ナンパ続編 番外バレンタイン

初出スレ:4代目546〜

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*****

 今年のバレンタインは日曜日。
 と言っても、そもそも私には関係ない。
 一応、お互いに想いを伝え合った人は居るけれど、それは決して知られちゃいけない間柄。
 親にも、お姉ちゃんにも、友達にも、私の好きな人の事も私を好きな人の事も、これっぽっちも口にしていないから、周りからすれば私は所謂独り身ってヤツだ。




「ほら、浮かれてないで、名前呼ばれた奴から取りに来ーい」
 バレンタインを目前に控えた金曜日の放課後。
 教壇に立った担任兼世界史教師の細野センセの声に、クラスメイト達はざわつきを押し殺そうともしない。
 すでにチョコを渡した子。もらった子。今からあげる子。もらう子。
 中にはもらえない子も居るかも知れないし、私のように渡さない子も居るだろう。
「渡瀬ぇ」
「はーい」
「原村ぁ」
「はぁい」
 プリントを渡す順番は順不同。
 センセ曰く、その方が緊張感があるだろ、って事らしいけど。そもそもHRに、授業に使ったプリントを返すってのが、何かの間違いだと私は思う。
「辺見ぃ」
「……んー?」
「返事ぃ」
「へーい」
 名前を呼ぶのと同じように、センセは辺見君に呼びかける。
 その韻の踏み方に、教室の隅から笑い声が聞こえた。

 入学当初から、センセが口喧しいぐらいに言ってる事の一つが返事だった。

『挨拶と返事さえ出来れば、社会に出ても何とかなる。反対に、どれだけ仕事が出来ても、この二つが出来ない奴は俺みたいにろくな大人にならねえぞ』

 冗談混じりに告げられて、最初は何の事か分からなかった私達。
 でも、高校に入ってバイトを始めた子達の中では、いち早くセンセの言葉の意味を理解し始めた人が居たのも事実。
 そしてその子達の話を聞いているうちに、ウチのクラスでは暗黙の了解のように、名前を呼ばれたら返事をするのが当たり前になっていた。
 もっとも辺見君みたいに、わざとセンセをからかう人も居るけれど、これはもう恒例行事みたいなもんだ。
「お前、いつになったら返事すんだよ」

「えー、だって純ちゃん、無理矢理にでも言わせんじゃん」
「当たり前だろが。お前だけだぞ、いまだに返事しないの」
 笑い混じりに告げながら、センセは辺見君にプリントを渡す。
 受け取った辺見君も、同じように笑いながら大袈裟に肩を竦めた。
「俺、耳が遠いんだよねー」
「どこの爺さんだよ。ほれ、席戻れ」
「うぃっす」
 親しげなやりとり。けど、何処かでちゃんと線引きはされてるらしく、辺見君は楽しそうに笑いながら席に戻る。
 辺見君もセンセの言ってた『挨拶と返事』を実感したうちの一人だからこそ、二人はこうして笑い合えるのかも知れない。
 そんな事をぼんやりと考えながら、私は机に頬杖を突いて、見るともなくセンセを眺めた。

 なんだかんだ言いながら、センセは大人だ。
 私の想い人で想われ人は、目の前に立つ細野センセ。
 ありふれたマンガみたいな関係だけど、マンガみたいに隠れてエッチな事をしたりとか、そう言う展開は一切無い。……キスはしたけど。二回だけ。
 私達の繋がりは互いのメールアドレスと連絡網の電話番号だけ。
 あくまでも教師と生徒を保っていて、そもそも付き合ってすらいないのが現状だ。
 寂しくないと言えば嘘だけど、辺見君のように、親しくても生徒にはちゃんと線引きをするセンセだからこそ、私は自分から付き合うに至る流れを遮った。
 大人なセンセが相手だからこそ、足手まといになりたくない。

「飯村ぁ」
 順次名前を呼ばれて皆がプリントを受け取っていく。
 その一番最後が私だった。
「はーい」
 いつものように返事をして席を立つ。
 皆はそれぞれの事に集中していて、私達に注意を払っている人は少なかった。
「ここ、ちゃんと確認しとけよ」
「はーい」
 センセが指で示した先を軽く目で追いながら生返事。
 いつもの事。そう思って案外綺麗なセンセの字を確認すると、そこにあったのは意外な文章だった。

【日曜、俺の誕生日だから】

 ……。

「へ?」
「へ? じゃない。ほれ、さっさと戻る」
「あー……うん」
 何なの、コレ。
 て言うか聞いてないし。

 誕生日だから、って――『だから』じゃないでしょ!

 一気に混乱が押し寄せて、私はただただ目を丸くするばかり。
 正直、そのあとのHRも、何があったか覚えていないぐらいだった。


 ****

【件名:有り得ないから!
 本文:センセ酷すぎっ! あの不意打ちはないでしょ(;ω;)
 心臓止まるかと思ったよ!(`Д´#)ノ】

 帰宅途中に勢いに任せて打ったメールを送信して、私はベッドに携帯を叩きつけた。
 有り得ない。有り得なさすぎ。
 つか、何のためのメールよ!?
「前もって言ってよ、そう言う事はっ!」
 悔し紛れに枕を殴って天井を仰ぎ見る。
 その時、視界の端に携帯のランプが点滅したのが見えて、私はのろのろと携帯を取り上げた。
 確認するとセンセからの返信で、その内容に私はますますイライラを募らせた。

【件名:悪い
 本文:そう怒るなって。ただ、言い忘れてたなーと思ったら、驚かせてみたくなった。
 不意打ちはお互い様だ(笑)】

「うっわ、さいてー」
 勝ち誇ったようなセンセの顔が脳裏に浮かぶ。
 それがまた無性に悔しくて、私は携帯を放り投げると、制服が皺になるのも気にせずにベッドに寝転がった。
「エロ教師のくせに……乙女心を弄ぶか」
 ぶつぶつとそんな事を呟いてみるけど、気分は一向に晴れない。
 その理由は、ちゃんと分かってる。

 自分には無関係な行事だと思ってたバレンタインが、よりにもよってセンセの誕生日だった事。それが一番の動揺の原因だ。
 センセが教えてくれてなかった事も腹が立つっちゃ腹が立つけど、のほほんとお気楽に構えていた自分自身にも腹が立つ。

「くっそー、センセの馬鹿ぁ……っ!」
 足をバタバタさせて八つ当たり。
 でも、いつまでも八つ当たってても仕方ない。
 こうなったら、センセにも心臓が止まる思いをさせてやらないと気が済まないとか考える辺り、私の性格はひねくれてると思う。
 けれど、思い立ったら実行に移さないと気が済まないのも、私の性分だったりして。
 勢い良く起きあがったその時、部屋をノックする音が聞こえた。

 ****

 日曜日。
 一枚のメモと携帯をテーブルに、私は駅前のドーナツ屋に居た。
 メモに書かれたのは電話番号。
 人であふれる駅前で誕生日プレゼントを購入し、一息ついた後の事だ。


 あの日、部屋をノックしたのはお姉ちゃんだった。
 四月に結婚を控えたお姉ちゃんは、一月の終わりからこっちに戻ってきていた。
 義兄になる坂本さんは、センセの昔からの友達で。

 そのことに思い至った瞬間、今日の計画は迷う事なく組み立てられた。


「よしっ」
 お気に入りの紅茶のドーナツを食べ終えメモから顔を上げる。
 我ながら大胆なことをしてると思う。
 でも、今更後には引けないし。何よりセンセの驚く顔が見たい。
 携帯を取り上げ、少し緊張混じりにメモに書かれた電話番号を、一つ一つ確認しながら押していく。
 通話ボタンを押すと、きっちり五回のコール音のあと、向こうに電話が繋がった。
『もしもし』
 聞き慣れた声。
 ああ、やっぱこの声好きだなぁ、なんて事を考えながら、私は大きく息を吸った。
「センセ?」
『……え?』
「飯村です。飯村美結」
『……え、ちょ、な…』
 電話越しでも先生が動揺したのが分かる。
『何で、番号――』
「坂本さんに聞いちゃった」
『……あんにゃろ』
 チッと舌打ちまでが聞こえて、思わず私の顔に笑みが浮かぶ。
 ざまあみろ。
「今、暇?」
『……暇だけど』
「だったら、どこかで会えない?」
『え……?』
「今日だけ特別。言ったでしょ? 声を聞いたら会いたくなるって」
 だから電話番号を教えてくれると言った時、私は自分から断った。
 声だけじゃ足りない。会いたい。顔が見たい。
 会ったら会ったで抱きつきたいとか触って欲しいとか思うけど、今のところは自制心が勝っている。
 センセはどうか知らないけど。
『お前、今どこだ?』
「駅前」
『あー……そっか。誰かに見つかるとヤバいな』
 少し考えるように間を置いたあと、センセは意外な事を口にした。
『お前、金あるか?』
「お金?」
 あると言えばある。バイトをしてない高校生のお小遣いなんて知れてるけれど、チョコと誕生日プレゼントを買ってもまだ半分ぐらいは残ってる。
 けど、センセの言う金額がいくらなのかは分からないし。
 そう思って携帯を肩に挟んで鞄から財布を取り出していると、耳元からセンセの声が聞こえた。
『千円もありゃ十分だ。こっち来い』
「こっち……って」
『俺がそっちに行く方がマズいだろ、校区なんだし。それとも金がないのか?』
「う、ううん! 千円ぐらいなら充分あるっ」
 慌てて携帯を持ち直すと、電話の向こうでセンセが笑い含みの吐息を吐いた。
『なら、俺も今から用意するから……30分後ぐらいか』
 そう言って、四つ離れた駅の名前を告げる。
『駅前に噴水があるから、そこで待ち合わせな』
「うん、分かった」
『じゃ、また後で』
「はーい」
 プツリと電話が切れ、携帯を切って鞄に仕舞う。
 そうしている間にも、私の頬は緩んでくる。

 センセとは毎日のように顔を合わせている。
 けど、こんな風に休日に会うのは、それこそ夏の海での一回限り。
 あの時はまだ、センセの事をこんな風に想ってなかったから気にならなかったけど。

「うわぁ……幸せだぁ」
 単純と言えば単純。二人きりになる事すら難しい私達にとって、これほど嬉しい事はない。
 でも、センセをびっくりさせるのが今日の目的。
 一つ目の課題はクリアしたし、次の作戦も気を抜かないようにしないと。
「よしっ」
 鞄の中から財布を取り出し、誕生日プレゼントを確認。
 残ったカフェオレを飲み干して、私はドーナツ屋を出た。

 ****

 待ち合わせ場所に到着すると、センセは先に待っていた。
 パーカーにジーンズのラフな私服姿。普段はシャツにスラックスが多いから、何だか新鮮。
「待った?」
「いや、今来たとこ」
 走り寄った私に気付いたセンセは、ひらりと片手を振って見せた。
 まるで恋人同士みたいなやりとりに、思わず頬が緩みそうになる。
 けど、それをセンセに気取られたくなくて、私は顔の筋肉を引き締めた。
「しっかし、マジでびっくりした。電話してくるなんて思わなかったし」
「センセが悪いんだよ。あんなもの書いて寄越すから」
 眉尻を下げて言うセンセに、私はわざと唇を尖らせる。
 本音を言えば、もうそんなに怒ってないけれど。
 でもセンセは、私の様子にますます苦い笑みを浮かべると、ぽんっと私の頭に手を置いた。
「分かったから機嫌直せって」
 くしゃくしゃと頭を撫でる手は優しい。
 ちょっとがさつだとも思うけど、こうして触れられるのは嫌いじゃない。
「折角だから、どっか行くか。立ち話もなんだしさ」
「うん」
 最後にもう一度、私の頭を軽く叩いたセンセの言葉に、私は表情を戻して頷いて見せた。
「けど」
 先に立って歩き出そうとしたセンセに声を掛ける。
「出来れば人の少ない所、の方が……」
 幸い、学校からは少し離れている。
 でも万が一、誰かに見つかったら。
 それはセンセも思ってたんだろう。私の言葉に動揺した風でもなく「そうだな」と小さく頷いた。

「なら、ちょっと歩くけど」
「ん」
 そう言って、ほんの一瞬センセの手が私に向かって差し出された。
 けれどそれは、本当に一瞬の事で。センセの手はすぐにパーカーのポケットに突っ込まれた。

 その事が少し寂しかったりもするけれど、これが今の私のセンセの距離だから仕方ない。

 他愛もない話をしながら歩くこと約10分。
 着いた先は、住宅街の真ん中にある小さなカフェだった。
「こんちはー」
 普段のセンセからは想像も出来なかったけれど、慣れた様子でお店の中に声を掛ける所からすると、それなりに回数を重ねてるお店らしい。
 何か意外だ。
「お、細野君。珍しいね〜、一人じゃないんだ」
 カウンターと、テーブル席が二組の小さなお店。
 センセの声に奥から顔を出したのは、私のお父さんぐらいの年頃の、髭面のおじさんだった。
「バレンタインすから。マスター、ホットね」
「あいよ」
 背の高いカウンターの椅子に腰を下ろしながらセンセが言う。
 日曜だけど、他にお客さんは居ない。確かに人は少ないみたいだ。
 カウンターの奥には色んなお酒のボトルが並んでいるから、夜にはバーになるのかも。
 その雰囲気が物珍しくてきょろきょろしていると、髭の店長さんはにこやかに笑いながら、私に声を掛けてきた。
「彼女は? 何にする?」
「あ、じゃあレモンティーを」
「あいよ」
 深い意味は無いはずなのに『彼女』の単語に胸が弾む。
 ちらりとセンセの様子を伺うと、センセは特に気にした様子はない。
「マスター、ユリちゃんは?」
「夜の仕込みで家だよ。バレンタインだから、チョコのサービスをしようかって話があってね」
「え、マスターからすか?」
「俺が渡してどうすんだよ、カミさんからに決まってんだろ」
 センセの隣に腰を下ろす間にも、二人は楽しそうに会話をしている。
 何処かで見たような光景だなぁ、と思ったけど、その正体はすぐに分かった。
 普段のセンセと辺見君だ。
 そのまま、マスターとセンセに当てはめるとしっくり来る。
 その事がまた、私の中に優越感を覚えさせる。

 学校じゃ誰も知らないんだろうな、こんなセンセ。

 何となく嬉しくなって笑っていると、カウンターの向こうから店長さんが顔を上げた。
「それに俺が渡さなくても、細野君はもらえんだろ、そっちの可愛い彼女から」
「え……あー……」
 ニヤリ。そんな擬音が聞こえてきそうな店長さんの声に、センセは不意に口ごもった。
「まあ……たぶん。……だよな?」
 って、いきなりコッチに振らない。
 センセの戸惑いが移ったみたいで、こっちまで恥ずかしくなってくる。
「あるけど。一応」
 一応どころか、しっかりばっちり用意してるけどね。
 流石に手作りは、お母さんやお姉ちゃんにバレるかも知れないから無理だったけど、誕生日プレゼントと一緒に用意したチョコは、鞄の中で今か今かと出番を待っている。
「……あるんだ」
「そりゃ、バレンタインだし」
 ボソボソと呟いた声は我ながら可愛げがない。もしかすると怒ってるように聞こえたかも知れない。
 でもセンセは片手で口元を覆うと、何故か私から視線を外して、「うわぁ」とか何とか呟いている。
 その動揺具合が面白くて、私はわざとセンセににっこり笑いかけた。
「誕生日プレゼントも用意したよ?」
「マジで?」
「マジで」
 頷きで肯定して見せれば、センセはカウンターに肘を突いて、今度は完全に顔を覆って俯いてしまった。
「……お前、不意打ちクィーンだな」
「何、その称号」
 くぐもった声は聞き取り辛かった。ただ決して、手放しで誉められてるとは思えなくて。

 むしろ蔑称に聞こえるんだけど。

 ぶすくれた私と顔を上げないセンセの間で沈黙が流れる。
 その沈黙を破ったのは店長さんだった。
「はい、ホットとレモンティーね」
「あ、ああ」
「ありがとうございます」
 真っ白なコーヒーカップと青い縁取りのティーカップが目の前に置かれる。
 櫛形に切られたレモンの小皿を置いた店長さんは、無言でコーヒーをすするセンセと、砂糖の瓶を引き寄せた私を交互に見比べ、私に顔を向けた。
「彼女、細野君こう見えて甘党だから。あと手料理にも弱いから、今から練習しとくと良いよ」

「ちょ、マスターっ!」
 いかにも楽しそうに笑う店長さんに、狼狽も露わなセンセが声を上げる。
 センセの顔は耳まで真っ赤だ。
 何だろう……凄く面白い。
「照れるな照れるな。俺、カミさんに電話してくっから。細野君、店の中でやらしー事しちゃ駄目だよ」
「しませんよっ!」
 明らかにからかっている店長さんは、のっそりと此方に回って来ると、携帯を片手に、センセの抗議の声も何処吹く風。そのままぴらぴらと手を振って、お店の外へと出て行った。


 もしかして――気を利かせてくれたのかな。

 ふとそんな事を考えながらセンセを見ると、センセは拗ねた子どもみたいな顔付きで、ガラス越しに店長さんを軽く睨みつけていた。
「……ぷっ」
 思いもよらなかったセンセの一面。
 それに思わず吹き出すと、センセは拗ねた表情のまま私に視線を向け、それからコーヒーカップに手を伸ばした。
「センセ、おかしー」
「……連れて来るんじゃなかった」
 堪えきれずくすくす笑う私に、センセはますます苦い顔。
 本当に子どもみたいだ。
「良いじゃん。私、嬉しいよ?」
 こんなセンセが見られるなんて、むしろ嬉しいって言うより楽しいけど。それを言ったらますます拗ねそうだから止めておこう。
「面白い人だね、店長さん」
「まあ……悪い人じゃないけど。つか笑うな」
 なかなか笑いの収まらない私を見て、コーヒーを啜ったセンセは、ふぅ、と大きく息を吐いた。
「それより……用意してんだよな?」
「あ、うん」
 センセの言葉に私は笑いを漏らしながら、センセに背中を向ける形で慌てて鞄の中に手を伸ばした。
 青い包みはチョコレート。それより一回り大きな白い箱は誕生日プレゼント。
「はい」
 二つを重ねて差し出すと、センセはようやく機嫌を直したらしく、カップを戻してそれを受け取った。
「さんきゅ。開けて良いか?」
「どーぞ」
 私が頷いたのを見て、センセはまずチョコの包みを開いた。
 それなりに悩んだ末に選んだチョコは、少しお酒の効いたトリュフチョコ。
 さっきの店長さんの言葉は嘘じゃなかったようで、包みを開いた瞬間センセは嬉しそうに頬を緩めた。
「お、美味そう」
 一粒。摘んで口の中に放り込む。
 もぐもぐと口を動かすセンセの様子を伺っていると、センセはもう一粒チョコを摘んだ。
「美味しい?」
 別に自分で作った訳じゃないけれど、この時期お店に並ぶチョコは、普段じゃ食べられない物だから。気になって声を掛けると、センセは口角を上げて私の口元にチョコを差し出した。
「え?」
「食ったら分かる」

 いや、まあ、そりゃあそうなんだろうけど――。

 いたずらっ子みたいな表情で差し出されたチョコに、思わず戸惑う。
 一瞬の戸惑いがセンセにも伝わったのか、センセは勝ち誇ったような表情で。
 でもここで引くのも癪だ。
 今日は私が驚かせるって決めたんだから。
 そう考えたら自然に、チョコを持つセンセの手首を掴んでいた。
 顔を寄せ、センセの指先からチョコを食べる。
「……おいし」
 案外柔らかいチョコが口の中で解けるようにして溶けていくと、オレンジリキュールの香りとチョコの甘さが口の中に残った。
「ごちそうさま」
 ついでにセンセの指先に付いたココアの粉をぺろりと舐めると、センセの手首から手を離す。センセはびっくりしたらしく、身動き一つしないまま目を大きく見開いていた。
「そっちも開けてみて?」
 硬直したみたいに動かないセンセに、今度はこっちがいたずらっ子になった気分。
 そんな想いに満足感を抱きつつ、誕生日プレゼントを目で示すと、センセは「ああ」とか「うん」とか言いながら、チョコの包みをカウンターに置いた。
 箱と同じ白いリボンがするりと解かれ、センセの両手が蓋を持ち上げる。
 中から覗いたのは薄いブルーのドレスシャツ。
「これ……」
「これなら、普段でも使えるでしょ? サイズも、たぶん大丈夫なはず」
 身に着ける物を贈るのは、その人を束縛したい想いから来るものだって話がある。
 もちろん、そんな深い意味が無い場合も多いんだけどさ。
 好きな人に身に着ける物を贈る場合は、少なからず束縛したいって想いがあると思う。
 一介の女子高生のお小遣いじゃ、プレゼント出来る物も限られてるし、むしろ時計や靴なんかは高すぎて、今の私とセンセの距離じゃ不釣り合い。
 それに普段からノータイにシャツのセンセだから、これなら特別誰かに意識される事もないはずだ。
「センセ?」
 センセは箱の中身を見つめたまま動かない。
 趣味に合わなかったのかと不安に思いつつ顔を覗き込むと、意外な事にセンセは泣きそうな顔で笑っていた。
「せん――」
「ありがとな」
 小さな小さな感謝の言葉。
 顔を上げたセンセは私に視線を合わせ、本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
 その顔があまりにも嬉しそうだったから。今度は私が言葉を失った。
「大事にさせてもらう」
「あ……うん」
 そっと箱の蓋を閉じ、青い包みと白い箱を重ねて戻す。
「値段じゃないんだな、こういうの」
 重ねたプレゼントを見つめながらセンセがぽつりと呟いた。
「なんか……上手く言えないけど。これを選んでるお前とか想像したら、めちゃくちゃ嬉しくなった」
「そ……んな、全然大した物じゃないし。大袈裟だよ、センセ」
 そんな風に言われるなんて思わなかった。
 むしろセンセを驚かせたいって気持ちの方が大きかったから……そう言われると、どうして良いのか分からない。
 無性に照れ臭くなって、私は慌ててセンセから視線を外すと、ティーカップに手を伸ばす。
 けれどカップを手にする前に、私の手はセンセの大きな手に包み込まれた。
「けど、好きな奴から貰えるのって、やっぱ嬉しい」
 ありがとう、ともう一度呟くセンセの顔は、やっぱり嬉しそうで。
 握られた手の大きさに。その暖かさに。穏やかな声に。顔を赤くする私を見たセンセは、ちらりと私の後ろを気にして、それからゆっくりと私に口付けを落とした。
 優しく唇が重ねられ息が止まる。
 暖かな舌が唇を這う感触に思わず口を引き結んだけれど、センセの舌は唇の隙間からするりと侵入を果たす。
 それに応える事もままならず、私は強く目を閉じてセンセにされるがまま。
 唇を柔らかく噛まれ、拳を作る私の手を、センセはあくまで優しくしっかりと握りしめる。

 チョコの味が残るキスは、すごくすごく甘かった。

 その甘さに酔いそうになった頃、センセは名残惜しそうに唇を離した。
 もう一度、私の背後に目をやったセンセにつられ、私もお店の出入り口を振り返る。
 店長さんはガラスの向こうで、こちらに背を向け何やら楽しそうに笑っていた。
 その事に少し安心していると、今度はセンセの方から意外な言葉が飛び出した。
「……付き合うか」
「え……?」
 振り向くと、センセは私の手を恋人繋ぎに握り直し、しれっとした顔付きで。
「今の中途半端な距離って、正直かなり嫌なんだけど」
 まだ顔に血が昇っている私を視線だけで見下ろして、反対側の手にコーヒーカップを持ち上げた。
「そ……う?」
 本音を言えば私だって嫌だけど。
 でも、教師と生徒って立場がある以上、越えちゃいけない一線があるのも確か。
 さっきのキスだって、こうして手を握ってる事だって、有り得ない距離だ。
 今日は特別な日。バレンタインで誕生日。だから、特別なんであって、これが特別じゃなくなったら……自制出来る自信は私にはない。
 だから敢えて否定も肯定もしない私に、コーヒーを飲み干したセンセは、困ったように眉を寄せた。
「むしろ我慢する方が嫌っつか……。二人の時ぐらいは、こう言う距離で居たいんだよ、俺は」
 そう言って、私の手を自分の足に乗せ、その分、私とセンセの距離は近くなる。
「嫌なら、手、離すぞ」
「あ、それ脅し」
「何とでも言え。――返事は?」
 痛いぐらいに握られた手は、拒否する事を拒んでいるよう。
 ここで即答出来れば可愛いんだろうけど――残念ながら私はそこまで素直じゃない。
 だから代わりに、紅茶を一息に飲み干して、センセの手を強く握り返した。
「電話する前に、メールしてくれる?」
「ああ」
「会えなくても、文句言わない?」
「それはこっちの台詞」
 大人なセンセは、子どもな私の言葉に、いちいち素直に頷いてくれる。
 それが少し悔しくて。でも、それ以上に嬉しくて。
 私はセンセに寄り添うと、にぃっと笑ってセンセを見上げた。
「海でナンパは?」
「……二度としない」
 私の言葉に、センセはぐっと押し黙り、それから苦い笑みを浮かべた。
「なら良しっ」
 センセの返答に満足して私が笑みを深くした、ちょうどその時、背後で扉の開く音が聞こえた。
「おっ、らぶらぶだねー、お二人さん」
 からかうような店長さんの言葉に、私は思わず身を引こうとする。
 けれど。
「バレンタインすから。電話、もう良いんすか?」
 しれっとした顔付きのセンセは、私の手を握り締めたまま、通り過ぎる店長さんに至って普通に声を掛けた。
「ああ。細野君、あんま見せつけんなよ?」
「普通でしょ、これぐらいは」
「言うねえ」
 握った手を店長さんに見せびらかすもんだから、私は内心恥ずかしくて仕方ない。
 カウンターの奥に戻る店長さんは、そんな私とセンセの様子に、ニヤリと笑って口を開いた。
「その様子だと、上手く行ってるみたいだな」
「お陰様で」
「おいおい、ちょっとは照れろ。からかい甲斐のないヤツだな」
「ヤですよ。つか、人を玩具にしすぎなんすよ、マスターは」
「そんな事ぁねえ。細野君の反応が面白いから、ついついからかいたくなっちまうんだよ」
「俺は面白くないんすけど」

 ……やっぱり面白い。

 目の前の遣り取りに再び笑いがこみ上げる。
 そんな私に気付いたか、センセと店長さんは、二人して私に視線を向けた。
「ほら、細野君が面白すぎるから」
「違いますって。お前も笑うな」
「ご……ごめん」
 ニヤニヤ笑う店長さんと、少しむくれたセンセに、私はなかなか笑いをおさめる事が出来ない。

 これからもこんな距離でセンセを見られると思うと、その嬉しさも重なって、お店を出るまでずっと、私はくすくすと笑っていた。



 余談ではあるけれど、センセは早速月曜に私が贈った誕生日プレゼントを身に着けて来て。
 その事についニヤニヤしてしまったのは、ここだけの話だ。

*****


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2010年02月27日(土) 08:47:39 Modified by ID:Bo5P9jtb2Q




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