我が故郷、長崎
本村俊弘

日本は島国です。島の数は六八五二あります。この中で人が住んでいる島は約四〇〇です。あとは無人島です。島の中で中心になる島は北海道、本州、四国、九州の四つの島です。私の故郷長崎は九州にあります。長崎は港町です。長崎が日本の中で大きな位置を占めることになったのは、ポルトガルとスペインの帆船が来るようになってからです。一五四三年に種子島に漂着したポルトガル人からもたらされた火縄銃は、その後の日本の歴史に大きな影響をあたえました。火縄銃は瞬く間に日本各地に広まり、刀鍛冶の職人たちが作り始めます。その当時の日本は戦国時代といって日本の統一を目指して戦いが盛んに行われていました。その中で岐阜の戦国大名織田信長が、火縄銃を取り入れた戦法で勝利をおさめ日本統一を成し遂げようとしていました。
その後本格的にポルトガルとスペインの船団が貿易を目的として日本にやってきました。その一つの証拠に今の日本語の中にポルトガル語が生きています。いくつか例を挙げると、一、カルタ(carta) 二、金平糖(confeito) 三、フラスコ(frasco)、四、煙草(tobaco) 五、合羽(capa) 六、ビードロ(vidro) 七、パン(pao) 八、コップ(copo)などがあります。ポルトガル・スペインからもたらされたのは貿易品だけではありませんでした。
日本にキリスト教を最初に伝えたのは聖フランシスコ・ザビエルでした。ザビエルは一五四九年八月一五日に九州の鹿児島に上陸しました。鹿児島から平戸、山口、京都、大分と約二年間、日本で宣教活動をします。その結果六〇〇人の人々がキリスト教の信奉者になりました。山口の戦国大名の大内義孝に置時計、望遠鏡、眼鏡、火縄銃、葡萄酒、オルゴールを贈呈して山口での布教活動の許可を得ている。このように西洋の物品が日本に初めてもたらされた。ザビエルはヨーロッパに送った書簡の中で日本人のことを次のように書いています。
「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます」(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』)
フランシスコ・ザビエルは一五五二年に中国の広東省で亡くなりますが、一六二二年に教皇グレゴリウス一五世によってローマで聖人となりました。
ザビエルが日本を去ってから優秀な宣教師たちが続々やってきて布教活動を行います。名前を挙げると、イエズス会士のガスパル・ヴィレラ、ルイス・フロイス、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、ルイス・アルメイダ、ガスパール・コエリョ、フランシスコ会士のジェロニモ・デ・ジェズス、ルイス・ソテロ等です。
 話を長崎に戻すと、長崎を支配していた大村純忠がポルトガルとの貿易を通して、日本で最初のキリシタン大名となります。ポルトガル商人は良港としての長崎を発見します。長崎は大村純忠の領地だったので、ポルトガル商人は大村純忠に長崎を寄港地として使わせてもらうようにお願いした。大村純忠もポルトガルとの貿易の拡大を願っていたので、許可した。それは一五七一年のことだった。当時の長崎の人口は一五〇〇人ほどでした。現在長崎県庁があるところに教会が建てられました。住民のほとんどがキリスト教の洗礼を受けていたと思われます。教会は複数建設され、仏教寺院を改造して作られたトードス・オス・サントス教会が作られた。しかし当時の日本は天下統一される前で、戦国時代とよばれる戦乱の世の中でした。それは武力によって領地が奪われるということです。大村純忠の領地も佐賀の竜造寺隆信が狙っていて、度々攻撃を受けていました。大村純忠は大きな決断をします。領地の長崎と茂木をイエズス会の宣教師たちに寄進したのです。条件としてはポルトガル船からの停泊税でした。佐賀の竜造寺隆信に長崎を奪われてしまうと、その停泊税も得られなくなります。寄進した年は一五八〇年でした。天下統一を目指していた権力者の豊臣秀吉はこのことを一五八八年に知り、直ちに教会領となっていた長崎と茂木を自分の領地としました。豊臣秀吉のことを少し紹介します。日本の統一を目指していた権力者の織田信長はキリスト教を弾圧しませんでしたが、家来の明智光秀によって夜襲を受け自害します。同じ織田信長の家臣だった農民出身の豊臣秀吉が明智光秀と戦い勝利をおさめます。その後豊臣秀吉は一五九〇年に天下統一を果たします。
その間、宣教師たちの熱心な布教活動により日本各地でキリスト教の洗礼を受ける人が急増します。宣教師たちは日本に教会、神学校、大学、病院、活版印刷所を作り、西洋の学問である進学、哲学、ラテン語、音楽、絵画、天文学、暦学、数学、地理学、航海術、医学などが教えられた。教会ではグレゴリオ聖歌が歌われました。キリスト教が広まるにつれ権力者の豊臣秀吉にとっては脅威に感じられるようになっていきます。先ほど述べた長崎と茂木が教会領となり要塞化していることを知って驚き、今まで容認していたキリスト教の布教を禁止し、バテレン追放令をだします。バテレンとはポルトガル語の神父を意味するpadreぱーどれからきています。宣教師を日本から追放し、キリスト教を禁止しました。最初は厳しいものではありませんでしたが、一転して厳しい禁教令を実行しはじめたのは、一五九六年に四国の土佐に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の取り調べの報告を聞いてからでした。
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