曹洞禅・仏教に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々について管理人が研究した結果を簡潔に示しています。曹洞禅・仏教に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

仏法とは、他人から教えられるものではなく、他に求めるものではなく、自分自身で各々理解すべきであるという見解。

【内容】

道元禅師は、仏道修行の基本を、「或従知識・或従経巻」とされ、さらに「正師」を得なければ学ぶ必要がないとまで言い切っているが、各自理会という概念を振りかざした中国禅宗の一派(臨済宗楊岐派)では、そのような参学方法自体を否定していたとされる。
某甲、そのかみ径山に掛錫するに、光仏照、そのときの粥飯頭なりき。上堂していはく、仏法禅道、かならずしも他人の言句をもとむべからず、ただ各自理会。かくのごとくいひて、僧堂裏都不管なりき。 『正法眼蔵』「行持(下)」巻

この冒頭にある「某甲」とは、道元禅師の本師である如浄禅師の自称であり、道元禅師は、中国禅の一派に、各自理会を説いた例があることを、自らの参学中に聞いていたことになる。そして、その如浄禅師の言葉を引用しながら、当時の中国禅、そして、ここでの批判対象である仏照徳光の系統になる達磨宗を批判したものとも推定されるが、後者については確定が出来ない。なお、さらに、如浄禅師は以下のように批判されたことを、道元禅師が伝えておられる。
仏法、もし各自理会ならば、いかでか尋師訪道老古錐あらん。真箇是光仏照、不曾参禅也。いま諸方長老無道心なる、ただ光仏照箇児子也。 「行持(下)」巻

なお、この各自理会に相当するような概念として、「冷暖自知」「自証自悟」というものがあって、臨済宗楊岐派の大慧宗杲なども、そのような「冷暖自知」を唱えていた(『大慧書(下)』)。

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