当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

 2024年7月10日に本稿を書いております。

 現在、本年11月15日に発売予定の『アサシン クリード シャドウズ』(開発・発売はユービーアイソフト。以下、「UBI」と略記します)というゲームが炎上しております。
 炎上は、このゲームの主人公が弥助という人物であることが判明したことに端を発するものですが、その後色々なことが明らかになり、現在はこのゲームの炎上理由(批判者がこのゲームを批判する理由)も多岐に渡っています。
 元々この炎上に関する私の意見は、このゲームを実際にプレイしてからこのゲームの感想記事で書こうと思っていたのですが、時機を失するうえにこのゲームをやるかどうかも極めて不透明なので、こういう形で公表することにしました。

 さて、前述の通り本作の炎上理由は多岐に渡っており、状況は複雑化しているため、批判意見であれ擁護意見であれその内容は論者によって一人一人異なるはずです。そのため、「批判派の意見」や「擁護派の意見」という形で(論者個々人の意見の細かい相違点を無視したうえで)大づかみな議論を行うのは厳密さを欠くのですが、ある程度共通点を掬い上げていくことは可能なので、そういう形で論を進めます。

 本作の舞台は、戦国〜安土桃山にかけての日本です。主人公は奈緒江というくノ一と、弥助という黒人男性の2人体制になっています。奈緒江は架空の人物ですが、弥助は実在の人物です。彼はヴァリニャーノという宣教師が日本に連れてきた従者(奴隷の可能性も高いですが、ヴァリニャーノの下でどの程度の扱いを受けていたのかははっきりしません)であり、織田信長が気に入って買い取り、扶持を与えていたとの記録が残っています。とはいえ弥助に関しての史料は僅かな内容のものしかなく、信長からどのような扱いを受けていたのか、どのようなことをしていたのかはほとんど分からないといっても過言ではありません。「弥助」というのも日本で付けられた名前であり、出生地でどのような名前だったのかは分かりません。逆に言うとこの空白が、フィクションによる「色付け」の自由度を高めてもいます。
 さてここまでは実在の弥助の話ですが、本作における弥助は、前述の「色付け」が派手に為されたかなりフィクショナルな人物像になっています。歴史上の弥助は、本能寺の変で戦っていたという記録はあるものの、それ以外の戦闘に参加したとの記録はありません。ただ本作の弥助は、派手な甲冑に身を包んで町中を闊歩し、棍棒を振り回して敵を殺す侍として描かれています。とはいえ、批判派もこのフィクショナルな描写そのものを攻撃しているわけではありません。本作もゲームという表現作品のひとつであり、そうである以上史実をベースにした舞台設定にフィクションが混ざるのは普通のことでしょう。現に『仁王2』というゲームにも、弥助をモデルにしたと思しき「漆黒のサムライ」というキャラクターが登場しますが、この「漆黒のサムライ」も身の丈ほどもある斧を振り回して戦う現実離れしたキャラクターでした。
 批判派が言うのは、「(本作における描写がフィクショナルであることそのものではなく)UBIが本作の描写を『史実に忠実だ』と主張しているのはおかしい」ということです。そもそもUBIが本当にこんなことを主張しているのかどうかすら不透明で争いがあり、状況は混沌としています。とはいえ、上記の批判論拠を踏まえればUBIが「本作はフィクションです」と宣明しさえすれば収まる話であるにもかかわらず、炎上後現時点に至るまでに中身のある釈明が為されていないのは事実です。そのうえ、本作の炎上後にトレイラー映像等で時代考証の甘い描写が多々見つかり、そこを弥助と結び付けて「UBIが悪意をもって日本の過去の歴史や文化を歪めて伝えようとしている」という意見まで出てきています。炎上がここまで大きくなった背景には、いわゆるポリティカルコレクトネス(以下、「ポリコレ」と略記します)的な思想がこれまでに表現の業界で集めてきたヘイトがあることは否定できないでしょう。
 ここからは、私の意見です。
 私も一応「笑い」という表現の世界に身を投じているので、表現活動はできるだけ自由であった方がいいと思っています。自由の範囲も、大きければ大きいほどいいと思っています。フィクションのお話を作るのも表現、それを史実だと主張するのも表現です。後者の表現は、歴史学的には内容に誤りがあるということになりますが、誤った表現も表現であり、(笑いの種にもなる以上)これを封じない方がいいと思っています。他方で、誤りを誤りだと主張・指摘するのも表現、そのような誤りを含む作品を発売するなと主張するのも表現です。これらも表現の自由の範囲内にあるものとして保護されるべきでしょう。歴史学的にどちらの主張が正しいかは、あとは表現の自由市場内でお互いの表現を戦わせて決着をつけるべき話です。つまり現在の侃々諤々の状況は、表現の自由市場がとても正常に機能している望ましい状態だと考えられます。本作の発売中止を求める署名活動や、これに対するカウンター署名も巻き起こっていますが、これも表現活動の一環であり、止めるようなことではありません。無論、これを踏まえてUBIが本作の発売を中止するのも、あるいは発売を強行するのも表現活動の一環です。政府の介入や暴力による表現の封じ込め等々の「表現以外の手段で他者の表現を封じ込める」ような状況に発展しなければ、歓迎して静観すべきでしょう。なお、いくら「表現の自由の範囲はできるだけ大きい方がいい」とは言っても、Nワードや吊り目ジェスチャーみたいな直接的な差別表現は、さすがに禁止せざるを得ないと思っています。とはいえ、私の理想としては、こういった表現すら許容される世界(=こういった表現の受け手が大したダメージを受けずに笑い飛ばせる世界)が遠い未来でもいいのでいつか訪れたらいいな、とは思っています。
 「歴史学的に誤りのある表現を保護すべきなのか」ということに疑問をお持ちの方もいると思います。私は、前述のようにこれも保護すべきと思います。その理由は、憲法学の議論を持ち出せば色々な正当化の根拠を挙げることもできますが、私の個人的な見解を箇条書きにしておくにとどめます。
・誤っている表現は、笑いものにできるので笑ってやればよい(逆に言うと、笑いの種になるものは多ければ多いほど笑いの表現市場も豊かになる)
・誤りの表現には「それは誤りだ」という表現で対抗すればよい
・誤りのある表現は保護しないという考え方を推し進めていくと、少しでも正しくない部分を含む表現が封じ込められる状況になりかねない。それは表現市場を貧しくするし、弾圧者による規制の口実になりかねない。
・三国志演義やら平家物語やら史実だと誤解されているフィクションの描写はいくらでもある。誤った歴史が流布されることがそこまで危機的なことだとは思われない。
 そうです。我々もカプコンに「フランス革命に松平定信が参戦して無双するゲーム」を作ってもらい、「これは史実です」と主張してやればいいのです。私は、「表現」という手段の範囲に止まるのであれば、禁じ手なしのノーガードで殴り合うのが正しい表現市場だと思っています。それで、いいではありませんか。

 ちなみに「UBIが本作の描写を『史実に忠実だ』と主張しているのはおかしい」と言っている人は、奈緒江のことは批判しません。少なくとも私は奈緒江を批判している論者を発見できてはいません。くノ一なんて弥助以上に実在したかどうかがあやふやな存在だと思われます(無論、敵の家中に女中のような身分で紛れ込み、諜報活動めいたことをしていた女性はいたでしょうが、フィクションの忍者のように暗殺任務等をしていたくノ一が実在していた可能性が高いとは思われません)が、なぜか弥助ばかり攻撃の対象にします。これは本作の炎上の背景にポリコレに対するヘイトがある一つの証左だと思われます。
 とはいえ、弥助ばかりを攻撃して奈緒江に対してはだんまりを決め込むのは、批判派のやり口としては悪手だと私は思っています。前述のように、弥助も奈緒江も嘘くささでは同等なのに、前者のみを攻撃するのは完全なるダブルスタンダードになっているからです。なぜこの手の論者がこのダブルスタンダードに無自覚なのか(あるいは、故意に無視しているのか)は、推測するよりありませんが、彼らの言う「史実」とは、本当の史実ではなくて「僕がかっこいいと思う昔の日本」だから、なのではないでしょうか。おそらく彼らにとっては、「かっこいい」という条件を満たしてさえいれば、フィクションでもいいのです。くノ一や、『Ghost of Tsushima』の境井仁は、フィクションだとしてもかっこいいからOKなのです。ただそれを正面から言うのはダサすぎるので、「史実に忠実であれ」という主張を隠れ蓑にして中立を装っているのではないでしょうか。
 ただこのやり口は、非常に独りよがりです。そのうえ、もっともらしい主張を前面に出してして真の意図をその後ろに隠すというやり口は、彼らが批判しているUBIのやり口(実際のUBIが本当にそのような意図で動いているかはハッキリしません。あくまで彼らが仮想敵としている彼らの頭の中のUBIの話です)と一緒です。「史実に忠実に再現しただけ」という主張を隠れ蓑にして、ポリコレ(黒人)ごり押しという真の意図の実現のために黒人を無理やり主人公に据える手法と、本質的には変わりがありません。敵と同じレベルに落ちてしまったら、勝てる戦いも勝てなくなるのではないでしょうか。

 最後に、ポリコレを批判する際によく言われる意見として、「私の好きなIPやシリーズにポリコレをねじ込んで欲しくない」というものがあります。ただ本作に関して言うと、この意見は私には響きません。なぜなら、アサシンクリードというIP自体にそこまで期待をしていないからです。私は、アサシンクリードシリーズはUBIがよく作る「ガワだけはそれなりにちゃんとしているように見える70点台のゲーム」だとしか思っていません。ゆえに、ポリコレに浸食されようと知ったこっちゃない、というのが正直なところです。まあ、本作がどういう出来になっているかはリリースされたものを実際にやってみるまで分かりませんけどね。

管理人/副管理人のみ編集できます