ナンパ続編
初出スレ:4代目197〜
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この夏休み、悪友の坂本章介と二人で海に繰り出し、ナンパをかました相手が教え子の飯村と、彼女の姉・美咲さんだったことは、まだ記憶に新しい。
ビクビクしながら迎えた登校日は、何事もなく終わり。新学期初日の今日、朝のHRが終わってすぐ、教室を出た俺に、飯村が声を掛けてきた。
「細野センセ」
つやつや光る紙袋を片手に、階段の踊り場に立って、ちょちょいと俺を手招きしている。
「何だ」
「お姉ちゃんから、坂本さんへ預かり物」
回りに人が居ないのを確かめて、飯村がずいっと俺に紙袋を差し出した。
件のナンパのあと、章介と美咲さんは、たまに一緒に出掛ける仲にまで進展していた。
こっちは、いつ他の生徒や教師に、ナンパの事をバラされるか、冷や冷やしているってのに。
「直接じゃ駄目なのか?」
「お姉ちゃん、今日から二ヶ月、仕事で北海道だから。坂本さん、来月誕生日なんでしょ?」
「そうだけど」
美咲さんは、製薬会社に勤める研究員らしい。あちこちの研究所に出向するので、地元に戻れるのは年に数回。
情報元は、飯村でなく章介だが。
「休みは取れないから、驚かせたいんだって。忘れる前に預かって」
俺がなかなか受け取らない事にいらいらしているのか、飯村の口調は無愛想だ。
高校1年のくせに、この態度は如何なもんか。
もっとも、今の俺に強く出られる筈もなく、俺は渋々、無造作に差し出された紙袋を受け取った。
「じゃ、あとは宜しく」
「おう」
くるりと踵を返した飯村は、教室に戻る為に階段を昇り始める。
一回りも違う女子生徒に、パシリに使われるなんて情けないが、今はそれも致し方ない。
『生徒をナンパしたエロ教師』なんて噂が立ったら、間違いなく懲免処分だ。
最近は特に、その手のことには厳しいからな。
ぼんやりと飯村の後ろ姿を見送っていると、不意に飯村がこちらを振り返った。
「先生、あの事なんだけど」
もちろん、飯村が言う『あの事』なんて一つしかない。
俺が一瞬眉をひきつらせたのには気付いたかどうか。飯村はニヤリとチェシャ猫みたいな笑顔を見せた。
「誰にも言わない代わりに、宿題の提出、ちょっと待ってくれない?」
「はあ?」
「まだなんだもん。それぐらい良いでしょ?」
交換条件って訳か。
まあ、それぐらいなら誤魔化せない訳でもない。
主任はあれやこれやと煩いだろうが、この際、背に腹は変えられない。
「分かった」
ぴらぴらと空いた片手を振って了承を示すと、飯村は勝ち誇ったような笑顔で、今度こそ教室へと戻っていった。
まったく、悪友の悪ノリに付き合ったせいで、とんだ二学期の始まりだ。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いじゃないけれど、飯村から渡された紙袋が憎らしくて、俺は大きな溜息を吐いた。
****
俺が担当する世界史の、長期休暇後の課題の提出は、毎回最初の授業日と決まっている。
飯村のクラス――言い換えれば、俺のクラスとも言うが――は、新学期二日目がその最初の授業日に当たる。
飯村は宣言通り未提出。
休みぼけの治っていない他の生徒達は、気付いているのかいないのか。
まあ、気付いて無い方が、首の掛かった俺としちゃあ、有り難いことこの上ない。
主任には適当に誤魔化して、課題の添削を始めたのは、一日も終わりに近付いた、放課後の事だった。
哀しいかな、我が校でのクーラーの使用は、午後六時までと決められている。
職員室や、部活で使用されている特別教室なんかは、一部例外はあるが、俺が主に使用している社会科教員室は、無常にも、主任が帰宅すると同時に、主任自らクーラーのスイッチを切ってくれやがる。
禿タヌキの罠としか思えないが、そこはそれ。円満な職場環境を維持するには、多少窮屈な想いをしても、我慢しなきゃならない事もある。
無駄な争いは嫌いなのだ。
あと二人分、課題の添削を済ませれば終わりと言う所で、主任はいつものようにクーラーのスイッチを切って、帰宅した。
最初はそうでも無かったが、無風状態が続くにつれ、俺はじんわりと汗がにじむのを感じ始めていた。
ペンを持つ手が僅かに滑る。
額に汗、と言うほどでもないけれど、不快感は徐々に増す。
他の先生が残っていれば、こっそりクーラーを付ける事もあるのだが、今部屋に居るのは俺一人。
残る仕事の量も大した事がないので、俺は小さな舌打ちを鳴らして、とにかくさっさと終わらせようと、ひたすらにペンを走らせた。
そんな時。
小さなノックの音がして、俺は頭を上げた。
「どーぞー」
投げやりな俺の返答に、カラカラと扉が開かれる。
そこに居たのは、鞄と紙切れを持った飯村だった。
「どしたよ、こんな時間に」
昼間ならばいざ知らず、放課後も終わりに近いこんな時間、社会科教員質を訪れる生徒なんてまず居ない。
部活を受け持っている先生は、大抵部活に向かっているし、そうでない先生だって、殆どが帰り支度を始めている時間だ。
不思議に思う俺に、飯村は軽く室内を見渡してから、ズカズカと部屋に入ってきた。
「はい」
無造作に差し出される。
「何」
「課題」
単語に単語で返されて、俺は飯村が差し出したルーズリーフに視線を落とした。
「図書室で仕上げたから。居なかったら、明日で良いかな、とか思ってたんだけど」
『中国・宋について(960〜1279)』と題されたルーズリーフには、漢字と平仮名と数字が羅列されている。
今年の課題は、『自分の興味がある国・年代の出来事を、自分なりにまとめること』だったので、書かれている内容はさておき、真面目に課題に取り組んでくれたらしい。
『クレオパトラとシーザー』だとか『ベルばらの時代背景』だとか『大航海時代』だとか。片仮名の多いレポートが殆どの中、飯村が持ってきた物は俺の興味を引いた。
俺の大学時代の専攻が、中国史だったことも、理由の一つではあるが。
「ご苦労さん」
薄っぺらい紙一枚。
けれど、妙に親近感の湧くそれを受け取ると、飯村は小さな溜息を吐いた。
「センセ、残業?」
「もう終わる所だったんだが。誰かさんが、仕事を増やしてくれたお陰で、ちょっと伸びそうだな」
わざと軽い皮肉を込めて言う。
その言葉に、飯村は唇を尖らせた。
「だって……」
おっと、しくったかな。
何だかんだ言ってもまだ子ども。そんな相手に、大人気無かったかも知れない。
「冗談だよ。ありがとう」
少しの罪悪感も手伝って、今度は素直に礼を言う。
けれど飯村は、それもお気に召さなかったようで、唇を尖らせたまま、ぷいっと視線を反らした。
「別に、先生の為じゃないし。って言うか暑くない?」
眉を寄せ、パタパタと手で仰ぐ飯村は、室内に視線を巡らせる。
言われなきゃ思い出さなかったのに、飯村の言動で、俺はさっきまでの窮屈な空気を思い出し、大きな吐息を吐いた。
「クーラー切ってっからな。……今日は帰るか」
一端暑さを思い出したら、もうこの部屋に居るのも嫌になる。
手早く帰り支度を始めた俺に、飯村は不機嫌そうな表情のまま、俺の方へと視線を戻した。
「帰るの? 仕事は?」
「家でやる。お前のレポートも、じっくり添削したいしな」
正確には、密かな共通点を見つけた此奴のレポートを、本人の前で添削したくなかっただけなのだが。
俺の発言を、言葉通りに取ったらしい飯村は、あからさまに顔をしかめた。
「先生、さっきから嫌味ばっか」
「そう言うな。ほら、お前も帰った帰った」
纏めた荷物を片手に席を立つ。
さっきからしかめっ面ばかりの飯村も、俺が促すと不承不承といった様子で、社会科教員室を出る。
戸締まりは、一度職員室に声を掛ければ、管理作業員が行ってくれるので、俺が施錠する必要も無い。
「しかし、思ったより早かったな」
並び歩く俺の呟きに、飯村は少し首を傾げた。
「レポート。明日になると思ってたんだけど」
「あ〜……殆ど出来てたんだけど。最後が、上手くまとまらなくって」
「成る程」
廊下を曲がり、階段を下りる。
生徒達の昇降口は、すぐに見えた。
「それじゃあ」
「ああ、気を付けて帰れよ」
何となく。
本当に何となく飯村を見送っていると、昇降口を出た所で、不意に飯村がこちらを振り返った。
「バイバイ」
手のひらをヒラヒラとさせて、少しだけ笑みを浮かべて。
俺が返事をする間もなく、飯村はまた前を向いて、校門に向かって歩き出す。
「……バイバイ、ねぇ」
何だか今日は、飯村の色んな面を見たような気がする。
ツンデレのような態度とか、密かな共通点とか、今の不意打ちのような挨拶とか。
夏休みの、誰も知らない秘密を除けば、いつか知ったことなんだろうが。
いやはや、年頃の女子ってのは、分からんもんだ。
*****
夏休み、自分の生徒をナンパしてしまった後ろめたさはあったものの、二学期が始まると、何ともあっさりと平穏無事な日常が続いた。
当事者である俺・細野純也と、飯村美結の間には、特別な関係が築かれることもなく。また、一学期と変わったこともなく。
二学期当初は、多少なりともビクビクしながら過ごしては居たが、それも日々の忙しさに紛れて、いつの間にか消えていた。
中間テストが終わり、文化祭の準備が始まってからも、それは変わりなかった。
うちの高校は、二年が舞台発表、一・三年が展示や模擬店と、大まかな枠が決められている。
俺の担任する一年D組も、お化け屋敷とは名ばかりの、それでも生徒達にとってはかなり気合いの入った準備が行われていた。
準備期間は二週間。そのうち最後の一日は、丸々文化祭の準備に当てられる。
随分と様変わりした教室内では、頼りになるクラス委員二名の指揮の元、生徒達は最後の飾り付けに東奔西走していた。
俺も、初めての文化祭で右往左往している生徒達のため、心ばかりのジュースとお菓子の差し入れをしたり、飾り付けを手伝ったり。
そうして迎えた文化祭初日。
それはある意味、記念になる日だった。
****
文化祭は、始まってしまえば、俺達教師に出る幕は無い。
舞台発表のある明日は、外部からの来客もあるが、初日の今日はかなり暇。
見回りやら清掃やらも、生徒会や風紀委員、文化委員に美化委員で分担しているから、受け持ちのクラスの様子を時折覗けば、あとはかなり自由な時間が確保される。
午後になって、副担の相川先生と見回りを交代してからは、俺の仕事は更に暇になった。
一応、教師達の間でも仕事はあったりするのだが、本格的に忙しくなるのは、毎年二日目だったりする。
なので俺は、毎年恒例・野球部の名物カレーを購入すると、社会科教員室に引きこもることにした。
建て前は、担任がフラフラしてちゃマズいから。
本音は、昨日からの疲れが抜けきっていないので、軽く休憩する為。
自分が年寄りだとは思いたくないけれど、一回り以上若い生徒達と比べれば、やっぱり歳を感じてしまう。
カレーを食って、自販機で購入した茶を飲むと、昨日の疲れも手伝って、緩い睡魔が襲ってきた。
幸い、室内は俺一人。少しぐらいうたた寝しても、誰に咎められるでもない。
椅子に寄りかかって目を閉じると、本格的に睡魔が襲う。
このまま熟睡出来りゃ良いんだけど。
そんな風に考えながら、心地よい眠りに誘われようとした時、遠くからノックの音が聞こえてきた。
誰だよ、まったく。
「はーい、どーぞー」
今にもくっつきそうだった瞼を無理矢理押し上げ、俺は背もたれから体を離す。
俺の投げやりな返答に、扉を開けて入ってきたのは、フランクフルトを持った飯村だった。
「あ、居た居た」
「何だ、何かあったのか?」
飯村に、特別変わった様子はない。
むしろ、何処か嬉しそうにも見えるのは、俺の気のせいか?
「別に〜。相川センセと交代だって聞いたから、ここかな〜って」
にこにこ笑いながら、飯村は俺の傍らに立つ。
「センセ、お昼は?」
「さっき食った。つか、何か用か?」
見上げると、飯村はふるふると首を振って、にっこりと俺に笑いかけた。
「だから、別に」
何なんだ、一体。
「まあ、座れ?」
飯村の意図が皆目分からず、俺は内心首を傾げながらも、隣の席の椅子を引く。
飯村は素直に腰を下ろすと、フランクフルトにかぶりついた。
「……クラスの方は?」
「うん、なかなか良好。五十嵐さん達が仕切ってるし、別に問題ないんじゃない?」
頼りになるクラス委員の名前を出して、飯村はフランクフルトをもぐもぐ。
そして沈黙。
俺の方からは飯村に用事は無いし、特に話題も無い。
飯村からアクションが無けりゃ尚更だ。
つか、用事も無いのに何しに来たんだ、此奴?
「センセ、幾つ?」
「は?」
唐突に、フランクフルトから俺に視線を移して、飯村が口を開いた。
「だから、歳。幾つ?」
「……28」
真っ直ぐに俺を見つめる飯村の視線に気圧されて、俺は思わず呟いた。
「そっかー」
ふむ、と品定めでもするかのように、ジロジロと俺を見た飯村は、またフランクフルトに視線を戻す。
訳が分からず、俺は眉をひそめながら、机に置いていた茶のペットボトルを手に取った。
蓋を開け、茶を一口。
手持ち無沙汰で、片手でペットボトルを弄んでいると、またもや唐突に飯村が言った。
「私、今日、誕生日なんだよね」
……へー。
「あ、今、それがどうした、とか思ったでしょ?」
食べ終えたフランクフルトの棒をくわえながら、飯村が横目で俺を見る。
「いや、別に」
確かに、「へー」とか思ったけども、飯村には大した違いは無かったようで、ゆらゆらと棒を揺らしながら、唇を軽く尖らせた。
「おめでとう、とか言わないの?」
「……おめでとう」
無理矢理言わせて何が楽しい。
疑問に思いはした物の、俺が素直にお祝いを言うと、飯村は満足そうに微笑んで、棒を足下のゴミ箱に放り込んだ。
「ありがと」
回転式の椅子を巡らせ、俺に相対する姿勢を取る。
真っ向から向き直られると、少し照れ臭いのは、飯村の表情が凄く穏やかなせいかも知れない。
誰も居ない室内に二人きりだから、というのは、この際忘れておくことにする。
過ちは夏の一回で懲り懲りだ。
「それで、センセに少しお願いがあって」
「ん?」
ここに来て、ようやく飯村は用件を伝える気になったらしい。
上目遣いに俺を見上げるその姿は、微妙に男心をくすぐられる。
……って、違うだろ俺!
「センセにしか頼めないの」
何だ、その危険なフレーズは。
言っておくが、俺に特別制服女子に萌える嗜好はない。
人並みに制服女子は好きだし、その手のエロDVDも見たり世話になったりもする。
が、あくまでも妄想の世界と割り切っているからであって、現実世界で教え子に手を出したいと思ったことは一度たりとて無い。
無いったら無い。
だが、今の飯村の言動は、その俺の危険な部分をつつくかのようで。
いやいや、待てよ俺。
本当に懲免とかなったら困るだろ。
そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、飯村はもじもじと気恥ずかしそうに俺を見つめ。
「水滸伝の資料、貸して欲しいの」
…………え……っと?
上目遣いも、恥ずかしそうな視線も、さっきと何一つ変わらない。
つか、なんでそんなに恥ずかしそうなんだ、お前。
「……水滸伝の?」
「そう!」
一度耳を通り抜けた単語を、無理矢理引っ張り戻して聞き返すと、飯村は力強く頷いた。
「自分で探すだけじゃ、なかなか見つからなくて。センセなら、世界史の担当だし、中国史も少しは資料持ってるかな〜って思って」
少しはどころか、思いっきり持ってるけど。
大学時代の資料をひっくり返せば、それこそ大量に出てくるとは思うけど。
「何で」
「だから、自力じゃ限界なんだって。三国志なら本屋に溢れてるけど、水滸伝ってなかなか無いんだもん」
「そうじゃなくて、何で水滸伝?」
「何でって……好きだから」
何とも単純明快な返答に、俺の肩から力が抜ける。
むしろ、思いっきり脱力状態。
思わず大きな溜息を吐いた俺に、飯村は何を思ったか、不安そうに眉を寄せた。
「あ、無理なら良いんだ。ただ、誕生日って口実に、ちょっと無茶言ってみただけだし」
成る程。
種を明かせば何てことは無い。
自分が無茶振りしてるのを承知で、あの態度だったのなら頷ける。可愛くおねだりしてみれば、多少の無茶振りも冗談で済ませられるから。
そう言うことだったんだろう。
「いや、無理でも無茶でも無いよ」
苦笑混じりに顔を上げると、飯村は一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
「参考になるかは分かんないけどな。貸してやるよ」
「ホント!?」
俺の言葉に、飯村の表情が思いっきり晴れる。
何とも単純。
だが、その表情が余りにも嬉しそうだったので、俺は思わず、今まで自分一人の中に納めていたことを口にした。
「俺も好きだし。水滸伝」
「え、そうなの?」
「そう。大学ん時も中国史専攻だったし。そっちは三国志の影響だけど、水滸伝も好きだぞ」
「そうなんだ」
密かな共通点を見つけた時、俺は内心、嬉しかったりしたのだが。
飯村も俺と同じような感想を抱いたらしい。
綻んだ表情が、何よりも雄弁にそれを物語っている。
「じゃあ、期待しちゃおうかな」
「やめい。プレッシャー掛かんだろ」
文字通り、嬉しそうな飯村の言葉に、俺の頬が小さくひきつるが、飯村はそれすらも楽しそうで。
「冗談っ。じゃあ、お願いね」
「はいはい」
念を押すように告げて立ち上がる。
そんな飯村を見上げた俺は、さっきまでの睡魔が跡形もなく消え去っていることに気付いて、またも小さく苦笑した。
単純なのは俺の方かも知れない。
そんな単純な俺に、飯村は不意に、見覚えのあるチェシャ猫のような笑みを見せた。
「良かった〜。エロ教師を体感するような真似になんなくて」
「……え」
「嘘。もう忘れた」
いや、忘れてないだろ、ソレ。
「おま、それ……!」
「大丈夫、誰にも言ってないし、言わないよ」
焦る俺を見下ろして、飯村はニヤニヤ。
今後、此奴のチェシャ猫顔は、十二分に注意した方が良いに違いない。
「ほんとかよ」
「ホントだって」
内心の焦りをひた隠し、俺はペットボトルの蓋を開ける。
そんな俺の様子に、飯村はちょっとだけ眉尻を下げて、小さくポツリと呟いた。
それは余りに小さくて、明確には聞き取れなかったけれど。
「え?」
「何でもない。じゃあね」
聞き返そうと顔を上げれば、飯村はひらひらと片手を振って、社会科教員室を出て行く所だった。
俺は馬鹿みたいに飯村の後ろ姿を見送るだけ。
その耳の奥には、飯村の言葉が張り付いて。
『ちょっとだけ期待してたけど』
聞き間違いじゃないなら、飯村はそう呟いてた。
聞き間違いじゃないなら。
*****
「俺、結婚することにしたわ」
一ヶ月振りに会った、腐れ縁の友人・坂本章介があっけらかんと言ったのは、11月も末になろうかと言う、ある夜の事だった。
「は?」
「や、だから、結婚――」
「誰と」
「美咲」
「はぁ!?」
ビールを舐める手を止めて訊ねた俺は、章介の口から出てきた名前に、思わず目を見開いた。
ナンパで知り合った、俺の教え子・飯村美結の姉と付き合っているのは知っている。
一度に二人と付き合えるような、そんな器用な奴じゃないから、出てくる名前は当然と言えば当然だが、それでも驚きは隠せなかった。
「いつ」
「来年。四月ぐらいって話してるけど」
章介は、突き出しの小鉢に箸を伸ばしながら、相変わらずへらへらと笑っている。
「そうか」
「おー」
いやいや、意外。
章介と美咲さんが知り合って、まだ三ヶ月。
そこまで進展するような仲になっていたのも、章介の口から『結婚』なんて単語が出るのも、どちらもが意外で、俺は章介から視線を外してビールを飲んだ。
内心、複雑なのは何故なんだろう。
今までも何人か、友達から結婚の報告を受けたことはあるし、意外な相手とか意外な奴だったりしたこともあるんだが。
一番の腐れ縁だった章介が、教え子の姉と結婚する、と言うのは、結構ショックかも知れない。
ざわざわと居酒屋特有の喧噪が耳につく。
俺は生中のジョッキを置くと、目線を上げて章介を見た。
「おめでとう」
「おー」
けれど、めでたいことには変わりない。
祝いの言葉を告げた俺に、章介は少し気恥ずかしそうに笑った。
****
そんな報告を受けてから数日。
放課後、社会科教員室で帰り支度をしていると、軽いノックの音が聞こえた。
「細野センセ、居ますか?」
「おう」
その声に、俺は帰り支度の手を止めて、扉の方を振り返った。
扉を開けたのは、日直だった飯村。
同じく帰り支度をしていた、二年担当の澤村先生が、チラリと此方を見たが、飯村は気にする様子も無く、教員室に入ってきた。
「日誌、出来ました」
「お、ご苦労さん」
薄っぺらい活動日誌を手に、飯村は何か言いたそうな表情で。それに気付いた俺は、ひとまず鞄を脇に寄せると、椅子に座り直して日誌に目を通した。
「お先です」
「はい、お疲れ様です」
一応は、日常業務の体裁を保ちつつ、俺は澤村先生の声に、小さく会釈を返す。
飯村も、ぺこりと小さく頭を下げると、澤村先生を見送った。
主任は、今日は昼から出張。
部屋に残ったのは、俺と飯村だけになった。
「……」
飯村は、始終無言で、俺が日誌から顔を上げるのを待っているようだ。
言いたい事があるなら、遠慮なんてしなくても良いのに。
この季節、空模様は気紛れで、昼まではすっきりとした秋晴れだったにも関わらず、今は薄暗い雲に覆われている。
そのせいか、明かりのついた社会科教員室も、心なしか薄暗く感じてしまう。
何だか居心地が悪くなって、俺は一通り日誌に目を通すと、ゆっくりと顔を上げた。
「飯村、何かあったか?」
俺の言葉に、飯村は一瞬目を見開き、俺から視線を外すと、唇を小さく尖らせた。
「……別に」
意気消沈。
今の飯村を例えるなら、そんな言葉がしっくり来る。
けれど飯村は、俺から視線を外したまま、何でもない風を装った。
「そうか」
日誌を置いて机の引き出しを開けるが、入っていたのはのど飴が数個。
色気も何もありゃしない。
「ご苦労さん。もう良いぞ」
のど飴を一つ取り出して、飯村に差し出す。
飯村は、横目で俺の差し出したのど飴を見下ろすと、おずおずと言った風に飴を受け取った。
包みを開けて、のど飴を口に放り込む。
出来たゴミをゴミ箱へ捨てる飯村を眺めながら、俺は改めて飯村へと向き直った。
「美咲さん、結婚するらしいな」
何気なく放った一言だったが、どうやら、それが引き金だったらしい。
飯村はピクリと肩を揺らしたが、俺を見る事なく、無言で首を縦に振った。
さっきまで静かだった室内に、バラバラと嫌な音が入り込む。
とうとう降ってきたらしい。
「来年だっけ?」
「四月だって」
仏頂面で、ぽつり。
飯村は、俺の傍らで立ったままだったので、俺は隣の席の椅子を引いた。
俺の動きの意味を察したらしい飯村は、やはり俺に視線を向けようとはしなかったが、存外素直に椅子に腰を下ろすと、深い溜息を吐いた。
「何だ、嫌なのか?」
「そう言う訳じゃないけど……」
ガリ、と一際大きな音が聞こえたのは、飯村が飴を噛んだかららしい。
飴は噛む物じゃなく、舐める物だろ。
「そうじゃないけど……何か……さ」
言いにくそうに、口の中でもごもごと言葉を籠もらせる飯村は、ちらりと俺に視線を向けた。
「センセは、兄弟っている?」
「兄貴が一人。もう結婚もして、子どもも居るけど」
「寂しくなかった?」
寂しい?
首を捻り、兄貴の結婚当時の事を思い出す。
が。
「別に。俺も家を出てたし、兄貴も家を出て十年近く経ってたし。そう言うのは無かったかな」
別段、兄貴と不仲だった訳じゃないが、かと言って特別仲が良かった訳でも無い。
結婚をすれば、今までのように家に帰ってくる頻度は減るだろうとは思ったが、俺自身も盆と正月ぐらいしか、家には帰ってなかったからお互い様。
女兄弟と男兄弟じゃ、感覚も違うんだろうが。
「そっか」
またもや小さく溜息を吐いた飯村に、掛ける言葉が見つからず、俺ものど飴を一つ取り出すと、かさかさと音を立てながら包みを開いた。
「寂しいか」
「……ぶっちゃけ、ね」
「仲、良さそうだったもんな」
「うん」
美咲さんと会ったのは、あの夏休みの時、一回限り。
けど、わざわざ妹と二人で海に遊びに行くぐらいだ。飯村との仲の良さは伺える。
「結婚したら、こっちに戻ってくるって言うし、今までよりは会う回数も増えるんだけど」
苦笑にも似た表情で、飯村はガリガリと飴を噛み砕いた。
俺は何とも言えず、のど飴を口に放り込むと、包みをくしゃくしゃと丸めて捨てた。
大体の話は、章介から聞いている。
だから、わざわざ飯村から聞き出さなくても、事情は理解出来る。
出来るが。
飯村の方は、そう簡単にはいかないようだ。
何となく、勘だが。
「まあ、来年の話だし。今から寂しがったって、しょうがないけどね」
「手放しで喜べないのにか?」
「そう言う訳じゃないよ! ただ……」
気持ちの整理が付かない。
たぶん、そう言う事なんだろう。
飯村は、言葉に迷うように、俺から視線を外して口のへの字に曲げたまま、指先で頬を掻いている。
けれど、結局、上手い言葉が思いつかなかったのか、頬を掻く手を止めると、うらめしそうに俺を見つめた。
「センセには、分かんないよ」
そりゃあ、そうだろう。
俺は飯村じゃないし、美咲さんだって俺の姉じゃない。
飯村の気持ちは、飯村にしか分からない。
「居なくなる訳じゃないのに、何か寂しい。それだけ」
「そっか」
「うん」
雨音が響く室内で、飯村は、小さな声で呟いた。
その瞬間、季節外れの雷鳴が、遠くから聞こえて来て、俺は窓の方を振り返った。
「げ……雷かよ」
さっきから、やけに雨音が耳に付くと思ったら、どうやら一荒れしそうだ。
早いところ学校を出るか、もしくは学校で雷が遠ざかるのを待つか、どちらかを選ばないと。駅までの道のりは結構遠い。
「飯村、そろそろ――」
窓の外の様子を伺って、飯村に視線を戻した俺は、彼女の様子に一瞬言葉を失った。
「……飯村?」
さっきまで、何て事無い様子だった飯村が、身を縮こまらせている。
何があったのか戸惑っていると、二度目の雷鳴が聞こえ。
「ひっ!」
飯村は、耳を押さえると、ぎゅっと体を強ばらせた。
「お前、雷苦手なのか?」
意外と言っては失礼だが、意外な俺の質問に、飯村はこくこくと小さく頷いた。
「だ、駄目なの……雷」
三度。
徐々に近付く雷鳴に、今度こそ飯村は頭を抱えると、椅子に座ったまま、小さくうずくまった。
「大丈夫だって。落ちたりしねぇよ」
「わ……分かってるけど……」
この恐がり方は尋常じゃない。
何か、余程のトラウマでもあるんだろうが、今はそれを聞き出せるような状態でも無い。
「大丈夫。すぐに止むよ」
小さく震える飯村を落ち着かせようと、根拠の無い事を口にしてみたりするが、飯村には効き目が無い。
とっとと帰ろうと思っていたが、こんな飯村を放っておける筈もなく。
俺は椅子ごと飯村に近付くと、子どもをあやすように、その頭をぽんぽんと叩いた。
四度目。
僅かに光を伴った雷鳴が室内に響く。
通り雨にしちゃ、若干質が悪い。
「うー……」
飯村の口から、うめき声にも似た声が漏れる。
その声は、泣いているようにも聞こえて、俺は思わず苦笑した。
いや、本人からすりゃ、笑い事じゃないんだろうけども。
普段は可愛げの無い部分も多い飯村だが、弱ってる姿は、素直に可愛いと思える。
五度目。
バリバリと激しい雷鳴とその閃光に、飯村の体はいっそう堅くなった。
俺は頭を撫でる手を止めると、もう一度、窓の方を振り返る。
大きな雨粒は、幾筋も窓に流れを作り、遠目からでも、その激しさは確認出来た。
こりゃ、朝まで降りそうだな。
のんきにそんな事を考えていた俺だったが。
ドンッ、と、六度目の激しい雷鳴が聞こえ。
「きゃあっ!!」
不意に、俺は体に衝撃を受け、椅子から転げ落ちそうになった。
慌てて体勢を立て直すと、さっきまで椅子に座っていた飯村が、ひっしと俺にしがみついている。
「お、おい……」
「やだぁ! も、怖いぃ……っ!」
俺にしがみついた飯村は、半分泣きながら俺の胸に顔を埋める。
トラウマだか何だか知らないが……この体勢は、ちょっとマズくないか?
かと言って、突き放せるような状況じゃ無い。
とにかく、飯村を落ち着かせよう。
七度目の雷鳴に、飯村は更に強く俺にしがみつき。
俺はと言うと、迷った末に、飯村の背に、自分の腕を回した。
一応、そこにはこれっぽっちも下心は無い事を付け加えておく。
背中を撫で、さっきと同じように子どもをあやすみたいに、とんとんと背中を叩いてやる。
飯村は、俺のシャツを握ったまま、胸元に顔を埋めてはいたが、その呼吸は少し、落ち着きを取り戻し始めた。
八度目。九度目。
僅かに香るシャンプーの香りが、今の状況には何だか場違いのような気もするが。そんな事に気付く余裕がある自分に、ちょっとだけ情けなさを感じる。
けれど、それは確かに飯村から香っていて。
俺の腕の中で震える飯村は、どんな匂いを感じてるんだろうか。
十……十一……。
遠ざかる雷鳴を、いい加減数えるのも面倒になって来た。
むしろ、腕の中の暖かさに、神経が向いて仕方ない。
時折漏れる小さな声が弱々しくて。
さっきまでの、寂しそうな飯村の姿も重なって、俺は知らず、抱きしめる腕に力を込めた。
髪を撫で、しっかりと飯村を支えるように抱き直す。
案外小さなその体は、俺の腕の中にすっぽりと収まり、無性に愛しさを感じる。
「せ……センセ…?」
いつの間にか、雷鳴は遥か遠くへと去り、残るのは雨音だけ。
ようやく落ち着いたらしい飯村は、今の状況に気付いたか、俺の胸から顔を上げた。
まだ睫毛に、涙の跡が残っている。
「あの……」
真っ赤に蒸気した頬は、泣いたせいなのか、はたまた今の体勢からくる照れのせいか。
けど、そんなの、どっちでも良い。
「……お前、結構可愛いのな」
「はいぃ!?」
俺の一言に、飯村は素っ頓狂な声を上げた。
「せ、センセ、何言ってんの!?」
今度こそ、照れて真っ赤になった飯村は、慌てて俺から離れようとしたが。
あぁ、もう良いや。
可愛いと思った気持ちに嘘は無い。
「本心。可愛いよ」
呟いて、抱きしめる腕に力を込めると、飯村はもごもごと口の中で何事かを呟きはした物の、それ以上、抵抗らしい抵抗を示す事は無かった。
非常時のどさくさに紛れて、何やってんだかと思わないでも無いが、今更、そんな事を言ったって始まらない。
吊り橋効果にも似た感情。
だけど、考えてもみろ。
俺と同じような状況で、同じような感情を抱かない男が、絶対居ないと言い切れるか?
まあ、そんなの、俺の言い訳にしか過ぎないかも知れないが。
「センセ……」
「何」
「恥ずかしいんだけど」
「知らん」
「ちょっと!」
抵抗はしない物の、悪足掻きのつもりか、可愛げの無い口調でぶつくさ文句を垂れる飯村だったが、きっぱりと言い切ると、頬を膨らませて俺を睨みつける。
「エロ教師!」
「抱きついてきたのはそっちだろ」
「あ、あれは……!」
俺の言葉に、飯村は決まりが悪そうに視線を泳がせ、唇を尖らせた。
「だって……怖かったんだもん」
「そうですか」
言葉とは裏腹に、飯村は俺のシャツを握る手に力を込めた。
やっぱり飯村は、ツンデレかも知れない。
そんな事を考えながら、飯村の顔を覗き込む。
飯村は驚いたのか、反射的に俺から顔を逸らそうとしたが間に合わず、俺は唇を飯村の目尻に落とした。
少し塩味のする目尻へのキス。
肩を震わせた飯村の口から、ふっと吐息にも似た息がこぼれ落ち、今度はその唇に、俺は自分の唇を重ねた。
柔らかくて、暖かい。
啄むようなキスを繰り返す。
これ以上熱くならないように、と自制と理性を総動員しながらも、しがみつく飯村が可愛くて、俺は何度も何度も唇を重ねた。
やがて、ゆっくりと唇を離すと、飯村は閉じていた瞼を押し上げた。
抱きしめていた腕を解放し、しがみついていた飯村を立ち上がらせる。
体勢を整えた飯村は、俺の方を見ようともせず、ぐいと拳で口元を拭った。
結構傷つくんだけど、それ。
とは言え、いきなり担任に抱きしめられた上、キスまでされたとあっちゃ、生徒としては自然な反応かも知れない。
強く出られる筈もなく、俺は苦笑するしか無かった。
今度こそ、言い訳の仕様もない。
「……あめ」
「……?」
「マシだね」
飯村の視線の先を追うと、さっきまであれほど降っていた雨が、弱々しい糸のようになっていた。
「そう、だな」
ほんの一瞬、通り雨の間だけの、束の間の出来事。
熱に浮かされたか。夢でも見たか。
そんな風に思わないでも無かったが、俺の唇には、まだ飯村の唇の感触が残っている。
「…………センセ」
「ん?」
「私……嫌じゃないよ」
「……え?」
何が、と問い返そうと飯村の方を振り返ると、飯村は頬を赤らめながら、少しだけ困ったような表情で笑った。
「びっくりしたけど……センセの事、嫌いじゃないから」
むしろ、好きだし。
付け足された言葉は、雷のような衝撃で。今度こそ俺は、飯村に対して、はっきりと明確に、好意を抱く自分を自覚した。
*****
飯村の雷嫌いは筋金入り。
そのトラウマは、小学生の頃の夏休みのプール開放の時に起因している、と、ぽつぽつと飯村が話し出した。
プールの最中の通り雨で、プールサイドに上がった瞬間、プールに雷が落ちたらしい。
幸い怪我人も無く、飯村も無事だったらしいのだが、間近に落ちた雷は五年以上が経過した今も、飯村にとって酷い恐怖の対象だそうだ。
その話を聞いた瞬間、俺は自分のしでかした事に、深い後悔の念を抱いた。
事情を知らなかったとは言え、半分は不可抗力、半分はその場の勢いで、雷に怯える飯村を抱きしめ、あまつさえ彼女の唇を奪ったのだ。
もしも飯村が、その後俺に告白しなければ……考えるだに恐ろしい。
良くて懲免、悪くて執行猶予付きの犯罪者。
まあ、一回り以上年下の娘に、恋心を抱いた時点で、軽く犯罪者になりそうではあるが。
弱々しい笑みを浮かべた飯村の話を聞き終えた時には、雨はもう小雨になっていた。
壁に掛けられた時計は、午後六時近くを指し示している。
そろそろ、クラブ指導に向かった他の先生が戻ってくる頃だ。
「飯村」
「うん?」
やけに喉が乾く。
誰か来やしないかと内心冷や冷やしながらも、立ち尽くしていた飯村を見上げ、俺はゆっくりと口を開いた。
「謝る気は無いけど……今日は、もう帰れ。……俺も、ちょっと頭冷やさないと駄目だわ」
その場の勢いに乗じた行為もだが、飯村の告白にせよ、それに衝撃を受けて自覚した想いにせよ、簡単に口に出来る話じゃない。
夏のナンパ以上に、これは大きな問題だ。
共犯者も居なけりゃ、弁解の余地も無い。それどころか、誰かに知られれば間違いなく教委に呼び出しを食らう。
俺の首だけじゃない。飯村の将来にも関わる話な訳で。
だからこそ、軽々しく話す事なんて出来ない。
飯村も、俺の言葉を予想はしていたのか、少しだけ寂しそうな表情を浮かべはしたが、やがて小さく頷いた。
「うん。……それじゃあ」
「ああ、気を付けて帰れよ」
俺に背を向けて、扉を開く。
その姿がやけに小さく見えて、気付けば俺は、その背中に向けて声を掛けていた。
「飯村っ」
振り返る。
「お前の気持ちが嬉しいのは、ほんとだから。そこは勘違いすんなよ」
ちゃんと言ってやれれば、どんなに楽か。
けれど、世間体ってのは厄介で、時には言論の自由すらをも奪ってしまう。
だから遠回しに。でも、自分の気持ちには正直に。
ちゃんと伝わったかは定かじゃないが、飯村はちょっとだけ目を瞬かせると、口許を綻ばせた。
「ありがと。じゃね」
「おう」
カラカラと、来た時同様の軽い音を立てて、飯村の姿が扉の向こうに消える。
それがどうにも切なくて、やりきれなくて、俺は小さな溜息を溢した。
****
家に帰ってからも、風呂に入っても、俺の頭の中は飯村の事でいっぱいだった。
やるせない。
一言で表すならば、その表現がしっくりくる。
抱き締めた時の温もりや、重ねた唇の柔らかさが思い出されて、その度に胸の奥がしくしく痛む。
よりにもよって教え子にと思いはすれど、自覚してしまった愛しさを振り払う事も出来ず、結局俺は、眠れぬ夜を過ごす羽目になった。
翌日も、その次の日も、気付けば飯村を目で追っている自分が居て、俺はなるべく飯村と顔を合わさないよう、精一杯の理性を総動員した。
ちゃんと話をしなければ、とも思うのだが、二人きりになるチャンスが無い。
もしかすると、このまま夏の時と同様に何事も無かったかのような日々を送れるんじゃないかと淡い期待を抱いたが。
一度自覚してしまった恋心は、日を追うごとに俺を悩ませた。
そうこうするうちに十二月に入り、期末試験やら何やらで、諸々のことがうやむやのままに終わりそうになったある日。
昼休みの僅かな時間、学食から社会科教員室へと戻る俺に飯村が声を掛けた。
「センセ」
「っ……おう」
聞き慣れた心地よいソプラノ。
一瞬の動揺を押し殺して振り向くと、飯村はちょいちょいと手招きをした。
その顔は、いつもと何ら変わりない生徒の顔。
だから俺も教師面の下にくすぶり続ける恋心を押し込めて、わざとゆったりとした足取りで飯村の方へ歩み寄った。
「どうした」
「前に借りた本、持ってきたんだけど」
おっと、忘れてた。
文化祭以降、飯村との約束通り何度か水滸伝の資料を貸してやっていたが、例の事があってから、飯村との接触をなるべく避けていたために、俺の頭の中からはすっかりその事が消えていた。
「そっか。悪いな」
「ううん。後で持ってっても良い?」
「え……」
別にやましい事をしてるつもりはない。
つもりはないが……心の奥底にやましい気持ちがないと言えば嘘になる。
二人きりで会うと決まった訳でもないのに。
思わず口ごもった俺に、飯村は苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「テスト用紙あさろうって気はないから安心してよ」
「お……おう」
俺の戸惑いを感じ取ったらしい飯村は、冗談めかして言うと小さな笑みをこぼした。
「じゃあ、後で」
「……分かった」
教師と生徒。
あくまでその立場を変えないよう、気を利かしてくれたのは飯村で。
俺はと言うと、手に余る感情と世間の目を気にするばかりで、結局何もしてやれず。
ひらひらと手を振って教室に戻る飯村を見つめ、ただ黙って拳を握りしめた。
****
放課後、飯村は約束通り本を持ってくると、すぐに社会科教員室を立ち去った。
他の先生の目もあってか、その姿はいっそ潔いぐらいにあっさりとしていた。
もう少しだけ、ちょっとは違う話も出来れば……なんて思っちゃいたが、来週から試験期間に入るとあっては、それも適わない。
仕方のない事とは言え、内心残念に思う自分が居る。
このままじゃ駄目なのは分かってる。
飯村の気持ちに応えるにせよ、自分の気持ちを伝えるにせよ、早い方が良いに決まってる。
けどその前に教師と生徒の関係がある以上、それを崩すようなことがあってはならない。
「どうすんだよ……」
もやもやを抱えて呟きながら、俺は飯村から戻ってきた本をぱらぱらとめくった。
その時、ひらりと舞う紙切れが一枚。
風に浮いたそれは小さなメモで、ページの隙間から俺の机にふわりと落ちる。
何か挟みっぱなしだったか? と手に取ると、そこには見覚えのある字で英数字が並んでいた。
これって……。
「細野先生」
「はいっ!?」
突然声を掛けられて、慌てて手の中のメモを握り潰す。
振り返ると澤村先生が立っていた。
「冬休みの課題の件で、相川先生が相談があるって」
「あ、すみません」
「いえ、さっき職員室で聞いたんで、今ならまだ居るんじゃないですかね」
「分かりました、行ってきます」
業務連絡、業務連絡。
俺はなるべく自然な風を装って社会科教員室を出る。
扉を閉めると握りつぶしたメモを開き、ゆっくりと皺を伸ばした。
【legend-of-waterside@――――】
直訳すれば、水辺の伝説。
@以降は携帯のドメイン。
「どんだけ水滸伝が好きなんだよ、アイツ」
思わず苦笑が漏れる。
こんなメールアドレス、アイツ以外に考えられない。
そっと指先で文字をなぞると、本を貸してやった時の飯村の笑顔を思い出した。
わざわざ本にメモを残す辺り、飯村も飯村で思うところがあるんだろう。
俺がわざと遠ざけている事に気付いて、それでも何とか繋がりを持とうとしたに違いない。
いじらしい所があるじゃないか。
「っと、職員室職員室」
俺は綺麗にメモを畳むと、それをしっかりとズボンのポケットに仕舞って、足早に職員室へ向かった。
****
【件名:ありがとな
本文:メアド、確かに受け取った。
つか、ちゃんと話せなくて悪い。
期末が終わったら時間取るから、ちゃんと勉強するように
細野】
【件名:Re.ありがとな
本文:気付いて良かった。
心配しなくても、勉強はちゃんとしてますよー(・ε・)
先生は気にせず、ちゃんと仕事するよーに!
*MIYU*】
*****
【件名:猫
本文:すずの寝顔
きもかわ(*´ω`*)】
メールの着信に携帯を開くと、飯村からの写メだった。
飯村が飼っているぶっさいくな三毛猫の人生を苦悩するかのような寝顔に、俺は思わず頬を緩めた。
飯村からメアドを受け取ってから、毎日二往復程度の遣り取りが日課になっていた。
その殆どが、二・三行の他愛もない話ばかり。宿題が面倒だとか、晩ご飯が好物のオムライスだったとか。
そんな何気ないやり取りが俺の密かな楽しみになってることに、飯村は気付いているんだろうか。
最近の飯村からのメールは三回に一回は猫の写メが添付されている。
お陰で俺の携帯のデータフォルダには、順調に猫の写真が増えていた。猫派としては嬉しい限り。
だけど返信をしようとボタンを押し掛けて、俺はふとその手を止めた。
結局、飯村とはまだきちんと話が出来ていない。
明日には終業式だし、明後日から二週間は冬休み。
ずるずると先延ばしにしたって何も良い事なんてない。こんな日常的な遣り取りでうやむやにしてしまうのは失礼だ。
いい加減腹をくくった方が良いかも知れない。
壁に掛かる時計を見ると、そろそろ家を出ないと学校に間に合わない時刻。
俺は慌ててメールを打つと、携帯を鞄の中に放り込んだ。
****
放課後、と言っても昼を少し過ぎた時間。
人気のない社会科準備室で、俺は落ち着きなく携帯を弄んでいた。
朝、飯村にメールを打ってからと言うもの、返事を見るのが怖くて電源は切ったまま。
勢いのままに打ったメールの内容は、『放課後、社会科準備室に来て欲しい』と言う用件だけの代物。
朝もさっきもHRの時の飯村の様子からは、俺のメールをどう思ったのかは伺い知る事が出来なかった。
正直な所、朝から緊張が解けない。
言葉を選んで話す余裕は、まだある。
だけど飯村を目の前にしたら……余裕が吹き飛ぶ自信もある。
情けない話ではあるが。
手中の携帯は俺が電源を切っている事もあって、未だ沈黙している。
無論返信が来ている確証もないが、俺はどうしても、電源を入れる勇気が持てなかった。
携帯のフリップを閉じたり開いたり。真っ黒な画面は俺の顔しか映さない。
そんな事を繰り返していると、不意にカラカラと扉が開いた。
顔を出した飯村は一度きょろきょろと廊下を見回して、社会科準備室に入ってきた。
「誰か居るか?」
携帯をズボンのポケットに仕舞いながら歩み寄る。
飯村が首を横に振ったので、俺は小さく安堵の吐息を漏らした。
一応。念のため。誰かに知られたら言い訳もし辛い。
俺は飯村の隣に立つと、飯村が後ろ手に扉を閉めたのを確認して、腕を伸ばして内側から扉の鍵を閉めた。
準備室の鍵は俺がくすねてきたから、マスターキーでもなきゃ開けられる心配もない。
もっとも、終業式目前でろくに授業もない今じゃこんな所に足を運ぶ奴もいないだろうが。
俺が鍵を閉めたのを見た飯村は僅かに緊張した面持ちで。そんな彼女を安心させてやりたくて俺は飯村の頭をぽんっと叩いた。
「別に取って食いやしねえよ」
「思ってないけど、そんな事」
心の中を見透かされたとでも思ったか、飯村は唇を尖らせた。
「そっか」
準備室の中は資料棚と教材の入った段ボールが置かれている。
広さの割にあまり物がないけれど、もちろん椅子や机もないので、俺は窓の下の壁にもたれるようにして座った。
俺の後を付いてきた飯村も、それにならってかぺたりと腰を下ろす。
年に数回しか掃除をしない部屋だが、一応年末と言うこともあってか、今日は比較的床も綺麗だ。
「えーと……な」
さて、どう話を切り出したものか。
二人きりになるのはあの雨の日以来。
俺は妙な緊張感に視線をさまよわせながら口を開いた。
ありがたい事に、飯村はスカートの裾を気にしているらしく俺の方を見ていない。
「一応、こないだの事……に、ついてだけど」
話し辛い。
心を決めたとは言え俺の声は頼りなく、嫌でも言葉がつっかえる。
しっかりしろ俺。
「ちゃんと話さなきゃとは思ってたんだ」
「……うん」
視界の端で飯村が頷いたのが見えた。
隣に座った飯村は、両の拳を膝に置いて少し首を傾げて俺を見上げていた。
その真っ直ぐな視線がどうにも痛い。
「いまさら謝るのも変だし……かと言ってうやむやなのも、さ。冬休みを挟んだら、ますます言い辛くなるから」
「うん」
俺の言葉の一つ一つに、飯村は素直に頷く。
「私も、先生に謝らなきゃいけないと思ってた」
「え?」
思わぬ同意に、俺の言葉が一瞬途切れる。
いやいや待てよ。そもそもは俺がやらかした事が問題なんであって、飯村が謝るって……何でだ?
そんな俺の疑問をよそに、飯村は困ったような笑顔を浮かべた。
「結局のところ、自分の気持ちを押しつけてばっかでさ。センセの気持ちなんて、これっぽっちも考えてなかった。だから……謝らなきゃって」
俺を見上げる飯村の眼差しは外れない。
こいつもこいつで精一杯、色んな事を考えてたんだと、今になってようやく分かる。
でも謝罪を受け入れるのかと言われれば話は別だ。
「いや、謝られると俺が困る」
「けど」
「好きな相手に自分の気持ちを知ってて欲しかった。そうだろ?」
確認を込めた問い掛けに、飯村は考えるように眉を寄せる。
「そう……だけど」
「そりゃあ、答えを迫られたりしちゃ俺も困るけどさ。言ったろ? お前の気持ちが嬉しかったのはほんとだから、って」
例えあの時に自覚した想いだとしても。好きな相手に想われてると知って、嫌な気持ちになんてなる訳がない。
ただ、先にやらかした問題と俺自身の中で決着を付けなきゃならない問題が、俺の悩みの種なんであって、そこで飯村が謝るのはお門違いってもんだ。
「でもさ、メールとか」
「良いから。それも気にすんな。つか俺の話を先にさせてくれ」
それでも尚、何か言いたげな飯村の言葉を遮って、俺はがりがりと頭を掻いた。
飯村は不満そうに唇を尖らせはしたものの、やがて小さく頷いた。
「俺だって……そうなんだよ」
何が、と飯村の視線が問いかける。
「俺も、好きな相手には自分の気持ちを知ってて欲しいと思うから。だから、ちゃんと言うけど」
頭を掻いていた手を下ろし、居住まいを正す。
ふうっと大きく息を吐いて飯村を見下ろすと、飯村は不可解な、それでいてどこか緊張した面持ちで俺を見上げた。
「俺もお前が好きだ」
意外な事に、飯村の顔を見たら、存外素直に言葉が出た。
こんなに簡単な事だったのかと自分でもびっくりだ。
「……へ?」
素っ頓狂な声は飯村の口からこぼれた。
大きく見開いた目を瞬かせ、呆気にとられたような間抜けな顔。
そんな飯村の表情に思わず頬が緩む。
「自覚したのはやらかした後だから……その点についちゃ謝る。伝えるのに時間が掛かった事も」
「ああ……うん」
「お前のメールも正直嬉しかったよ。迷惑どころか、楽しみだった。だから、お前が謝る必要なんてどこにもない」
苦笑混じりに告げた言葉は本心だ。
照れくささは多少あるが。
飯村の表情は相変わらず呆けている。けれど、ゆっくりと耳が赤くなって――やがて顔中が見事にピンク色に染まった。
「嬉しくないのか?」
顔を傾げて目線を合わす。
俺の問いかけに飯村はぱちぱちと瞬きを繰り返し、それから首を左右に振った。
「う……ううんっ。何か……うわぁ……」
何が「うわぁ」だ。
飯村は両手で口元を覆い隠して顔を伏せる。大きく深呼吸を繰り返す様子からすると、どうやら俺の告白に動揺したらしい。
「うわぁ……マズい」
「何がだよ」
ぼそぼそ呟いた声が聞こえ、今度こそ俺は苦い笑み。
「や、何か……今日、帰り道に事故って死ぬんじゃないかってぐらい嬉しすぎる」
「この程度で死ぬかよ」
「死ぬかもしんないじゃない」
まったく……縁起でもない。
なかなか顔を上げない飯村に、少しだけ悪戯心が芽生える。
目の前には俯いた飯村のつむじ。そこを人差し指でぎゅっと押してやると、飯村は「ひゃっ!」と叫んで、弾かれたように頭を上げた。
「な、何っ!?」
「ちょうど良い位置にあったから」
「ちょっとぉ!」
頭に手をやった飯村が、小さな子のように頬を膨らませ俺を睨みつける。
けれど、その反応に俺が喉の奥で笑うと、やがて飯村もぷっと小さく吹き出した。
「もう、痛いよセンセ」
「悪い悪い」
密やかに笑い合う。
それが凄く心地良い。
「けどさ」
ひとしきり笑った後、そう切り出したのは俺だ。
「何?」
「告っても、そう簡単じゃないよな」
「あー……うん、そだね」
たぶん、飯村も気付いてたんだろう。
俺と飯村の間には、どうしたって越えられない壁があるって事に。
「センセと生徒、だもんね。一方的に好きな方が……まだ良かったのかな」
寂しそうに笑う飯村は、俺の様子を伺うようにチラリとこちらを見上げた。
「それもどうかと思うけど。まあ同じ学校に居る以上、どっか行ったりとか普通に付き合うって事は出来ないだろうから……」
「うん」
今、こうして二人きりで居られるのが特別で。だからこそ、特別な時間は誰かに知られちゃいけない。
二人の間にあるのは、そう言った類の代物だ。
「大丈夫、分かってる。ちょっと……寂しいけどさ」
冗談めかして言いはしたが、きっとそれが飯村の本心なんだろう。
俺だって同じ気持ちなんだから。
だから、せめてそれを伝えてやりたくて、俺は口を開き掛け――上手く言葉に出来る自信もなくて、飯村の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「電話なら大丈夫だから。番号、教えとく」
「良いの?」
「メールじゃなく、声が聞きたくなる時だってあるだろ?」
飯村の髪は少し猫っ毛なんだろうか。
柔らかくて俺の指にふわふわと絡まる。
肩まで無造作に下ろされた髪を指で弄びながら言うと、飯村は少し考えたあと、ゆっくりと首を振った。
「やっぱ良い。声聞いたら、会いたくなるもん。……今の距離が限界ギリギリ。そうでしょ?」
何かを確認するように、飯村が俺を見上げる。
その言葉に、俺は思わず手を止めると、まじまじと飯村を見返した。
何て顔してんだ、此奴。
真っ直ぐで、迷いのない瞳。
なのに何処か不安の色が浮かんでいて、それを隠すみたいに口が一文字に結ばれている。
こんな顔されて……どうしろってんだ。
言葉の裏が簡単に読める表情なのに、飯村が余りにも真っ直ぐに俺を見つめるから、俺は中途半端だった手を伸ばして飯村の肩を抱き寄せた。
「せ、センセ!?」
おかしな話だ。
飯村との距離はこんなに近いのに。俺達の間にあるモノはいっぱいあって、そのどれもが、越えられない壁になって立ちはだかっている。
「……悔しいな」
「え? な、何が……」
思わず漏れた本音に、飯村はもぞもぞと俺の腕の中で顔を上げた。
聞き返されはしたけれど、もちろん答える気はない。
答えたって、壁がなくなる訳じゃない。
その代わり、俺は両腕でしっかりと飯村を抱き締めると、その暖かさを覚えようと目を閉じた。
「じゃあ、せめて充電。明後日から二週間、会えなくなるから」
担任教師と教え子。
今のところ最大の壁。その利点は、ほぼ毎日会える所。
メリットは大きいがデメリットも大きいなんて皮肉なもんだ。
飯村の髪に頬を寄せて呟くと、飯村は少し戸惑ったみたいだったが、やがておずおずと俺の背中に自分の腕を回してきた。
「距離、近すぎ」
「今日ぐらい良いだろ。人が勇気を振り絞って告ったんだから」
「……そっか。私の時もそうだったもんね」
「そうそう」
まああの時は、半分不可抗力ってヤツだけど、敢えて言うまい。
「じゃあ、これもお返し」
お返し?
「何の事だ」と聞き返そうと目を開けた瞬間、唇に柔らかな感触が触れた。
たどたどしくて、控え目だけど、それは間違いなく飯村が顔を寄せて来た結果。
目を丸くする俺の前で、飯村は顔を真っ赤にしながら、それでもニヤリとチェシャ猫じみた笑みを浮かべた。
「これで同じ」
「……っ!」
な……んだ、ソレ。
つか、人が精一杯我慢してるってのに、そんなのアリか――っ!?
言葉を失う俺は顔に血が昇るのを自覚する。
が、飯村は俺の胸中なんて意に介する事もなく、にぃっと笑って俺の腕から離れた。
「充電終了。そろそろ出ないと」
「あ……あぁ」
名残惜しそうな表情なのに、立ち上がる姿はいっそ潔い。
さっきと言い今と言い、何で此奴はこんなにアンバランスなんだ。
それに翻弄される俺も大概だとは思うが。
「私、先に出るね。誰かに見つかってもマズいし」
「……そうだな」
スカートの裾をぱしぱしとはたく。
その姿を見上げつつ、俺は気持ちを切り替えようと小さな深呼吸を一つ。
「気を付けて帰れよ。……『片付け、付き合わせて悪いな』」
俺の言葉に、飯村は一瞬きょとんとしたが。すぐにその意味を理解したようで、くすりと小さく笑った。
「どう致しまして。じゃあね」
「おう」
幾分ゆっくりとした足取りで飯村が部屋を出るのを見送って、俺も今更ながら腰を上げる。
取り合えず一つ。
俺の中で整理を付けなきゃならない事は終わった訳だが。
「……ひっでぇ……。純真な教師を弄ぶか、ふつー」
あの不意打ちはないだろ。
一瞬、理性が飛びそうになったっつの。
「俺、このままで大丈夫か……?」
下手に充電なんかしなきゃ良かった。
抱き締めた体も、触れた髪も、忘れようったって忘れられない。
ぐるりと首を回して腰に手をやる。
その時ズボンのポケットに入れっぱなしだった携帯の感触に、その存在を思い出して、俺はゆっくりと携帯を引き抜いた。
「……」
朝から沈黙させたままの電源を入れ、溜まっていたメールを受信。
その中に、飯村からの返事が無かった事に安堵と少しの寂しさを覚えながら、俺は携帯をパチンと閉じた。
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2010年02月27日(土) 08:38:36 Modified by ID:Bo5P9jtb2Q