【定義】
江戸期の曹洞宗が輩出した学僧の雑華蔵海による『正法眼蔵』の註釈書。蔵海は、詮慧・経豪の『御抄』及び、瞎道の『参註』を参照しながら自らの宗乗眼によって『私記』を著した。なお、この前には、準備段階として『傍註』も行っている。
撰述された年代や場所は、安永9年(1780)〜天明5年(1785)頃に、下総(茨城県)興正寺・武蔵(埼玉県)長田寺などで書かれた。
【内容】
まず、『傍註』についてだが、同著は後の『私記』に至る準備段階の著作であると考えられており、まさに、手元に『正法眼蔵』本文を置いて、語義や註解をメモしたものである。したがって、名前も特に付いておらず『傍注』は、後に岸澤惟安老師が付したものであった。内容は、諸本の対校、及び私註である。書かれた時期は不明であるが蔵海の多年にわたる成果であることは疑いがない。
そして、『私記』であるが、生来病弱の身であった蔵海は、それでも茨城の興正寺で寺門の興隆に勤め、また自身は坐禅と『正法眼蔵』参究に意欲的に取り組んでいた。そして、『私記』は体調がすぐれていたとき、折々に書かれたものである。その時には、経豪の『御抄』、そして瞎道の『参註』を参照(蔵海は自ら、江戸駒込吉祥寺?の栴檀林にて指月慧印と瞎道本光に参じていた)しながら、更にその問題点などを自らの宗乗眼にて批評しつつ参究したという。
なお、『傍註』同様に『私記』もまた、自らの備忘録のような性格だったようで、公開する予定はなかったようである。ただ、法嗣の恬休良寂には、自筆の『私記』草稿本95巻分を付与したとされる。これは、師資相承の一環として、祖本の理解について師資で統一させようとしたものである。また本山版『正法眼蔵』の開版事業に従事した大愚俊量による写本があるという。後に世に広まったのは、この俊量系統の写本である。
【テキスト】
・『永平正法眼蔵蒐書大成』(第19巻)
・『正法眼蔵註解全書』(1〜9巻)
江戸期の曹洞宗が輩出した学僧の雑華蔵海による『正法眼蔵』の註釈書。蔵海は、詮慧・経豪の『御抄』及び、瞎道の『参註』を参照しながら自らの宗乗眼によって『私記』を著した。なお、この前には、準備段階として『傍註』も行っている。
撰述された年代や場所は、安永9年(1780)〜天明5年(1785)頃に、下総(茨城県)興正寺・武蔵(埼玉県)長田寺などで書かれた。
【内容】
まず、『傍註』についてだが、同著は後の『私記』に至る準備段階の著作であると考えられており、まさに、手元に『正法眼蔵』本文を置いて、語義や註解をメモしたものである。したがって、名前も特に付いておらず『傍注』は、後に岸澤惟安老師が付したものであった。内容は、諸本の対校、及び私註である。書かれた時期は不明であるが蔵海の多年にわたる成果であることは疑いがない。
そして、『私記』であるが、生来病弱の身であった蔵海は、それでも茨城の興正寺で寺門の興隆に勤め、また自身は坐禅と『正法眼蔵』参究に意欲的に取り組んでいた。そして、『私記』は体調がすぐれていたとき、折々に書かれたものである。その時には、経豪の『御抄』、そして瞎道の『参註』を参照(蔵海は自ら、江戸駒込吉祥寺?の栴檀林にて指月慧印と瞎道本光に参じていた)しながら、更にその問題点などを自らの宗乗眼にて批評しつつ参究したという。
なお、『傍註』同様に『私記』もまた、自らの備忘録のような性格だったようで、公開する予定はなかったようである。ただ、法嗣の恬休良寂には、自筆の『私記』草稿本95巻分を付与したとされる。これは、師資相承の一環として、祖本の理解について師資で統一させようとしたものである。また本山版『正法眼蔵』の開版事業に従事した大愚俊量による写本があるという。後に世に広まったのは、この俊量系統の写本である。
【テキスト】
・『永平正法眼蔵蒐書大成』(第19巻)
・『正法眼蔵註解全書』(1〜9巻)
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