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稲葉振一郎 「SFという信仰」を読んだ感想をメモしておこう。

はてなダイアリーに掲載した私の文章(昨日ここにアップした「現代とファンタジー」と同じ内容)に稲葉氏がリンクを貼ってくれていたので、上記の文章を読んだ。私の文中では、大航海での稲葉氏の文章へは何も論じていないのだが、それ以降で論じた内容が一部で、上記の氏の論と重なるところがあるためリンクを貼ってくれたのだろう。

なかなか鋭い論が展開されていた。稲葉氏の文章自体が、「SFという信仰」を体現する、まっすぐとした若竹のような、すがしさを持っている。SFの良さってのは、そこだよな。ファンタジーは世を拗ねたような姿勢なのに対して、SFはすっくと屹立する伸びやかな姿勢である。

最後あたりの、現代とSF、に関する論考は駆け足で、急ぎ過ぎだし、首を傾げたくなる感じがしたが、SFとファンタジーとジャンルSF・ファンタジーの分類から、SFという態度、までの流れは見事だ。

人間の想像力というのは、それほど自由ではない。というか、けっこう単純である。論理で言うと、演繹からは想像は働かない。想像を呼ぶのは帰納または、類推である。逆にまじめな理論的考察をする場合には、帰納は危険だ、さらに類推は特に危険だ。ウソが簡単にまじるから。

SFが要求する想像力の多くは実は帰納に基づく。それも比較的単純な線型補完による。グラフ上に2つ点があると、それを結ぶ直線の上に未来が乗っかっているという、考え方だ。

私は、時代が線型補完では何も見えなくなったため、SFは衰退したのだと思う。逆にSFとは世界が線型に補完できるということを、多くの読者が信仰できた希有な時代に生まれた特殊なフィクションの形式だと考える。

ファンタジー(上記の彼の文中では幻想文学)は、類推を使う。心理的に重なり合うものを重ね合わせて同じ機能にしてしまう。一種の写像である。オリジナルの空間を、別の空間にマッピングする。その関数をどう作るかが主眼となる。作り方によっては、オリジナルの空間そのものの構造がより鮮明に浮かび上がってくる。

メタフィクションは、関数群それ自体を空間にマッピングする。無限の入れ子構造、再帰的関係が生まれる。

稲葉氏の文中で一番ぐっときたところを要約しながら、少し引用しよう。
正統的なSFの想像力は、(中略) 世界そのものの基本構造の方に向かっている

現実に連続しているという制約のもとで、世界の不思議を現前させようとする姿勢が向かう先だ。
世界そのものの基本構造についての想像をめぐらすこと、世界は我々が知っているよりも広くまた複雑である、と期待すること――それが「SFという態度」(後略)

水平に広がる想像力、まっすぐに立ち上がる想像力、それこそがSFらしさだ。
「SFという態度」を上のようなものとして理解するならば、(中略) 現実そのものの探究へと向かう方が自然である。

自然科学の研究者の多くにSFマニアがいるのは自然である。
こう考えるならば狭義の、フィクションとしてのSFとは未知なる現実世界の探究への「踏み台」、「登り終えたあとは捨てられるべき梯子」である

そうだなぁ。ある部分、その通りだと思う。「過去から来た未来」ではないけれど、古いSFというのはいずれも「チャチ」な感じがする。玩具っぽい。しかしル・グインや、レムのSFは、未だにすっくと鮮やかに伸び上がっている感じがする。何故だろう。
幻想文学やメタフィクションは乱暴に言うと「懐疑」「不信」の上に成り立っているが、SFはことばの強い意味での「信仰」の上に成り立っている。それはリアリズムやジャンルSF、ジャンル・ファンタジーの「ごっこmakebelieve」とは違う、世界の実相についての本当の「信仰belief」なのだ。

まっすぐだねぇ。

彼の文章を読みながら、景気も多少上向きになってきたことだし、みな、こういう真っすぐに屹立する想像力を求めているんじゃないかな、と思ったりした。もしかすると、もう一度、本格SFが書かれ、読まれる時代がくるかもしれない。

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