長道歩き 2

初出スレ:6代目163

属性:男(35)×女(17)




 ぼんやりとした頭でも、その掌の柔らかさが伝わる。
 気付けば、誰かの手首を掴んで床に押し付けていた。
小さくて細い、だがだいぶ大人びたその体を跨いで、俺はそれを押し倒す格好になっていた。
どうしてそうなったのか全く思い出せず、だが上手く頭が働かない状態で、黙って静止する。
ふわふわと、甘いような匂いがする。

「――はせくらさん」
「……」

 下敷きにされている彼女が、喋った。長年傍に居て、大事にしてきた女の子の声だった。
支倉は驚きもせず、気の抜けた表情で、組み敷いている少女の顔を見る。間違いなくそれは楓だった。
リボンタイを結んだ制服姿で、学校指定のハイソックスを履いた脚を投げ出していた。

父親に似た丸い目を彼に向けて、どことなく熱に浮かされたような顔をしている。
軽く開かれた桃色の唇はグロスか何かのせいでつやつやと光り、その間から見える歯は真っ白だ。
その絶妙なコントラストを描く唇で、また名前を呼ばれた。声色が甘く、支倉は逃げ出したくなる。

「――好きだよ。ずっと好き」

 やめろ、と囁いたはずが、声が出なかった。なぜだか無性に喉が渇いている。
ひりつくような粘膜の奥で、掠れた呼気が零れるだけだった。

 反応に遅れた支倉を置いて、楓の指が支倉の手をひっかく。
その感触にようやく我に返って、彼女に覆いかぶさっていた状態から体を起こすことができた。
勢いよく頭を上げたせいで一瞬くらりとして、それが敗因だったのか、支倉はそのまま体勢を整える暇もなく背中を強かに打ち付けた。
何が起こったのか理解できない。痛みに耐えて薄く目を開けると、今度は楓が支倉に馬乗りになっていた。
どうやら素早く起き上がった彼女に逆に引き倒されてしまったらしい。

「楓ちゃん、どくんだ」
「楓って、呼んでよ」

 そう言って、楓が前に倒れこんできた。腹筋の要領で起き上がろうとする支倉の胸に、べったりとその身をくっつける。
なぜだか重みを感じなかった。
だが不思議と熱ばかりは高く、お互いのシャツ越しだというのに、体温は直に流れ込んでくるようだった。


「本当は、ずっと前から好きだったんだよ」


 かすかなデジャヴに目を瞬かせ、だが支倉はこの状況を打破しようと身をよじった。
幸せそうに、楓が支倉の胸にすり寄る。彼女の後頭部を眺めながら、支倉の動きが思わず止まってしまう。


 昔にもこうやって、楓に抱き着かれたことがあった。

 確か彼女が中学校に上がる少し前の頃だったように思う。
彼女がうれしそうに広げた紺色のセーラーカラーには、白いラインが入っていたはずだ。

「これで私も大人でしょ? 支倉のお兄ちゃん」
「そうだな、楓ちゃんももう大人だ」
「じゃ、じゃあ」

 少しためらったようだが、楓は顔を上げると、彼女よりもずっと体格のいい男を睨むようにして、口を開いた。

「楓ちゃんって呼ばないで」
「……は? 何を」

 そこで、合点がいったように支倉がうなずいた。ほっとした表情の楓を見て、彼は申し訳なさそうに頭を掻く。

「こんな男に名前呼びされるの、恥ずかしくなる年頃だもんな」
「……えっ?」
「悪かった、頑張って戻す。遠藤さ……ぐはっ」
「ばか、さいてー!」

 まだ幼い声で彼を罵り、彼女は助走をつけて男の鳩尾に頭突きをかました。
同級生の中でも小柄な彼女の頭の位置は、支倉の胸にも届いていなかったからだ。
鈍い痛みに呻きながらも、このまま後ろに倒れこんでしまうと危険だと判断し、踏ん張って彼女を抱きとめた。
体勢が整って、二人は抱き合うように部屋の中央に立っている。

「……」
「ねえ。支倉、さん」

 ねだるような声色に、何を求められているのか察せられてしまった。
こうやって女の子ってのは大人になっていって、あっという間に手元から居なくなってしまうんだろうなあ、などと
親心のようなものを思ってしまう。

 幼い楓が、顔を上げる。支倉さん、と呼んだその唇に、先ほどのグロスがだぶった。


「楓」
「――な、なに?」

 目を見開く。
 楓がこちらを覗き込んでいた。
周りは、さきほどのぼんやりとしたわけのわからない空間でなく、間違いなく支倉の部屋である。
ああ、と溜息を吐きかけて、喉がからからに乾いていることに気付いた。

「びっくりした、ベッドから落ちるんだもん」
「……楓、水くれ」
「はい」

 差し出されるコップ。まるで支倉の考えが読めていたようで驚いたが、まずはそれを受け取った。
指先が過敏になっているのか、それがやけに冷たく思える。ぐっとコップを傾けると、よく冷えた水が喉元を駆け下りていった。
 ずるる、と体勢を立て直しながら、ベッドを背もたれにして、支倉は首をひねった。

「なんで俺はベッドで寝てるんだ」
「……は?」
「ベッドは楓が使うものだろうが」
「お、覚えてないの?」

 恐る恐るという風に尋ねる楓を見て、そんなことはないと怒りかけたが、
実際に昨日の夜からぼやぼやとした記憶しか残っていないことに気付く。
まったくおぼえていないわけじゃない、と曖昧に濁して、唸りながらも昨日のことを思い出していく。

 身内だけの同窓会に呼ばれて、そこでたくさんの話をして、まだ結婚できないのかとからかわれた。
なんとなく気に食わなくて、ぐいとジョッキを傾けたが、確かそこまでだ。

「これは?」
「うおっ、なんだそのレシート……長いぞ」
「昨日、支倉さんが買ってきたんだよ」
「……」

 覚えてないんだ、と、楓は呆れたように言う。支倉は受け取ったレシートをしげしげと眺める。
チョコレート菓子の名前が延々と続くそれに、なぜだかさきほどの夢が被さった気がした。

(好きだよ。…………チョコレート)

「……?」
「っていうか、シャツ皺くちゃ」
「あー……」

 洗濯するから、と手を差し出され、暗に脱げと言われているのに気付かなかったわけではなかったが、それは悪戯心だった。
伸ばされた手を素早く掴み、そして優しく引き寄せた。
予想外の行動だったのか、楓は大した抵抗もせずに支倉の腕の中に転がり込んでくる。

「な、なななな、な」
「昔もこうやって、泣く楓を慰めたよなあ」
「なに、な……! わ、わけ、わけわかんない!」

 そう、昔も、と口に出して、急にさっきの夢がフラッシュバックした。

 幸せそうに笑って、頬を擦り付ける楓。
さきほどは重みを感じなかったせいか現実味が足りないように感じたが、今のこの状況は、現実でしかない。
細身の楓を抱きしめているのは、夢では彼女を止めようとした支倉自身だ。

「……、……」
「ひう!」

 手持無沙汰の両手を、彼女の腰あたりで落ち着かせる。
支倉の両手の輪の中に居る楓はがちりと体を固まらせてしまい、身動きひとつ取らなくなってしまった。
てっきり「離してよ、このえろおやじ!」と振り払われるのだと思っていたが、支倉もまた彼女の予想外の反応に、相当困っていた。



 そして、予想外のことがもうひとつ。


 抱きしめている体は、腕の中でゆっくりと呼吸している。その体はふにふにと非常に頼りなく思えて、つまり、柔らかい。


「…………」

 おかしい。
 思い出の中の楓は、こんな風ではなかった。
鳩尾あたりに頭がきて、クラスでも小さかったあの頃の楓は、もうここには居ない。

居るのは、短いスカートから惜しげもなく白い脚をのぞかせ、細っこい手で支倉のシャツを握る、女だった。

手を回した腰が折れそうに細く思われ、動揺しそうになったが、余裕を持ってゆっくりと手を離す。
追い詰められた逃走犯のように両手を上げると、胸の中で動かない楓に囁きかけた。

「悪い、冗談が過ぎた」
「……」
「楓?」

 手の輪は解かれ、楓は自由になった。なのに、彼女は動かない。
そんなに嫌だったか、と軽率な行動を後悔しかけた瞬間、楓が動いた。


 ぎゅうっと、首元に腕を回される。楓は膝を立てて、支倉の頭を抱えた。


「か、えで」
「なんで、もう、私が、私は」

 何が言いたいのか楓自身もわからないようで、ぼろぼろと言葉だけが零れる。
長い付き合いだというのに初めての抱き着き方で、楓は支倉に頬ずりするような仕草をした。
そのときに香った甘い匂いに、ああ、あれは楓のシャンプーの匂いだったのかと的外れな納得をしていた。


 彼女が泣いている気がして、支倉は彼女を抱きしめ返した。
 そして、あえて無視をしていた感情と向き合う日が来てしまったのだと、気付いてしまった。



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2012年03月09日(金) 17:39:29 Modified by ID:2C3t9ldb9A




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