日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(はら とらたね)
明応6年(1497)生まれ、永禄7年(1564)没。
原 友胤の嫡男で甲斐武田氏家臣。官位は美濃守。武田信玄配下の「甲陽の五名臣」として、横田高松・多田満頼・小幡虎盛・山本晴幸と並び称された。 剃髪し、清岩と号した。原氏は房総の平将門の末裔・千葉一族の出である。

 
永正10年(1513)、小弓落城の際に父・原友胤と共に甲斐武田氏に仕官、信虎から偏諱を受けて「虎胤」と名乗る。虎胤はこの時17歳。『甲斐国志』によれば、虎胤は足軽大将として召抱えられた。

天文10年(1541)、武田晴信が家督を継いだ際、その麾下として活躍。三十八回の合戦に参戦、全身五十カ所に傷を受けた豪傑として名を轟かせる。その官位名である美濃守から「鬼美濃」と呼ばれた。武勇で知られる虎胤であるが、情にも厚く、戦場で負傷した敵の老兵に肩を貸し、敵陣まで送り届け、再び元気な姿で合戦で会おう、と言ったという逸話も残る。

 天文20年(1551)10月、信玄は信州深志(現・松本城)を拠点とし、松本周辺の村上軍に属する城を攻めた。その中の重要拠点であった要害・平瀬城攻略を虎胤は命じられる。騎馬30騎足軽100人の虎胤隊は馬場・飯富隊の援護を受け、これを4日間で攻略。平瀬城の城将になる。虎胤の城攻めの特徴は、占領した城をわずかな資材で修復できるよう、なるべく破壊しないで攻め取るといったものである。武田家の中には城攻めの巧者が多いが、虎胤もその中の一人であった。

 そんな虎胤であるが、一時武田家を追放されている。天文22年(1553)、甲斐国内で日蓮宗と浄土宗の宗教論争があり、虎胤は下総国以来の家の宗旨であった浄土宗側につく。武田信玄は「甲州法度之次第」で国内において法論を行うことを禁じていた為、禁を破った虎胤に信玄は激怒。平瀬城代職を解かれて追放された。虎胤は追放後に小田原北条氏を頼る。北条氏は「渡辺の綱(源頼光の四天王の一人)にも勝る」と、虎胤を大歓迎したが、まもなく虎胤は信玄の下へ戻っている。

 
 虎胤は信越国境の割ヶ巌城攻略の際に負傷、永禄4年(1561)の川中島の戦いには参戦できずに、その3年後に没。68歳であった。虎胤の死に際して信玄は、「虎胤は幾多の合戦で限りなき武功をあらわした真の剛の者なり。世人、虎胤を畏怖して鬼美濃と恐れしわが忠臣なり。当家、虎胤のほか美濃を称する者としてなし」と落胆の色を隠さなかったと言われている。

尚、武田家の美濃守はその後馬場信春が継いでいる。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Wiki内検索

戦国時代Wiki盛り上げる会

どなたでも編集できます