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【定義】

道元禅師(或いは、中国臨済宗の無準師範禅師)の法嗣とされ、現在の山形県鶴岡市羽黒町内に善見山玉泉寺(現・国見山玉川寺?)を開いたとされる了然法明禅師のこと。号は弘章とも。

出身:高麗国(『日本洞上聯灯録』巻1参照)
生没年:不詳

【内容】

了然法明禅師について、詳細は不明ではあり、江戸時代以降の各種史伝に見られる記述を総合せざるを得ない。『曹洞宗全書』「大系譜」では、道元禅師の法嗣に名前が見えるが、古伝には一切その事績が見えない。また、道元禅師には了然道者(了然尼?)という尼僧が参じていたことが『永平広録』巻8-法語4・12などから知られるが、この法明禅師は了然尼とは別人であると思われる。法明禅師については、曹洞宗以外でも以下の事績が見られる。
羽州法明和尚は、有道老宿なり。師、往きて見ゆ。 『雲樹孤峰和尚行実』

以上の通り、瑩山禅師の「四門人六兄弟」に数えられる孤峰覚明禅師は、羽州(現在の山形県)にいた法明禅師に参じたというが、これが了然法明禅師だと推定されている。なお、一時的に加賀大乘寺に住したことで知られる恭翁運良?禅師は「羽州の玉泉の法明禅師に受業す」(『延宝伝灯録』巻15参照)などともされて、法明禅師と臨済宗法灯派との関わりを示す。他にも以下の一節が知られる。
(享徳3年[1454]甲戌)羽州三荘大泉酋帥右京兆淳氏、法明長老の遺跡を見て、玉泉寺、久しく蕪穢に属す。常に以て念と為す。有る時、一介を遣り、謙宗に就いて、其の再興を求む。宗、老衰するを以て、之を辞す。(康正元年[1455]乙亥)春三月上澣、大泉酋帥右京兆復た其の華族を遣り、前越後守高坂文遵、重ねて玉泉の再興を求む。宗、老邁なりと雖も、其の志を感じ、之を許す。秋八月、玉泉に趣き、輙ち蓁莽を披きて小屋を構え、名を玉漱軒と曰ふ。軒の前に池を開き、流泉活活たり。山門の外に川有り、之を玉川と謂う。其の源、月山より出づ。其の地、国見と名づく。旧くは善見山玉泉寺と称するを、今、善を改めて国と為し、泉を改めて川と為し、国見山玉川寺と称す。 『種月南英謙宗和尚行業記』

南英謙宗禅師には『玉漱軒記』(種月寺所蔵)があり、本来は同記録を参照すべきだが、略して上記の記録を参照しておきたい。どちらにせよ、謙宗禅師の記録により、玉泉寺と法明禅師とが結び付けられる様子が分かる。そして、南英謙宗?禅師が玉泉寺を再興し、現在の玉川寺へと改称された経緯も理解出来よう。さて、その後の記載だが、江戸時代に入ると面山瑞方禅師が道元禅師伝研究に因み、法号で了然を持つ方について検討されたが、当初、以下のように記載されていた。
尼了然〈法明と号す。高麗国人なり。久しく師に参じ、得法の後、羽州の玉泉に住す。本録中、示す所の法語二篇有り〉。 『永平実録?

『永平実録』は1710年の完成だが、その後、1727年に嶺南秀恕禅師による『日本洞上聯灯録』が出ると、同巻1末尾の「考証」に「一 了然章」の項目が見え、「永平下に二人の了然有り。一に法明の号、二に尼の名なり」としている。そこで、面山禅師は後の『訂補建撕記?』を編む際に、巻末の附録「祖席旧参」項で「了然比丘尼」と「玉泉法明」とを分けて掲載するに到っている。なお、法明禅師と道号の了然との結び付きについては、更に検討していきたい。

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