☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
- 造営した人物と当初の造営目的
- 後水尾天皇に嫁した人物
- 江戸幕府の終焉を迎えた歴史的出来事
- 国宝の建物
- 障壁画・襖絵の流派
解答チェック
《解答例》※これらのポイントうち、赤字のキーワード部分を含む解説を適正に記述することができて正答 公式テキスト[増]36〜38ページ/[新]42〜45ページ
◦ 二条城は、徳川家康が征夷大将軍の受けるため、その居城として建設された。
◦ 着工に際しては、慶長6年(1601)5月に建設予定地だった4〜5000軒もの町屋が立ち退きを迫られたことが文献に残っていたり、同年12月には畿内の諸大名に建築費用の負担が命ぜられたことも
記録に残されている。
◦ 実際の築城は慶長7年(1602)5月に、京都所司代の板倉勝重がすべてを取りまとめる総奉行に命じられ、現場では大工頭の中居正清が作事を指揮し、建て物の配置やサイズを決める設計士にあたる
縄張りには築城の名手といわれた藤堂高虎があたった。
◦ 翌8年3月には完成し、征夷大将軍に命じられたばかりの徳川家康が、拝賀の礼を挙行するために早速入場した。
◦ それ以降は慶長19年(1614)11月に起こった大坂冬の陣や、続く翌年5月の夏の陣では軍議の舞台となった。
◦ また、元和6年(1620)には2代将軍となった徳川秀忠の娘の和子(のちの東福門院)が、後水尾天皇の女御として入内する際には二条城から祭儀が執り行われた。
◦ 次いで寛永3年(1626)には後水尾天皇が二条城へ行幸するなど、公武和合の舞台としても脚光を浴びた。
◦ 徳川幕府の繁栄を象徴するような二条城であったが、慶応2年(1866)には15代将軍の徳川慶喜が将軍宣下を受けるものの、翌年10月には政権を明治新政府に譲る「大政奉還」が行われ、奇しくも
徳川幕府の日の出と火の入り両方の舞台となった。
◦ 明治元年(1868)には新政府によって接収されることになり、その2年後からは京都府庁として活用された。その後、宮内省に移管され「二条離宮」と呼ばれるが、昭和14年(1939)には離宮が廃止
され京都市に下賜され、現在では「元離宮二条城」が正式名称となっている。
◦ 特に二の丸御殿は国宝に指定され、東と西の大手門や東南・西南の隅櫓、ホンマル櫓門や本丸御殿などは重要文化財である。また、築山林泉式の二の丸庭園は国の特別名勝となっている。
◦ さらに二の丸御殿の内部には、狩野派と呼ばれる狩野探幽・尚信・興似による豪華絢爛な障壁画や襖絵が描かれている。
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