日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(たけだ のぶかど)
天文元年(1532年)?生まれ、天正10年3月7日(1582年3月30日)没。

甲斐武田信虎の4男で武田信玄の弟。幼名は孫六。刑部少輔。親族衆騎馬80騎持。



1561年第4次川中島の戦いで兄の信繁が戦死し、親族筆頭となる。後方守備や本陣守護などを務める。『甲陽軍鑑』によると、信廉は容貌が信玄に似ており、影武者を務めたとも言われ、1573年に信玄が三方が原の戦い後、京都への上洛作戦途中に信濃の駒場で病死した際には、信玄の死を内外に隠す為、影武者役を勤めたといわれる。常に信玄本陣に控え守備に当たっていた為に、武人としての功績は目立つものが少ないが、信玄座備えの図などを見ても常に信玄の次の位置を占めており、本陣守備を行っていた事が伺える。


甥の武田勝頼が武田家を継ぐと一族の重鎮として深志城代や高遠城主などの要所を任されるが、織田氏の甲斐侵攻がはじまり、天正10年(1582年)に織田信忠(織田信長の長男)が率いる織田軍が侵攻(天目山の戦い)すると、木曾福島城に赴くが、織田信忠が信州飯田に至ると聞くと戦わずして甲府に戻る。後に捕らえられ、府中立石(甲府市相川〜塚原町付近)にて首を切られて殺された。享年51。

絵画に巧みで、父・信虎肖像(甲府大泉寺所蔵)、母・大井氏肖像(甲府長禅寺所蔵)などを残している。文才にも優れ、1567年に信玄が家臣から起請文を徴した時その流麗な筆跡の起請文が、生島足島神社に現存している。出家をし、武田逍遙軒(たけだ しょうようけん)と号する。武田二十四将の一人であった。

墓所は山梨県甲府市の逍遙院。

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