Il mio augurio

初出スレ:第三章293〜

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かつてないほどに優しく柔らかく、頭を撫でられる感触に、少年はゆるりと重い瞼を押し上げた。
「め、さめた?」
さらさらと落ちかかる夜闇の長い髪と夜の海を模した瞳の少女が顔を覗き込む。
少年は驚き、身を退こうとするが身動きすらままならず、眉を顰める。
「うごいちゃだめ。おねつがあったの」
拙い口調で告げられる言葉。
反芻するように目を閉じ、そうして思い出す。

あの、雨の降る朝のことを。
腕を掴まれ、引き摺るように歩かされ。
車に押し込まれて知らない土地に連れて行かれ、通りかかった公園に降ろされた。
しかし、少年は無感動に走り去る車を見送った。
公園のベンチに座り、激しさを増していく雨に打たれながら、ぼんやりと考える。

――――これで終わる、と。

考えることに疲れ、希望を持つことすらできず、何もかもを諦め――どうでもよかったのだ。
むしろ、楽になれる…と思ったほど。
雨に打たれ続けて意識をなくした後、この少女が見つけたのか、と少年は納得する。



改めて見回せば、少年が暮らしていた所と遥かに違う広い部屋と高そうな家具。
そしてふわふわと柔らかく自分を包み込む寝具。
「…こ…は…」
「ここ?ここはわたしのおうち。あなたをみつけてつれてきたのも、わたし」
掠れて聞き取り難い声であるにも関わらず、少女は理解したらしい。
同じ年頃の子供より、遥かに聡い印象を受ける。
「しばらくあんせいにしてなさい、って、せんせいがいってたの。だからね、ゆっくりおやすみしていいよ」
優しく優しく撫でながら、少女は言葉を紡ぐ。
あまりにも優しい少女の仕草に、疲れ切った少年がうとうとと微睡み、眠りに落ちるのにさほど時間はかからなかった。





少年の容態が落ち着いて話ができるようになり、屋敷の当主たる老人が話を聞こうと少年を休ませている部屋に向かうと、すでに先客があった。
少年をずっと気にしていた少女だ。
話をしたがる少女の為に膝をつき、その話に耳を傾ける。
「…本気かな?」
少女の話を聞き、抑えた声で問いかけると、すぐさま答えが返ってくる。
「うん。あのこがいいの」
「……彼が起きて、自分のことを話してくれなければ決めようがないことは、わかるね?」
窘めるように、宥めるように言い聞かせる。
「うん、わかってる。わたしはのぞむだけで、きめるのはあのこ。……でもねぇ、おじいさま。あのこ、だれかそばにいたほうがいいとおもうの。…………まいごなの」
「迷子、か…。…しばらくは家で預かるから、そんなに気になるなら、傍にいてあげなさい」
「うん!おじいさま、だいすき!」
きゅう、と抱きついてくる少女を抱き締めて頭を撫でながら、ベッドに眠る身元の知れぬ少年のことを見つめる。
あんな雨の中……もしも少女が見つけなければ、次の日の新聞には少年の死亡記事が載っていたはずだ。
厄介なものを拾ってきた、と思いつつも、少女の望みならできうる限り叶えてやりたいとも思うが、そう簡単なことではなく…。





密やかな話し声に、元より眠りの浅い少年は意識を浮上させて身じろいだ。
「あ、おきた!」
ぱたぱたと軽い音を立ててベッドに駆け寄る少女を感慨なく見やる。
よいしょ、という掛け声と共に、少女はベッドによじ登り、じ、と少年の顔を見つめた。
「おはなし、できる?」
きょとりと首を傾げ、問いかける。
「話?…何?」
「あのねぇ、おなまえ!ずっとききたかったの」
名前……そう呟き、少年は考え込む。
「?…おなまえ、わすれちゃった?」
「忘れて、ない。……わからない」
「わからない?どういうことか、言えるかね?」
「呼ばれたこと、ないから」
「ご両親は?」
「……母という女と、その女の男なら、知ってる」
あまりの物言い。
窘めようにも、その昏い表情に言葉が出ない。
「僕は、あのまま死んでよかった……誰も、要らないから…」
「だめ!」
少女が叫ぶ。
「あなたがいらないなら、わたしにちょうだい?」
「これ、やめなさい」
窘める声が聞こえているだろう少女は、しかし言葉を止めなかった。
「わたしが、いる、っていう。わたしがあなたのそばにいる。ずっと、そばにいる」
少女はその手で、きゅ、と少年の手を握り締める。
「ふたりでいれば、まいごにならなくていいの。そうすれば、さみしくないでしょう?かなしくないでしょう?……ね?」
「僕が、要る……?」
呆然としながら、少年は問いかける。
「うん、いるの。いてほしいの」
「………要る?」
震える声で、もう一度同じ問いを口にする。
「わたしのそばにいて」
少女はわずかの迷いもなく、きっぱりと口にした。
「っ!」
涙が、零れた。
後から後から、とめどなく。
涙腺が壊れたのではないかと思うほどに。
少年が意図したものではない。
真っ直ぐに、ひたむきに望まれたのことのない凍えた少年にとって、それはまさしく衝撃だった。
世界が変わってしまうほどの。
しかしそれを為した少女は、目を瞬き、首を傾げるのみ。
「ねぇ、だめ?」
首を傾げたまま、少女は更に問いかける。
必要としてくれるこの少女の傍にいることが、とても素晴らしいことに思えた。
しかし、声は音にならず、ただ頷くことしかできない。
もどかしく思いながらも、何度も何度も頷く。
零れる涙、そのままに。


すべてを否定され続けた少年にとって、必要とされたのは初めてのことだった。


「……仕方のない子だ……」
ふぅ、と溜息をつき、少女の頭を撫でながら苦笑する。
少女がこれほどに執着するものはあまりない。
しかも、人間にとなると、稀少、といっていい。
しかし、その執着する人間に名前すらないとは。
いや、調べればわかる。老人にはそれを為すだけの力がある。
後々問題があっては困るので、無論内々に調べるが。


「でも、こまったの。…わたし、おなまえよびたいのに、よべないの……」
名前を呼べないことがよほどに悲しいのか、しゅん、として呟く少女。
その様に、つきん、と胸のどこかが痛んだ気がするが、少年にはどうしようもなく。
「そうだな、名前が呼べないのは不便だな」
「ねぇ、おなまえ、どうしよう?」
「別に…どう呼ばれてもいい」
「だめなの!おなまえはだいじなの」
なんだかおかしなことになった、と思いつつも少年が答えると、すぐさまダメだと言われてしまう。
はぁ、と溜息をついて答える。
「でも、何がいいかなんて、わからない」
「なら!わたしといっしょにしよう!」
「一緒?僕は、一応男だけど……」
同じ、といわれても、この少女と同じになど出来ようはずもない。
少年は男なのだから。
「うん、わかってるよ。だからね、おんなじじをつかうの」
「同じ?」
「そうなの。……ねぇ、おじいさま。おんなじじで、おなまえ、かんがえて?」
困る少年にくすりとし、老人は助け舟を出してやる。
「暁、の字で、かな?」
「うん!」
「わかった、わかった。考えてあげよう。…君もそれでいいかな?」
こくりと頷く少女に笑みかけ、老人は少年を見る。
特に異論はない、というより、どうでもいい少年は、こく、と頷いて肯定の意を伝える。
少年が頷いたのを見て、老人は考え出す。

しばらく考え、ひとつ頷き。
「暁良、というのはどうかな?」
「あきら?」
「どうかな?」
あきら、あきら…と、繰り返し呟き、こくり、と少女は頷き。
「あきら……うん、いいね。きれい」
「君はどうかな?」
「暁良……。僕が、暁良?」
「うん、あきら。………やだ?」
困ったように少女を見つめ。
「いい、けど…僕、君の名前、知らない」
「あ!そうだった!あのね、わたし、はつせ ときか、っていうの」
「名乗るのが遅れてすまなかった。……私は泊瀬由貴(よしたか)、という。この屋敷の主だ」



苦笑しつつ、由貴は重ねて言う。
「とはいえ、名前だけではどうにもならないのはわかるかな?」
「名前があっても、いないのと同じ…」
「そう。君が君のことがわからなければ、戸籍、というものがない状態と同じだ。」
「戸籍…」
そんなもの、どうやって得ればいいのか、見当も付かない。

「私に提案があるのだが、聞いてみるかね?」
「提案?」
「君に、戸籍を用意してあげよう。欲しいなら、養い親もな」
もっとも、と更に続ける。
「君が以前の名前を知りたい、元の所に帰りたい、というならば、そちらを調べよう」
は、として暁良は由貴を見上げる。
今、この人は何と言った……?
半ば呆然としつつ問いかける。
「わかる、の…?」
「わかるとも」
「いい、いらない。戻っても、きっとまた捨てられる」
「そう、か。ならば、暁良になるか?」
「なる。そのほうが、きっといい」
「誕生日は今日で良いな?」
「うん、今日でいい。今日が僕の生まれた日」
「では、手配することにしよう」
「でも……戸籍って、そう簡単に手に入るの?」
「腹を決めてしまえば、私にとってその程度のこと、造作もないでな」
含みのある言い回しが引っかかるが、気にしないことにする。
ふと、見下ろすと、話についていけなかったのか、暁香は眠っていた。
暁良の服を、きゅぅ、と握り締めて。

それを見つつ、暁良は呟く。
「でも、僕には返せるものがない」
「心配せずとも良い。この子……暁香の相手をしてくれればな。そろそろ、側仕えがいると思っていたのだ」
「側仕え?」
「暁香の兄には我が家に代々仕える家の子が選ばれたが、この子が気に入る者がなかなかおらずに困っておったのだよ」
「身元の明らかでない、怪しい子供でいいの?」
「良いも悪いも、この子は君がいいらしい。あまり執着というものを知らないが…君に関していえば、ひどく気に入っているらしい。だめだといっても、聞かんだろう」
答えに困り沈黙する暁良。
それに、と由貴は言う。
「……私に、ひいては泊瀬に媚を売ろうと考えるような輩の子供は、暁香の傍に置けんのでな」


――――さぁ、どうする?


そういって、うっすらと微笑んで手を差し出す由貴を見つめたまましばらく考え――
暁良は、その手を取った。





それが、すべての始まり。

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2007年07月02日(月) 21:46:19 Modified by ID:+2qn2ghouQ




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