日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(たけなか しげはる)
天文13年(1544年)生まれ、天正7年(1579年)没。

美濃国大野郡の出身で、西美濃の土豪・岩手氏の一族とされている。竹中重元(たけなか しげもと)の子。幼少期は稲葉山城で人質生活をおくっていたようである。

弘治2年(1556年)に、斎藤家内紛の際に半兵衛の父・重元は道三に付き、岩手氏を討伐、不破郡を領する。このあたりより竹中氏は斎藤家へ従属したようである。

 半兵衛は少年の頃より博識を知られる存在であった。軍事に詳しい反面、一般常識に乏しいという言い伝えもあるほどである。13歳の時に初陣をする。

 永禄7年(1564年)、斎藤竜興の居城である稲葉山城をわずか16名で一時占拠する。この時半兵衛21歳。稲葉山城に人質となっていた半兵衛の弟・久作と共謀したといわれている。半兵衛は番士の頭・斎藤飛騨守を切り、稲葉山城を占拠するが、約1年後、斎藤竜興と和睦し、稲葉山城を明け渡し、本人は隠居をする。この時、稲葉山城を狙う織田信長より帰属の誘いがあるも、断っている。

 隠居生活をしている半兵衛の元に、秀吉が再三織田に付くように説得にくる逸話が残っているが、これは風説であり、真実は定かではない。又、後の織田信長の稲葉山城攻略に半兵衛が尽力したという説も、逸話である為に真実はわからない。


 半兵衛が一級史料に再度登場するのは、織田信長が越前朝倉氏、北近江浅井氏と対立している頃である。姉川の合戦では安藤守就の陣に加わっていたようである。これより、半兵衛は信長の家臣団として、秀吉の配下になる。


 半兵衛は肺の病に犯されており、一旦は療養の為に陣から離れるが、治る見込みがないと悟った半兵衛は播磨三木城を攻めている秀吉の陣へ戻る。三木城の兵糧攻め【三木の干殺し】を提案したのは半兵衛であった。攻略期間約1年半、半兵衛は三木城が落ちるのを見ることなく、陣中にて没した。36歳であった。


 半兵衛は、黒田官兵衛と並び称される軍師である。官兵衛とは交流もあったようで、信長が官兵衛の離反を疑い、長男・長政を殺害しようとした時に、長政をかくまったと言い伝えがある。


墓所は岐阜県垂井町の禅幢寺、滋賀県能登川町の浄土寺、染町安福田など数箇所に有るようだ。法名は「深龍水徹」

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