都立西高に関係ありそうなことをまとめるサイトです。 卒業生が思い出に浸れる場所であり、現役生が今を感じられる場所、そんなサイトにしていきましょう。

<<西高の1980年代       西高の2000年代>>
 1990年1991年1992年1993年1994年1995年1996年1997年1998年1999年
90年に西高で起きていたこと
・警備員が民間委託となる
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:)

90年あたりに西高で起きていたこと
(慰労祭のファイヤーストームで化学部が作ったロケットを使って焚き木に点火するセレモニーがあった。屋上からファイヤーストームまで針金を張って針金伝いにロケットが走っていくはずだったが、熱で針金が切れ、ロケットがあらぬ方向に飛んで行き、何人か負傷するということがあった。)
(柱ネタの名前が「おしぼり一本」だった。)
(二、三年振りに通り抜けばあさん出現。)

90年に西高外で起きていたこと
・東京株式市場大暴落
・イラク軍がクウェート侵攻、全土制圧
・東西両独統一
・初の大学入試センター試験実施
91年に西高で起きていたこと
・西高が誕生してから20000日が経過する
・「学習の手引き」を新入生に配布開始
・運動会が午後から中止となる
・この年から西高独自の学校説明会実施
・浪漫倶楽部が一時停止する
・校長焼き打ち事件発生
 運動会の聖火着火式の時、新任の校長先生が聖火台の着火鍋をのぞいてしまったために、突然火のついた火薬を避け切れず火傷を負ったという事件。
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:)

91年あたりに西高で起きていたこと
(この頃の修学旅行は萩・津和野が定番。)
(六十パーセントの人が神を信じていたらしい。)
(記念祭委員長や運動会委員長はダイブで愛の泉まで運ばれ、愛の泉に飛び込んでラストを飾るのが伝統だった。ちなみに、この頃の愛の泉は今よりも囲いが低いうえに大きかった。しかも生き物が住めないヘドロの池で、委員長は見るも無残な姿になって引き上げられていた。そしてその後、「都立西高校万歳!」と三回全員で言い、学友歌を歌っていた。)

91年に西高外で起きていたこと
・湾岸戦争勃発
・ソ連解体
92年に西高で起きていたこと
・卒業旅行での飛行機使用禁止撤廃       
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:)

92年あたりに西高で起きていたこと


92年に西高外で起きていたこと
・公立学校第二土曜日休日となる
・毛利衛さん宇宙へ
93年に西高で起きていたこと
・プレハブ校舎建設着工
・プレハブ校舎へ引っ越し(2学期より)
・校舎棟解体工事着工
・浪漫倶楽部活動再開
  皇居のお堀で泳いだために、学校に右翼団体から電話が掛かってくるなど、相変わらずの活躍振りだった。
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:)

93年あたりに西高で起きていたこと
(卒業式の服装!上はモーニング、下はステテコ。ゴジラの着ぐるみ。)
(食堂で上履きを売っていたらしい。)
(西高砂漠…洗濯物を干していた家から「水まけ」と絶叫する女性が出現。)
(改築前旧校舎の屋上に、古ぼけた机がありその上にどんぶり(学食の)があったらしい。)

93年に西高外で起きていたこと
・新教育課程暫定案決定
・ラムサール条約締結
・ウルグアイ・ラウンド妥結
・ロシア憲法発布
94年に西高で起きていたこと
・冬クラマの競技を三種目に縮小して行う
・安全祈願祭
・校舎全面改築着工
・夏クラマに百人一首が加わる
・プールがないため、体育の授業に水泳がなくなる
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:)
・運動会はこの年から駒沢オリンピック公園第一競技場で開催。多数の遅刻者を防ぐために、鉄道研究部が「運動会時刻表」を作成

94年あたりに西高で起きていたこと
(新歓がプロレスショーメインだった。)
(新歓マスク二世がいた。果たしてその実体とは…?)
(新歓に参加する新入生が減ったためにこの頃「新歓を立て直そうの会」が有志で発足された。)
(運動会競技「我が飢えてるの悩み」(男女二人三脚による障害物競争)登場。)

94年に西高外で起きていたこと
・グループ選抜から単独選抜制度による学力検査実施
・新教育課程に移行
・松本サリン事件発生
・シューメーカー・レヴィ第九すい星が木星に衝突
・関西新空港開港
・国連総会で「旧敵国条項」削除を決定
95年に西高で起きていたこと
・入学者選抜に推薦制を導入 推薦枠一割
・この年の一年生から八学級編成となる
・卒業式は中野ゼロホールで行われた
・運動会は外部の運動場を借りて行なわれた(95、96年。駒沢オリンピック公園第一競技場)。
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:)

95年あたりに西高で起きていたこと
(記念祭で大学受験有志団体「浪人倶楽部」なるものがあった。そして、第四十八回記念祭大賞は三年有志団体「現役合格」。また、慰労祭にはNBT(ニシボディビルディングチーム)なるものがあった。冬クラマには駅伝にでる三年有志と先生による「師弟ボーイズ&ガールズ」というチームがあった。)
NBTは水泳部有志である。また、「師弟ボーイズ&ガールズ」は某体育教官Y川先生を中心としたグループであった。
どちらも、数年(すくなくとも99年頃までは)続いていた。

95年に西高外で起きていたこと
・新教育課程最終案決定
・第二・第四土曜日休日となる
・阪神大震災発生
・東京の地下鉄内で猛毒サリン散布される
・東京為替市場相場一ドル=80円突破、79円記録
・オウム真理教教団代表麻原彰晃、松本千津夫を逮捕
・水俣病患者の未認定患者救済問題40年ぶりに決着
・輸入血液製剤による薬害訴訟で被害者らに国が謝罪
96年に西高で起きていたこと
・平成八年度推薦入試実施 推薦枠二割
・3月新体育館竣工
・卒業式は新体育館で行われた
・校舎棟・プール竣工
・外構工事・校舎全面改築竣工
・校舎落成
 総工費約五十億円、総面積一万四千平方メートル。新校舎になり、部室に鍵が付いた。以前は部室に鍵は付いていなく、土日も自由に登校し部活ができた。

・夏クラマに男子バスケが復活する
・古川九雄事務長逝去
・外構工事着工
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:)

・運動会は外部の運動場を借りて行なわれた(駒沢オリンピック公園第一競技場)。
・放送部、下校放送のBGMとして、宇井かおり「帰ろう」を採用する。ここで試聴できます(音楽ダウンロード・音楽配信サイト-MySoundより)
 実はレコード会社の協力(?...まぁ、販促のためにデモテープを送りつけてきたといったところが正確なところらしい...)で西高オリジナルなアナウンスが吹き込まれた「帰ろう」は、50期によって採用された。以降、下校放送として定着することになる。放送部員にとっては、卒業生や転任する教員からダビングを頼まれたり(もちろん著作権違反になるので、原則として対応できないことになっている)、曲名を聞かれることは決して珍しいことではないのだが、放送している側の部員も曲名や来歴については、知っていたり、知らなかったりする。その実は、毎度面倒なアナウンスをしなくて済む(録音されている)ので採用した、とも云われる。ちなみに97年には、「下校放送を変えてみよう週間」という試みが成されたこともあるが、不評だったため断念され、このときをもって不動の地位を築いたと考えられる。ただし、記念祭や運動会などで下校時刻が2度になる(一応は申請制なので、正確には「延長」ではない)期間については、弾力的で「帰ろう」を2度使用する場合と、その他の音源(特に98年頃までは「帰ろう」採用以前に使っていた曲)を使用する場合とに別れる。これは、内部で運営責任をとっている期(普通は部長のいる学年で、2年生ということになる)によって、規定を設けている期と、その日の担当者に任せている期があるため、微妙に対応が違うためである。

96年あたりに西高で起きていたこと
(アマチュア無線部、部員不足から廃部へ)

96年に西高外で起きていたこと
・百武すい星最接近
・情報公開法要網案まとまる
・天然痘ウイルス撲滅
・厚生省は病原性大腸菌O157被害で研究班設置
・学校週五日制の完全実施は二十一世紀初頭を目途とする答申を文相に提出
・いじめ対策で最終報告
・国連総会本会議で包括的核実験禁止条約(CTBT)を圧倒的多数で採決
・四年制大学生の就職率過去最低
・中野区で教育委員会準公選が廃止され任命制となる
97年に西高で起きていたこと
・運動会で緑団が結成される
・美化委員長、ダイブ失敗事件
 記念祭の慰労祭で美化委員長が体育館ステージからダイブしたが、誰にも受け止められず、肋骨を折る大けがをした
・庵野秀明監督、撮影のため来校
 夏休みに撮影のために「エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督が来校。撮影準備のため教室から、練習中の演劇部が追い出された。ちなみにアニメ「彼氏彼女の事情」のエンディングに、このとき撮影した西高の映像が使われている。また、アニメ本作の舞台設定としても使用されたため、同アニメにはプール下ピロティーなど西高独自の場所も出てくるらしい。
・放送部、新シフト設計とデジタル化へ向けた「次世代計画」を始動
 新校舎落成に伴い、これまでのシフト(機材組み)を大幅変更、ほぼ白紙の状態から立ち上げ直した。オリエンテーションでの視聴覚ホール使用についての規定や申請書様式が整えられたり、デジタル機器の導入が積極的に行なわれることになるなど、ほぼ現在に至る基礎を築いた時期である。
・事務員ヨネ対会計局長戦、勃発
 やたらに声の高い事務員ヨネと会計局長の仲が著しく悪化する。本来はヨネの仕事である事務処理も会計局長がやらされたりしていたせいらしい。会計局長は、かなりグロッキーに。生徒会室では日夜、当時流行していたSPEEDの唄の歌詞の語尾「くれたよね〜」というところにあわせて、「ヨネ〜!」という絶叫が聞こえた。
・生徒総会で言葉狩りが横行する
 この頃、生徒総会で毎回、広辞苑を片手に登場して、「辞書によると、その言葉の定義は...」といって、ひたすら質疑を延ばす生徒がいた。
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:、緑:)

97年あたりに西高で起きていたこと
(男子ハンドボール部、停部)
(部室で賭け麻雀をしているところを発見され、御用に。活動停止になる。その後、問題の学年以外は活動再開の許可が
出た)

97年に西高外で起きていたこと
・「都立高校改革推進計画」策定
・杉並病原因裁定申請事件
・武装テログループによるペルー日本大使公邸襲撃・占拠事件発生
98年に西高で起きていたこと
・二外に中国語・ハングルが加わる
・創立六十周年記念誌発行
・西高サリン事件
 化学部の会計担当が、ガスマスクなどを含む注文書を誤って民家にファックスし、サリン事件のあとのだったために驚いた民家が警察に通報。事情聴取をされるという騒ぎになった。
・セクハラ停学事件
52期のある生徒が教育実習生として来たOGに対してセクハラ行為を行ない停学になった。
・カチコネカ・コレクション解体へ
 時の生徒会長の「だらしがない」の一言で、一部の生徒会関係者から有名だった「カチコネカ・コレクション」が解体された。
 ちなみに「カチコネカ・コレクション」は、数代前の学園局長であったカチコネカ(愛称)が、訪問先の学校の上履きやスリッパを片っ端から貰い集めてきたもので、そのコレクションは、ほぼ全都立高校を網羅し、なおかつ北は北海道、南は九州の学校まであったと伝えられる。
・テレビ「欽ちゃんの仮装大賞」に出演したクラスがあった。
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:、緑:)
・西高校舎TV出演
 この年の10月〜12月にTV東京で放映されたアニメ「彼氏彼女の事情」のエンディングの映像に西高の廊下の映像が使われた。毎回映像が変わっており、別の廊下の映像であったりした。初回は、教室棟2階、それ以降は、図書室前を過ぎる廊下やグラウンドなどもあった。
監督である庵野秀明氏がこの前の年に西高を訪問した。ロケハンの目的もあったらしく、同アニメのいたるところに西高の風景が使われている。彼氏彼女の事情EDfrom YouTube

98年あたりに西高で起きていたこと
(かつて西高には下校時間というものが存在しなかったらしい。そのため、ルイージが西高に赴任する前の体育教員の主任が下校時刻がないのはおかしい、ということで他の高校と比較して下校時刻を作ったらしい。←ここらへんの情報はかなりあいまいなのでだれか詳しい人、編集よろしくお願いします)
(屋上に上がる秘密の通路があった。新校舎のできる前までは屋上は自由に解放され、いつでも上がることができた。なぜ屋上が閉ざされたのかは不明。)
(この頃の修学旅行は京都・奈良が主流だった)
(西高十期は贈呈品として初めは中庭に大きなケヤキの木を植える予定だったが教育委員会が現在の比較的小振りなケヤキの木を贈ったため、最終的に二本の桜や石庭の石、愛の泉の装飾品を贈った。しかし、竜安寺の石庭をイメージして送られた石は十トンとかなり重く、その上、土台が不安定なので撤去された。計六十万円を費やしたが幻の石庭となった。今ある石は十六期の贈呈品である。また愛の泉は、ペリカンの口から水が噴き出していたが、電気代がもったいないと、校長が言ったため二日間しか噴水としての役割を果たさなかった。こちらも幻の愛の泉となった。)
09年

98年に西高外で起きていたこと
・秋田新幹線開通
・ヘール・ボップすい星最接近
・消費税率五パーセントに
・「都立学校等あり方検討委員会報告書」が出される
 これにより、従来の都立学校の閉鎖的な体質が厳しく指摘され、学校管理の健全化と開かれた学校の推進を目指し、校長のリーダーシップを発揮しやすくするための施策が次々に実施されることになる。(巻頭言 石井校長、七十周年記念誌より抜粋)
99年に西高で起きていたこと
・第十六代石川校長就任
・クーラー設置
 たしか第一特教だけだったような気がする...。誰も恩恵に預かっていない...。
・運動会種目「職員競技」が、この年が最後の実施となる
 職員競技は、この数年は「樽転がし」だった。
 ちなみに、放送部では毎年のBGMに「キューピー3分クッキングのテーマ」(「おもちゃの兵隊」の編曲)や「セガサターンシロ!」などを用いて、ネタ度を強める演出をしていた(このためだけに3000円近くの部費を使ったり、キューピー本社広報課に問い合わせたりしていた)、一説には、この演出で「遊び過ぎたため」不評を買い、職員競技が中止になったとも云われている。
・運動会マスコット(赤:、青:、黄:、緑:「お茶缶」)

・「西高の門」鉄パイプ組みが廃止に
 この年を最後に記念祭の「西高の門」の鉄パイプ組みがなくなり、以降、門が貧弱になってゆく。
当時までは骨組み土台として、鉄パイプを組み上げていた。夜中まで続いたそれは、ほとんど建設工事に似ていたが、危険であるとの指摘が大勢を占め、また大小様々な鉄パイプによる骨組み設計のできる用務員さんがいなくなることなどから、強制的に鉄パイプは数十センチづつにバラバラにされてしまった。

・昼の校内放送再開
 48期?から数年間途絶えていた昼の校内放送が「昼の校内放送」(番組名)として、同年1月から再スタートした。その後、数年に渡り、週2回の定期放送を行なうようになる。なお、この年3月の最終放送の某体育教官Y川先生をゲストにした特番だけ聴取率が異常に高かった。リスナー・プレゼントの「先生のサイン色紙」は演劇部室に置かれることになったらしい。

・リーダー会議はじまる
 生徒会長の提案で、リーダー会議がはじまる。当初は、単なる意見交換のための非公式の集いであった。これに対して当時の評議会議長は、生徒会正規機関以外に機関設置をすることは統制の二重化と現行機関の形骸化を招き、今後の教務の走狗になりうるとして参加を拒否。生徒会長に明確な説明を求めたが為されず、この代の議長は永世中立を宣言して、リーダー会議を公式なものとさせないため、結局最後まで出席しなかったが、生徒会長は副議長以下の議長団と結託。生徒会則上最高ポストである評議会議長を完全に無視する形でリーダー会議は強行的に進められ、出席しない議長は「サボり」「偏屈」との中傷を受けることになる。しかし実際には、リーダー会議は当時の教務主任と執行機関代表に過ぎない生徒会長が、立法議決機関の長である評議会議長の意向を無視し、評議会の弱体化を計り、指導権を得ようとしたクーデターである。これは、当時の議長が書記、副議長を歴任した後、1期の間、落選によって議長団から外れた期間、落下傘として現れた新議長が自称評議会改革を推進(中身は何もなかったが事務手続きが少し変わった)するが、翌期に前述の議長が議長として返り咲き、改革前への回帰と保守主義を掲げるが、改革を行なった前議長が副議長となり、これを阻止しようとし、生徒会長と結びついたという、生徒会内部の抗争が大きな原因とみられている。

・前期生徒総会、流れる
 西高の生徒総会は、よく定数割れで流れる(承認議決できない)。しかし、流会すると再招集のため授業が潰れるため、教務は流会を避けるよう議長団に厳命しているし、日程の都合から各実行委員会は発足が遅れ行事に支障を起こし、また部活動なども活動停止になることから、運動部の対外試合や練習ができなくなるため体教からも圧力がかかっている。そのため、帰りづらいよう校門を閉めたり、声掛けをしたり、議長団は本来様々な対策をとるが、この代の議長は一切、抑止活動をしなかった。一説には、教務や体教の圧力を完全に無視して、「(流れて、有り難みを)実感すればいい」と事前に発言し、ほとんど意図的に流会させようとした節がある。結果、出席は3割に満たず流会。すべての生徒会活動、部活、委員会が停止し、生徒会の全権が議長のものとなった。その後、再招集時は出席が9割を超え、その後しばらくは流会しなかったという。

・生徒会誌「マスメディア」では、国旗掲揚と国歌斉唱についての校長に対する質問状などが複数掲載されたが、一切、返答はなかった
・卒業式の音楽は通常は放送部が体育館放送室からかけるが、国歌のみは放送部を通さずに、(おそらく教務室から)強制的に放送された。このことについて、放送部に対して事前事後とも説明はなかった。
・卒業式では、多数の卒業生が、国歌斉唱の際に着座して、暗黙の抗議を示した。しかし、一方では「テポドン」の着ぐるみがいたりと、その他については相変わらず不謹慎な(良い意味で)卒業式だった。

99年あたりに西高で起きていたこと
(当時は緑団のことを「リョクダン」と呼んではいけなかった。「ミドダン」だとか。)
(この頃、記念祭有志の演劇団体の活動が活発で、スカウトマンまで来たらしい。)
記念祭有志演劇団体のなかに子役として活動する生徒がいた。
スカウトマンの話しは、当時は出ていなかったので、その子役出身者のプロダクションの人ではないだろうか。(以上推測)

99年に西高外で起きていたこと
・国旗国歌法制定
 広島県立高校の校長が国旗、国歌をめぐる教員との対立から自殺したのをきっかけに制定された。時の小渕恵三首相は「政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません」(1999年6月29日、衆議員本会議)と答弁した。国歌の扱いについても、ほぼ同様の答弁がなされた。また「頭からの命令とか強制とか、そういう形で行われているとは考えておりません」と国会で答弁した。野中官房長官も「強制的にこれが行われるんじゃなく、それが自然に哲学的に育まれていく、そういう努力が必要」と答えていた。
・石原都政の元、米長邦雄が東京都教育委員に選ばれる。2007年まで務める。
・戦後7度目の学習指導要領改定
・二千円札発行
・ユーロ誕生

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