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【定義】

仝彊としての善悪の業(行い)によって報われる結果を、報われる時世での遅速にしたがって3種類に分類したもの。現世で報いを受ける業を「順現法受業」。次世で報いを受ける業を「順次生受業」。第三世以降で報いを受ける業を「順後次受業」とする。簡単に、「順現報・順次報・順後報」という「三報」ともする。また、このような時期が定まらない不定業も合わせて4種類とする。この詳細は『倶舎論』巻15「分別業品第四之三」にて説かれている。
論じて曰く、此上に説く所の順楽受等、応に知るべし、各、定・不定の異有り。定受に非ざるが故に、不定の名を立つ。定に、復、三有り。一には順現法受、二には順次生受、三には順後次受。此の三の定業、并びに前の不定と総せて、四種と成す。 『大正蔵』巻29-81c

道元禅師の『正法眼蔵』の巻名の一。95巻本では84巻、60巻本では8巻。撰述年代や場所は不明。なお、60巻本系統には建長5年(1253)3月9日に、永平寺首座寮にて懐弉禅師が書写をしたことが奥書されている。現在では、が発見されたため、この△倭隶橡棔焚悉颪)ではないかと推定されている。
12巻本『正法眼蔵』の8巻として収録される△琉柬棔12巻本の発見が明治期であったこともあり、古来から「三時業」といえば、△任△辰燭、最近ではこのをもって道元禅師の意図が表現されたものとしている。

【内容】

道元禅師は、同巻の冒頭で『景徳伝燈録』から鳩摩羅多尊者の伝記を引用しながら、凡夫は都合の良いときだけ因果が発揮されることを望み、そして都合の悪いときには因果が起きないことを願うということを批判している。
尊者曰く、何ぞ疑うに足らんや、且く善悪の報に、三時有り。凡人は、但だ仁なるものは夭、暴なるものは寿、逆なるものは吉、義なるものは凶なりと見て、便ち因果を亡じ、罪福を虚しと謂えり。殊に知らず、影響相隨うこと、毫釐も忒うこと靡く、縱い百千万劫を経るとも、亦、磨滅せざることを。時に闍夜多、是の語を聞き已りて、頓に所疑を釈けり。

そこで、このような見解を受けながら、道元禅師は仏法の修行に於いて、因果や業報や三世や善悪を正しくわきまえることが肝心であるとされ、特に『大毘婆舎論』から様々な例を引用して、学人に対して三時業の事実を示すのである。
いはゆる善悪之報有三時焉、といふは、三時、一者順現法受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時といふ。仏祖の道を修習するには、その最初より、この三時の業報の理をならひ、明らむるなり。

道元禅師は、善悪の行為に対しては、様々な報いがあることを、明らかにされようとした。善い修行を進めるからこそ、菩提を得るのであり、その逆ではない。そして、一通り提唱された後で、悪いことをして、すぐに報いが来なくても、油断してはならず、必ず来ることを想い、日常に於いて因果歴然を信じて、身を律していくべきであるとした。
悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟するによりて、悪報の、感得せざるにはあらず。悪思惟によりては、きたるべき善根も、転じて悪報のきたることもあるなり。悪思惟は無間によれり。

また、同巻中では後半に、業に於ける報いについて、「本来空」を強調しながら、因果撥無を主張している中国禅宗の長沙景岑を批判している。一度してしまった行いについて、それをそのままにしておきながら、報いがないとすることは出来ないとして、長沙に対して、次のように述べている。
業障の当体をうごかさずながら、空なり、といふは、すでにこれ外道の見なり。業障本来空なり、として、放逸に造業せむ衆生、さらに解脱の期、あるべからず。

なお、三時業の他にも報いが来る時期が判明しない不定業などがあるとして、三時業と並んで学ぶべきであると説き、またどこまでも鳩摩羅多尊者についての見解を仏祖の見解として尊崇すべきであるとする。
参学のともがら、この三時業をあきらめむこと、鳩摩羅多尊者のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業なり、廢怠すべからず。このほか不定業等の八種の業あること、ひろく参学すべし。いまだこれをしらざれば、仏祖の正法つたはるべからず。この三時業の道理あきらめざらんともがら、みだりに人天の導師と称することなかれ。

このように述べてくると、ただ悪い報いだけが強調されがちだが、善悪の行いについて、特に善い行いを強調していけば、成仏への道となり、また悪い行いについては、懺悔することで軽くなったり、滅されたりするという。行為は行為によってのみ、その結果が出てくることからすれば、懺悔すれば滅するということもまた、因果歴然でなくてはならない。
世尊のしめしましますがごときは、善悪の業、つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふといふとも、不亡なり。もし因縁にあへば、かならず感得す。しかあれば、悪業は懺悔すれば滅す、また転重軽受す。善業は、随喜すればいよいよ増長するなり、これを不亡といふなり、その報なきにはあらず。

【道元禅師と三時業】

12巻本に収録されていることから、道元禅師が「三時業」に見るような、因果論に行き着いたのは比較的晩年ではないかという見解がある。確かに道元禅師の説法を収録した『永平広録』では、最晩年に「三時業」への言及が見える。
謂く、業報に三種有り、一には現在受業、二には後受業、三には生受業。此の三種の業、影響相い随う如し、鏡を以て像を鋳るに似たり、と。 「祖山本」巻7-485上堂(「卍山本」では「生受業」と「後受業」の順番が修正されている)

この上堂は、『正法眼蔵』「三時業」巻にも見える鳩摩羅多尊者の故事を採り上げ、仏祖にとっての因果論を強調しているという特徴がある。しかし、道元禅師がそれまでの著作等で全く三時業について触れなかったわけではない。懐弉禅師との問答を収録したとされる『正法眼蔵随聞記』では、次のような言葉がある。
また冥機冥応、顕機顕応等の四句有る事を思フベシ。また現生後報等の三時業の事も有り。此等の道理能々学スベキなり。 巻2-15

これは、末世の比丘には破戒をする者もいるが、それらを悪い僧だとして断じようとする在家信者の心持ちを批判した内容となっている。そこで、以上に引いた「三時業」は在家信者への説法として使われたものと考えられる。つまり、在家信者による布施などの行為は、僧侶の善し悪しには依存せずに、ただ至心に供養をすることに、善い報いがあると説かれたのである。

また、中国で如浄禅師と問答した道元禅師が、そのノートとしてまとめている『宝慶記』では、「三時業」巻で、道元禅師も批判した長沙景岑の業報観について、如浄禅師もまた、同様に批判していたことが知られる。
仏法、若し長沙の道の如くんば、何ぞ諸仏の出世・祖師の西来有らんや。堂頭和尚老師禅師示して曰く「長沙の道、終に不是なり。長沙、未だ三時業を明らめざるなり」と。 第16問答

これらから分かることは、やはり何か必要に応じて、因果歴然としての諸仏出世・祖師西来を説かれたのだろう。道元禅師には、生涯を通じて修証無用論を否定されようとしたが、三時業もその原理として使われたものと考えられる。瑩山禅師は、『伝光録』にて三時業に言及されている。
且らく善悪の報に三時あり。大凡そ人の、仁ある者、中夭あり。卒暴なる者、寿命長し。逆罪するも吉祥?なり。義深き者、凶悪なるを見て、過去をも明らめず、未来をも会せず、唯眼前の境に惑はされて、即ち因果なし、罪福虚ししと思ふ。是れ則ち愚痴の甚しきなり。学道おろかなる故に是の如くなり。三業とは、一に順現業。今生善悪業を修するに、即ち一生涯の中に報を受く、是を順現業と名く。二に順次生受業。今生業を修して次の生に果報を受く。五逆七遮等は必ず順次生に報を受く。三に順後業。今生に業因を修して、次の三生四生、乃至無量生の間に業果を受く。然れば過去の善業に依て、今生の善を受くと雖も、或は往業に依て今果不同なり。謂ゆる純善悪業因の者は、今生純善悪業果を感ず。雑善悪業の者は、雑善悪業を受るなり。又仏法修行の力、重を転じて軽を受け、軽を転じて今は無らしむるなり。 『伝光録』第20章

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