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【定義】

師匠と弟子とが、時間や場所を隔てていながら法を付すること。面授を重んじる曹洞宗では、代付と並んで邪義となる。遥かに付することから、遥付という。
いわゆる法系、寺に属して、人に属せざる習ひとなるゆへに、師弟子と称するもの、数十年相隔てて、其人を知らず、其の名をきかずといへども、本寺及び前住の代り付せらるるに依て相続して怪まず。これ其の一つなり。又其の代り付するといへども、亦其の代る所の師をしらず、妄りに其寺所伝の法脈を以て、先に受け来るの名も亦聞ざるの師に代りて、これを付して疑はず。これ其の二つなり。 『宗統復古志

なお、この遥付否定の思想的根拠は、道元禅師の説示に依る。
釈迦牟尼仏、まさしく迦葉尊者をみまします、迦葉尊者、まのあたり阿難尊者をみる、阿難尊者、まのあたり迦葉尊者の仏面を礼拝す、これ面授なり。阿難尊者、この面授を住持して、商那和修を接して面授す。商那和修尊者、まさしく阿難尊者を奉覲するに、唯面与面、面授し面受す。かくのごとく、代代嫡嫡の祖師、ともに弟子は師にまみえ、師は弟子をみるによりて、面授しきたれり。一祖・一師・一弟としても、あひ面授せざるは仏仏祖祖にあらず。 『正法眼蔵』「面授」巻

面授の定義が以上のように定められている一方で、同巻の奥書では以上の定義に則さない薦福承古を批判した。
七仏諸仏の過去・現在・未来に、いづれの仏祖師資相見せざるに嗣法せる。なんぢ、黄檗を見処不円といふことなかれ。なんぢ、いかでか黄檗の行履をはからん、黄檗の言句をはからん。黄檗は、古仏なり、嗣法に究参なり。なんぢは、嗣法の道理、かつて夢也未見聞参学在なり。黄檗は、師に嗣法せり、祖を保任せり。黄檗は、師にまみへ、師をみる。なんぢは、すべて師をみず、祖をしらず、自己をしらず、自己をみず。なんぢをみる師なし、なんぢ、師眼いまだ参開せず。真箇、なんぢ見処不円なり、嗣法未円なり。 「面授」巻奥書

これは、雲門文偃の語録を読んで得るところがあったため、雲門から嗣法したと主張した承古を、相見がないこと、面授ではないことを理由に批判したものである。つまり、ここから師資が遥かに隔てて嗣法することが否定されることになる。

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