「唯一」405〜

初出スレ:第3章405〜

属性:エロなし

「セフィラ」
「はい」
呼ばれ、セフィラは振り返る。
アルスレートは窓辺で小鳥達に餌をやるファリナをちらり、と見て、すぐにセフィラに視線を移した。
そうして、徐に紙を取り出して差し出す。
「これを頭に叩き込んでおいてください」
差し出された紙切れを受け取り、セフィラはそれに目を落とす。
何かの見取り図のようなものだ。
「これは?」
「この城の脱出経路図ですよ。赤く線を引いてある通りに行けば、城外に出られます。要所要所に目印がありますから、迷いはしないと思います」
「アルスレート様は?」
愚問だとでもいうように、アルスレートは微笑う。
調べ上げた脱出経路をつぶさに見、見取り図を書いたのはアルスレートなのだ。
「もう覚えました。貴女が覚えたら、喰べるなり燃やして灰にするなりして抹消してください」
「何か、起こるのですか?」
「いいえ?起こるわけではありませんよ。備えあれば憂い無し、といったところです」
セフィラが不安げに問いかければ、苦笑しつつアルスレートは答える。
―最近は少々不穏ですからねぇ…
そう呟くアルスレートに、なるほど、とセフィラは納得する。
それはセフィラも当然感じていたからだ。
ファリナに従って来た当初から、不穏ではあった。
だが、このごろはそれももう、いつ爆発してもおかしくない気がしていたのだ。
王に危機感はあまりないようだが――



王は民に慕われていない。
先王が逝去した後、温和で知られた世継ぎの王子、他の兄弟姉妹たち悉くをあらゆる手でもって殺し、王となった。
それを批難する者、先王の臣、世継ぎの王子と他の兄弟姉妹の支持者たちは処刑されたり、投獄されたり、辺境に送られたりしている。
故に、表立っては誰も言わないが、本来なら王位にあるはずのない王の正当性を疑問視する者は多い。
また、王が暴虐であること、数代前の王が閉ざした後宮を復活させたことも挙げられる。
美しいと評判の女――無論、王の眼鏡に適う美しい女、ではあるが――が次々と後宮に召し上げられた。
それが人妻であろうと、婚礼を控えていようと、恋人がいようとまったく関係なく。
応じなければ武力で脅し、奪うように攫うようにそれはなされ。
王の興味がそがれると、召し上げられた女達は帰されはした。
帰されたと言っても皆、物言わぬ骸で、だが。
そうして変わり果てた妻や恋人や姉や妹、あるいは母や娘を目の当たりにし、何とも思わぬ訳はなく。
静かに確実に、彼らは憎悪を募らせていった。
―――指導者が現れれば、すぐさま反乱が起ころうほどに
あらかた国内の美しい女を狩り尽くすと、次は他国への侵攻が開始された。
無論のこと抵抗はあったが、小国の抵抗など物の数ではなく。
近隣の小国を次々と蹂躙し、属国としていった。
当然の如く、美しい女を狩りながら。

なかには贅沢できるなら後はどうでもいい、という女もいないではなかった。
しかしそれは当然、少数派であったが。
その女達は王に媚を売り、寵姫として贅を尽くしているのだ。
嘆き、悲しみ、苦しむ女達を尻目に。


「そなたは馬鹿よ…」
窓辺の椅子に座ったまま遠くを眺めながら呟くファリナの声に、傍に控えるアルスレートはその横顔を見つめた。
「愚か者め」
「馬鹿で愚かで構いません」
「愚か者めが」
「はい」
愚か者め、そう吐き捨てるように呟き、ファリナは両手で顔を覆った。
あぁ、と嘆く声がアルスレートの耳に届く。
「姫……」
今のアルスレートには、ただ姫の傍にあることしかできない。
アルスレートが動くことができるほどの下地が整っていないために。


嘆きが止み、長い沈黙の後、ファリナは囁くように呟いた。
「………我が騎士、アルスレートよ」
「はい」
「あの、幼い約束は…まだ有効か?」
「はい、勿論です」
「私があの者の妻となり、王妃となった今でも、か」
「はい」
あの遠い日の、ふたつの約束は今もアルスレートの胸にある。
ファリナが国を守るために嫁ぎ、この国の王妃となった今でも。
たとえ、その約束のうちのひとつが果たされることが永久になくとも。
約束はすでに、アルスレートの中では誓約と言ってもいいほどになっている。
「だからそなたは馬鹿なのだ。…国へ戻れば、条件は満たされよう?」
「そうですね」
「ならば!何故戻らぬ!?」
「我が姫のお傍を離れてまで、条件を満たそうとは思いません。何より、姫を一人にしたくありません」
はらはらと頬を伝う涙を拭い、認識の差があることを知りつつアルスレートは微笑む。

始祖王の盟友であり、常に始祖王の傍にあった誇り高き騎士の系譜。
その直系であるアルスレートが嫡男であれば、何の問題もなくファリナを娶ることができた。
しかしそうではないため、ファリナの両親たる国王と王妃から条件を提示された。
その条件の内容は想いを打ち明け、ファリナを望んだアルスレートに対する国王と王妃の、最大限の譲歩だった。
ファリナはアルスレートが父王と母后に提示された条件を知っているが、そのためであることまでは思いもしない。
ただ、そんな条件を提示されてもアルスレートにはどうしても叶えたいことがあるのだ、と思っただけで。
そして、幼い約束のためにアルスレートが傍にいる、ということだけは理解していた。
それで構わなかったから、アルスレートもファリナに告げることはなかった。
告げていれば何か変わっただろうか、ともアルスレートは思うが…おそらく、現状に変わりはなかったろう。
民が害され苦しむことを憂え、嫁ぐことを決めるような方なのだから。
ファリナに付き従うことを決めたアルスレートに、国王と王妃はそれこそ何度も問うた。
――耐えられるのか、と。
それに対するアルスレートの答えは「耐えます。姫の傍を離れ、生きられるとは思いません」というものだった。

「私はいつまでも、姫の傍に。どうか私から、姫を護る栄誉を奪わないでください。……さもなくば、今この場で私の命を絶ってください」
す、と跪き、静かに笑みを浮かべて見つめるアルスレートを、ファリナは抱き締めた。
「愚か者!」
詰る言葉とは裏腹に、ファリナはアルスレートをきつく抱き締める。
アルスレートは抱き締めたいと思う気持ちを必死に御し、されるがまま。
「どこへなりともお供します。私の全ては、御身のものです」

私の全ては御身のもの、たしかにアルスレートはそう言った。
それを覆すつもりは、アルスレートにありはしないが。
長椅子に座らされたのはいい、それはまだ理解できる。
最近はよく膝枕を所望されるようになっていたから。
だがこの状況は理解できるものではない。
――何故に膝の上に姫が座るのだろうか?
「………姫?」
問うアルスレートの声が、困惑に揺れたのは仕方なかろう。
それを聞き流し、座らせたアルスレートの膝に座ったファリナは擦り寄り、その肩口に顔を寄せた。
「大人しくせよ。そなたはただ、椅子になっておればよい」
「王に見つかれば、ただではすみません」
焦がれる姫に擦り寄られ、吐息すらも感じられる距離に眩暈を起こしそうになりながらも、アルスレートは努めて平静な声で窘める。
「王?……あの者がここに来るものか。婚儀の後、訪うたことが一度でもあるか?」
くつくつと、ファリナは哂う。
「気に入りの寵姫の元におろうよ。……あの者は私に世継ぎを望んでなどおらぬ」
「姫…」
「だが、それでよい。あの者の子など産みとうもないわ」
怖気が走るわ、と言いつつファリナはさらに擦り寄る。
「教えてやろう、婚儀の儀式としての行為のおり、あの者は言ったのだ。
―――――其の方が我が元に大人しくしていれば、其の方の国には手を出さないでいてやろう――、とな」

くつくつ、くつくつ、と哂うファリナにアルスレートの心は痛む。
先程ファリナが告げた王の言葉も相俟って、王に対する憎悪は弥増す。
間違ってもこんな風に哂う方ではなかった。
綻ぶ花のように、麗しく笑む方だったのだ。
アルスレートが好んでやまない、麗しい花のような、春の柔らかな日差しのようなそれが次第に失われ。
こんな、およそファリナに似合わぬ笑みに変わってしまった。
それを苦々しく思いながら、アルスレートは問いかける。

「……帰りたい、ですか?」
「そうだな………帰れるものならば」

かえりたい…と小さく小さく呟き、擦り寄ったまま眠りに落ちてしまったファリナをアルスレートは抱き締める。
それはそれは優しくファリナの髪を梳き、その髪に口付け、力の抜けてしまったファリナの手を取ると恭しく、愛おしそうにその手に口付けを落とした。
しっかりと眠っていることを確認すると、アルスレートはファリナを抱き上げる。
アルスレートにとって世界で最も価値のある、得難く尊い重みが両腕にかかり、口元を綻ばせた。
腕に抱いたまま寝台に運び、そっと横たえる。
そして掛け布をかけてやり、微かに眉が顰められたのを癒すように何度も頬を撫でる。
愛に満ちたそれは、眠っているファリナの顰められた眉を解き、穏やかな寝顔に変えるほどのもの。
それに安堵したアルスレートは自らの唇に指で触れ、その指でファリナの柔らかく甘い色を湛える唇を辿った。



「――赦し難い」

表情すらも消し去り呟くアルスレートの声は、聞く者を須く凍て付かせることができるだろう声音だった。

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2007年08月18日(土) 15:00:24 Modified by ID:+2qn2ghouQ




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