縛られている状態だ



では、どうすれば自由になれるのか?

固定観念に頼るのではなく、自分で考えることが重要だと思う

しかし、自分で考えるのは疲れる

だから、決められた基準、世の中の基準に合わせて、それが自分の考えだということしているのだろう

そうなると、世の中の基準が変わったときに、自分の基準も変えねばならない

そこで、苦痛が生じる

自分で考え導き出した基準に従えば、世の中の基準が変わっても、自分自身の基準は変わらない

自分の基準があれば、うまく順応していくことができるだろう

世の中の基準にしたがって生きてる人は、世の中に心を預けている状態だろう

むしろ、世の中の基準に縛ってもらってる状態だと思う

自分の基準で生きている人は、自分に心を預けている状態

要は、何者にもにも影響されない状態といえるのかもしれない

その何者にも影響されない状態が、心の自由、精神的自由なのだと思う



世の中の考え方に心を預けるか、自分自身に心を預けるか、それもまた、その人の生き方なので、肯定も否定もすることはできないだろう

世の中の考え方に心を預けるのは、自分で考える必要がなく楽だと思う

また、他者と共感することができ、安心するのも事実だ

これは、程度問題なんだろうね

世の中の考えに心預ける割合が高いか、自分自身の考えに心を預ける割合が高いかだと思う

ある程度、心は縛られているほうが生きやすく、好ましいのかもしれない

しかし、自分の考えがなければ振り回されることとなる

実に難しい問題だね

しかし、何者にも捕らわれず、自分の考えを持って生きていくのが、精神的自由なのは確かなものと思う
http://ameblo.jp/pennywiselike/entry-11471889517.h...

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