時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

コンゴ連邦
Fédération du Congo


国旗

国章
国の標語Justice – Paix – Travail
国歌Debout Congolais
公用語フランス語
首都ルブンバシ
最大の都市
政府
 大統領 
面積
総計  1,187,422㎢
人口
総計  12,110,000人
GDP
41億540万USD
通貨コンゴ・フラン
時間帯UTC+2 (DST:+3)
コンゴ連邦(英:Congo Federation ) は、1958年にドイツ系住民が独立を宣言して成立した中央アフリカの国家である。
ドイツからの接収を免れたベルギー企業、ユニオン・ミニエール社とドイツ領中央アフリカ駐屯部隊の一部に後援されていた自由カタンガを打倒して建国された。



国名

歴史

(自由カタンガ)1957年の独立前において、アトラントローパ計画に基づいて中央アフリカ地域に移住したドイツ系住民は次々と独立を行う現地住民中心の国家に対して危機感を抱いていた。
アフリカにおけるドイツ植民地は急激に縮小しつつあり、現地住民に対して強いていた強制労働への復讐を恐れたドイツ系住民たちはドイツ本国の庇護を頼ろうとしたもののその試みは無駄に終わり、「ドイツ本国に見捨てられた」というような風評が広がることになる。
そうして疑心暗鬼に陥り現地住民に対する虐殺などを行っていた彼らに独立という方向性を与えたのは、カタンガにおける利権を失い経営状況が悪化していたユニオン・ミニエール社であった。
コンゴにおいて反ドイツ勢力の支援を行っていたベルギー系住民のグループを吸収していたユニオン・ミニエール社はカタンガにおける利権を再度確保することを目的としており、独立を求めるコンゴの現地住民よりも安全を求めるドイツ系住民の方がくみしやすいと判断して独立を扇動。独立後の鉱山利権と引き換えにベルギー系住民の反ドイツ運動への物資供与を停止する密約を交わした。
また、ユニオン・ミニエール社は同時期にアパルトヘイト政策を施行していた南アフリカと接触。南アフリカを中継した鉱山資源の輸出協定を締結し、ユニオン・ミニエール社と南アフリカは莫大な利益を得ることになる。
その後数十年間は南アフリカとの蜜月が続いていたが、南アフリカのアパルトヘイト政策放棄と輸出協定の破棄によってカタンガの財政は悪化の一途をたどっている。

中部アフリカ連邦の宣戦布告に呼応する形でコンゴ解放戦線の蜂起が発生。反ナチ解放軍と名乗るベルギー系住民の武装組織も蜂起し、自由カタンガは一夜にして崩壊した。
コンゴ独立戦線は臨時政府を樹立し、反ナチ解放軍を国軍として取り込みつつエティエンヌ・チセケディ氏を大統領に据えてコンゴ連邦の建国を宣言。
だが、1999年11月25日に発生したエティエンヌ・チセケディ氏暗殺事件によって政局は混乱している。

政治

政治体制は共和制。
・大統領は現在存在しない。
・内閣:閣僚は大統領が任免。首相は大統領が兼任。
・議会は一院制。
・政党:コンゴ民主党、コンゴ独立民主党、コンゴ自由党など

軍事

かつての反ナチ義勇軍を中心とした国軍とコンゴ独立戦線に所属していた民兵組織の2つが並立している。その他にも鉄道保安隊などが活動している。

経済

銅、コバルト、ダイヤモンド、カドミウム、金、銀、亜鉛、マンガン、スズ、ゲルマニウム、ウラン、ラジウム、ボーキサイト、鉄鉱石、石炭、プラチナなど様々な地下資源に恵まれており、輸出の約8割を鉱産資源が占める。そしてその全てを実質的にユニオン・ミニエール社が独占している。
その他にもLCCA(コンゴ湖沿岸開発公社)が経営する大規模農場がコンゴ海沿岸(旧コンゴ盆地)に形成されており、農業分野での伸長が著しい。

交通

鉱物輸送用の鉄道が発達しているが、客員輸送用の鉄道は発展していない。
国土の大半のインフラは未整備であり、一部の都市部のみが極端に発展した歪な状況にある。
現在中部アフリカ連邦からコンゴ港湾部を結ぶ鉄道が建設中である

国民・文化

国民の大半を現地住民が占めており、白人系住民は1割未満である。
だがミニエール社経営陣や国軍の大半は白人であり、1割に満たない白人の政治的優位に不満を持つものも多い。

治安

自由カタンガ時代の居留区制廃止により都市部の治安は悪化したものの、劣悪な労働環境の改善や治安維持活動に割ける人員の増加によって全体的にみると治安は改善している。

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