日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

天文6年(1537年)〜 天正20年7月18日(1592年8月25日)
島津15代貴久?の三男。母は入来院重聡女(雪窓夫人)で兄に義久義弘、異母弟に家久

通称、又六郎。金吾、左衛門督(さえもんのかみ)。後年、晴蓑(せいさ?)と号す。

祖父日新斎?(じっしんさい)には「始終の利害を察するの知計並びなく」と評されている。
兄弟と共に各地で軍功を挙げた。

天正8年(1580)、祁答院(けどういん)宮城および12村に封じられる。

天正15年(1587)、島津氏、豊臣秀吉?の九州征伐軍に降伏した。歳久はこれを良しとせず、秀吉のもとに参上しないばかりか、その駕籠に矢を射かけさせた。

天正20年(1592)、朝鮮出兵においても病気を理由に軍役を拒否した。
こうした以前からの反抗的な態度に加え、同年に一揆を起こした梅北国兼?(梅北一揆)との通謀疑惑で、とうとう秀吉は怒り、義久に歳久誅殺を命じた。

歳久は居城である宮城に逃れようとするも、竜ヶ水にて追いつめられる。
追手は歳久に自害させたかったが、歳久の病は事実で手足の麻痺により自害できず、歳久自ら「我の首を斬れ。」と追手に叫び、原田甚次に討ち取られた。
その直後、追手は皆、武器を捨てて号泣したという。享年56。

遺書と共に出てきた辞世の句
「晴蓑めが たま(魂)のあり家を 人とはば いさ白雲の 末もしられず」

首は京、戻橋に晒されたが、島津忠長?(歳久の従兄弟)の家臣が盗んで今出川、浄福寺に葬られた。また遺体は帖佐、願成寺に埋葬。
明治年間になって首と遺体は合わせて竜ヶ水、心岳寺に改葬された。
法名は心岳良空大禅伯。

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