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(たけだ しんげん)
大永元年(1521)〜元亀4年(1573)
《身長:153cm》
武田信虎の嫡男で甲斐武田氏19代目当主。
『高白斎記』によると、大永元年辛巳11月3日石永寺の要害城で誕生。幼名は太郎、勝千代。母は大井信建の娘。名乗りは源晴信。法名は信玄、法性院、徳栄軒など。
父・信虎を追放し家督を継ぐ。妹婿の諏訪頼重を滅ぼしたことを皮切りに、信濃を平定していった。北信濃の豪族である小笠原長時・村上義清が越後の上杉謙信に亡命したので、信玄と謙信は川中島で衝突を繰り返した。
謙信と戦いながらも、駿河の今川義元と相模の北条氏康との間に三国同盟を結んだ。越後の領有こそ失敗したものの、謙信領の西上野を攻略した。
駿河の今川義元が桶狭間の合戦で戦死すると、今川家は衰え始めた。
信玄は三河の徳川家康と同盟を結び、今川軍を破って駿河一国を攻略した。
今川攻めに反対した長男・武田義信を自決させている。
さらに今川と同盟を結ぶ北条氏康を破って、小田原城も包囲した。
北条と改めて同盟を結んだ信玄は、上洛を試みる。徳川家康を三方ヶ原の合戦で撃破したが、病気で進軍できず甲斐への帰国を余儀なくされた。帰国途中の信濃で世を去った。
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