保守党 Conservative Party Συντηρητικό Κόμμα | |
設立年 | 1958年 |
本部所在地 | アテネ |
前身政党 | 人民党(ギリシャ) |
後継政党 | 民主党(除籍議員) |
役職 代表 1958年 - 1960年 アレクサンドロス・パパゴス 1997年 - ゲオルギオス・ラリス | |
政治的思想、立場 | 中道右派-右派 保守主義 (国民保守主義) (伝統保守主義) 包括政党 ナショナリズム 王党派 反共主義 国家主義 経済的自由主義 |
公式カラー | 青 |
1957年のギリシャ内戦後、アレクサンドロス・パパゴスは首相に任命され『戦後処理内閣』として内閣を発足した。これに人民党・自由党等の戦前政党が挙国一致内閣として参加(共産党等の臨時民主政府構成組織は不参加)しており、パパゴスは戦後処理に当たってこの不安定な政権を早急な安定政権に変えることを余儀なくされた。
まず、パパゴス政権での主要政党である人民党内には戦前体制への回帰派がおり、この派閥がパパゴスへ反発していた。
パパゴスは内戦の英雄という知名度と何年にも渡る右派政党の分裂を利用して人民党内へ工作し、多くの人民党議員と他党の右派政治家と共に『保守党』を結党した。
これによって人民党は主力とする政治家を失うこととなり、1年後には解散を余儀なくされ多くが保守党に合流した。
まず、パパゴス政権での主要政党である人民党内には戦前体制への回帰派がおり、この派閥がパパゴスへ反発していた。
パパゴスは内戦の英雄という知名度と何年にも渡る右派政党の分裂を利用して人民党内へ工作し、多くの人民党議員と他党の右派政治家と共に『保守党』を結党した。
これによって人民党は主力とする政治家を失うこととなり、1年後には解散を余儀なくされ多くが保守党に合流した。
1960年、パパゴスは首相辞任と共に保守党代表も辞任すると発表した。
後継者は右腕のコンスタンディノス・カラマンリスが有力視されており、この頃から新たな体制構築が始まっていた。
パパゴスはカラマンリスと度々対談しており、これらの時に次期体制の人事を話し合ったとされる。
しかし、新体制をめぐる路線で両者は対立したと言われておりパパゴスの旧軍人を含める『完全継承路線』と、カラマンリスの戦後処理の終了を告げる『新時代路線』が理由とされる。
完全継承路線はその名の通りパパゴス体制の継承を意味し、内戦で活躍した旧軍人政治家や旧人民党重鎮を優遇する体制をカラマンリスの下でも継続する路線。
新時代路線はパパゴス体制下の旧時代政治家の優遇を終わらせ、新たな政治家による路線。
最終的にパパゴスが党の崩壊を危惧し折れる形で完全継承路線を諦め、両者の主張する路線を融合した方針で合意した。
だが、カラマンリスの継承は簡単には進まなかった。
彼の他に後継者候補とされる
スピロス・マルケジニス
パナギオティス・カネロプロス
ステファノス・ステファノプロス
等がカラマンリス体制は党を崩壊に導き、パパゴスの築いた組織を破壊するものだとしたのだ。
反カラマンリス派はこれに同調するも結果は変わらず、パパゴスはカラマンリスに全てを継承すると同年死去した。
彼の死去によって三名はカラマンリス体制を支持せざるを得ず、保守党はカラマンリス派と他三名の派閥が存在することとなるが、その派閥もマルケジニスの臣従、カネロプロスとステファノプロス両名の死去によって吸収・崩壊に至る。
後継者は右腕のコンスタンディノス・カラマンリスが有力視されており、この頃から新たな体制構築が始まっていた。
パパゴスはカラマンリスと度々対談しており、これらの時に次期体制の人事を話し合ったとされる。
しかし、新体制をめぐる路線で両者は対立したと言われておりパパゴスの旧軍人を含める『完全継承路線』と、カラマンリスの戦後処理の終了を告げる『新時代路線』が理由とされる。
完全継承路線はその名の通りパパゴス体制の継承を意味し、内戦で活躍した旧軍人政治家や旧人民党重鎮を優遇する体制をカラマンリスの下でも継続する路線。
新時代路線はパパゴス体制下の旧時代政治家の優遇を終わらせ、新たな政治家による路線。
最終的にパパゴスが党の崩壊を危惧し折れる形で完全継承路線を諦め、両者の主張する路線を融合した方針で合意した。
だが、カラマンリスの継承は簡単には進まなかった。
彼の他に後継者候補とされる
スピロス・マルケジニス
パナギオティス・カネロプロス
ステファノス・ステファノプロス
等がカラマンリス体制は党を崩壊に導き、パパゴスの築いた組織を破壊するものだとしたのだ。
反カラマンリス派はこれに同調するも結果は変わらず、パパゴスはカラマンリスに全てを継承すると同年死去した。
彼の死去によって三名はカラマンリス体制を支持せざるを得ず、保守党はカラマンリス派と他三名の派閥が存在することとなるが、その派閥もマルケジニスの臣従、カネロプロスとステファノプロス両名の死去によって吸収・崩壊に至る。
上記のように継承は必ずしも簡単ではなかった。
代表、そして首相となったカラマンリスは国王とその側近への信頼と支持を得て、自身は王党派で保守派であると国民に知らしめた。これは内戦後の体制を維持し共産党等を再び合法化しないと示し、国内の右派や無党派の支持獲得を画策したのだ。
さらに、党内においてもパパゴス体制における有力者で過去に財務大臣を務めたマルケジニスとの協力、つまり旧パパゴス体制の議員との融和を始めた。
当初はパパゴス体制の継承を否定していたカラマンリスだが、やはりこれら体制を構築していた議員の協力なくば政権運営は困難を極めると予想されたからだった。
しかしその後の対応はマルケジニスとそのシンパの予想とは違い、カラマンリスは彼らを仲間とは認識しておらず逆に同派に対して人事権を背後にして圧力をかけ始めた。
最終的にマルケジニスが党の維持を第一としてカラマンリスを支持、同人の派閥へ派閥を合流させ体制における地位を確固とした。
カネロプロス、ステファノプロス両派はその後も反カラマンリス路線を継続していたが、カネロプロスは姪をカラマンリスに嫁がせ友好関係を構築し自身の死去まで派閥を維持させ、カラマンリス政権に対して保守的な政策に影響を残した。
一方のステファノプロスは他2つの派閥とは違い、完全な対立路線を敷いていた。時には党執行部を批判する言動を見せる程の反カラマンリス路線だったこの派閥は最終的に圧力によってステファノプロスが議員を引退し、その後に死去すると内部の対立によって瓦解した。
これによってカラマンリスは長期体制を構築することに成功し、マルケジニス、カネロプロスの協力もあり党内の支持基盤を強固とした。
この体制はカラマンリスが首相・代表を辞任する1997年まで続くこととなり、ギリシャ政治史に大きく残るものとなる。
代表、そして首相となったカラマンリスは国王とその側近への信頼と支持を得て、自身は王党派で保守派であると国民に知らしめた。これは内戦後の体制を維持し共産党等を再び合法化しないと示し、国内の右派や無党派の支持獲得を画策したのだ。
さらに、党内においてもパパゴス体制における有力者で過去に財務大臣を務めたマルケジニスとの協力、つまり旧パパゴス体制の議員との融和を始めた。
当初はパパゴス体制の継承を否定していたカラマンリスだが、やはりこれら体制を構築していた議員の協力なくば政権運営は困難を極めると予想されたからだった。
しかしその後の対応はマルケジニスとそのシンパの予想とは違い、カラマンリスは彼らを仲間とは認識しておらず逆に同派に対して人事権を背後にして圧力をかけ始めた。
最終的にマルケジニスが党の維持を第一としてカラマンリスを支持、同人の派閥へ派閥を合流させ体制における地位を確固とした。
カネロプロス、ステファノプロス両派はその後も反カラマンリス路線を継続していたが、カネロプロスは姪をカラマンリスに嫁がせ友好関係を構築し自身の死去まで派閥を維持させ、カラマンリス政権に対して保守的な政策に影響を残した。
一方のステファノプロスは他2つの派閥とは違い、完全な対立路線を敷いていた。時には党執行部を批判する言動を見せる程の反カラマンリス路線だったこの派閥は最終的に圧力によってステファノプロスが議員を引退し、その後に死去すると内部の対立によって瓦解した。
これによってカラマンリスは長期体制を構築することに成功し、マルケジニス、カネロプロスの協力もあり党内の支持基盤を強固とした。
この体制はカラマンリスが首相・代表を辞任する1997年まで続くこととなり、ギリシャ政治史に大きく残るものとなる。
長期体制を築いたカラマンリスの辞任表明によって今まで次期後継者として活動していた3名
であったがカラマンリスが指名したのは内務大臣のラリスであった。しかしラリスの党首就任後、野党やメディアからラリスの父がギリシャ国の首相であったことが大々的に批判された。ラリスの弁明も虚しく批判は収まらなかったことから党内からラリスの辞任を求める勢力が動き出した。ミツォタキスを中心としたこの反ラリス派は野党が提出した不信任案に賛成票を投じたが僅かな差で否決され、ミツォタキスは外務大臣を更迭された。
更迭後のミツォタキス派はその後に党に離党届けを提出し新党を結成した。だが党執行部は離党届けを受理せず除名処分とした。
内務大臣 | ゲオルギオス・ラリス |
外務大臣 | コンスタンディノス・ミツォタキス |
甥 | コスタス(コンスタンディノス)・カラマンリス |
更迭後のミツォタキス派はその後に党に離党届けを提出し新党を結成した。だが党執行部は離党届けを受理せず除名処分とした。
党を除名されたミツォタキス派の新党 民主党に半数近くの議席を取られる大敗を決した保守党では野党政党の交渉を余儀なくされた。連立なくば半数を取れず、政権運営に大きく影響することから党内では中央連盟党との連立が検討された。しかし直後に中央連盟党は崩壊。国民連合と新たなギリシャに分裂した。ラリスは比較的民主党に敵対的な旧中央連盟党保守派が構成する国民連合との連立交渉を開始し、連立政権が発足した。
パパゴス政権においては国民社会政府を構成した左派政党の弾圧が主な政策とされる。
さらに、キプロス共和国の分割によるオスマンとの対立関係を後世に残したことから評価が割れる政策の一つ。
カラマンリス政権初期は国内の反政府組織の鎮圧が主な政策としていたが、晩年の安定期になると国外に目を向けた。その成果の代表例がEMTO加盟であった。
しかし、これは以前までの中立外交を放棄しての加盟であったことから国内から反発を生んだ。
ラリス政権はテッサロニキ暴動など対応遅れが目立ち、連立政権を招いた。
さらに、キプロス共和国の分割によるオスマンとの対立関係を後世に残したことから評価が割れる政策の一つ。
カラマンリス政権初期は国内の反政府組織の鎮圧が主な政策としていたが、晩年の安定期になると国外に目を向けた。その成果の代表例がEMTO加盟であった。
しかし、これは以前までの中立外交を放棄しての加盟であったことから国内から反発を生んだ。
ラリス政権はテッサロニキ暴動など対応遅れが目立ち、連立政権を招いた。
役職 | 氏名 | 所属(出身)派閥 ※派閥導入後の所属 |
代表 | ゲオルギオス・ラリス | 新民主主義会 |
副代表 | ||
幹事長 | コスタス・カラマンリス | 保守研究会 |
政務調査会長 | ||
総務会長 | ||
国会対策委員長 | 保守研究会 | |
選挙対策委員長 | 新民主主義会 | |
キプロス問題対策委員長 | 新民主主義会 | |
広報本部長 | ミルティアディス・エバート | 改革清心会 |
新聞出版局局長 | 国民の会 | |
青年局長 | 保守研究会 |
カラマンリス派 | コンスタンディノス・カラマンリス |
マルケジニス派 | スピロス・マルケジニス |
カネロプロス派 | パナギオティス・カネロプロス |
ステファノプロス派 | ステファノス・ステファノプロス |
派閥名 | 派閥長 |
新民主主義会 | ゲオルギオス・ラリス |
保守研究会 | コスタス・カラマンリス |
国民の会 | エヴァンゲロス・アヴァロフ |
改革清心会 | ミルティアディス・エヴァート |
真の保守会 | パノス・カンメノス |
愛国心・国民研究会 | テオドロス・スカイラカキス |
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