遠子と英介

初出スレ:5代目293〜

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英介君が生まれたのは、ある四月のあたたかな日の事でした。
その頃五歳になったわたしは、三歳になった弟を連れて、よく英介君の家に遊びに行っていました。産まれたばかりの英介君を見るためです。
やわらかな産着にくるまれた英介君は、本当にちいさくて、たとえようのないくらいかわいい赤ちゃんでした。わたしが人差し指を差し出すと、英介君はわたしの顔を見つめながら、わたしの指をきゅっと握りました。
おばさんはわたし達に、「英介がもう少し大きくなったら、二人とも一緒に遊んであげてね」と言いました。わたしは笑顔でうなずきながら、「大きくなったら、一緒に遊ぼうね」と、まだ口もきけない英介君にそう言ったのを憶えています。
それから英介君はすくすくと成長していきました。わたしが小学校に上がった頃、英介君はもう言葉も覚え始めていました。
わたしは弟と英介君とおばさんと一緒に近くの公園で遊びました。英介君はよく人見知りする子で、知らない人が話しかけると、わたしの後ろによく隠れました。わたしや弟の後ろをついて歩き回る英介君を見ると、わたしはもう一人弟が出来たみたいですごくうれしくなりました。
時々走って転んだりして、よく泣いたりもしました。おばさんにだっこされてからようやく泣き止む英介君は、なんだかかよわい仔犬のようでした。それからも、わたしは弟と英介君と一緒に遊びました。

ですが、それもあまり長くは続きませんでした。
わたしが、小学校の中学年に上がった頃から学校の友達と遊ぶようになったからです。英介君も英介君で、幼稚園に入園し、そっちの友達に夢中になっていました。わたしもそれならその方がいいと思い、そのまま自然と遊ぶことは無くなっていきました。
わたしが六年生になったとき、ようやく英介君は小学一年生になりました。
学校で姿を見かけた時はよく声をかけていました。英介君は大きくなったわたしに慣れないのか、声をかけてももじもじするばかりでした。
やがてわたしが中学校に上がると、もう完全に英介君との付き合いは途絶えていました。わたしは部活に入って帰りが遅くなり、英介君の生活リズムとはまったく違った生活を送っていたのです。
おばさんとは、家の近所ですれ違った時にあいさつを交わしていました。たまに世間話をする事もありましたが、英介君の名前が出たことはあまりありませんでした。
たまに、英介君の家の前を通るとき、不意に寂しい気持ちになることが何度かありました。もうこのまま、英介君には会えない。そんな気が、したからです。それでも、時間はながれていき…。
わたしは、いつのまにやら大学生になってい

わたしは、いつのまにやら大学生になっていました。

顔をなでる風が気持ちよい。夕暮れの街並みは、ノスタルジックでわたしの心をくすぐる。わたしは鼻歌を歌いながら自転車を漕いでいく。
コンビニの角を曲がった所で、ふと前方に、見覚えのある姿が見えた。英介君のおばさんだった。
おばさんもこちらに気がついた。わたしは自転車に乗ったまま軽く会釈し、「こんばんは」といった。
おばさんもこんばんは、と返してくれた。だがその直後、わたしはおばさんに呼び止められた。
「あ、遠子ちゃん」
わたしは数メートル走った後、ブレーキをかけた。振り向くと、おばさんは小走りにこちらにやってきて、
「遠子ちゃん、今、ヒマ?」
わたしにそう聞いた。

久しぶりに入った英介君の家は、前に見た時より小さく感じられた。こんな感じだったかなぁ、とわたしがきょろきょろしていると、おばさんが台所から顔を出して言った。
「遠子ちゃん、お茶とコーヒーどっちがいい?」
わたしは、頭の中では“どうぞおかまいなく”と思っていたのだが、つい「あ、じゃあ、お茶で」と言ってしまった。
「そう、じゃ、ちょっと待ってて」
おばさんはそう言うと台所の中に消えた。
部屋の中は静寂に包まれた。なんだか一秒一秒がすごく長く感じる。わたしはローボードの上に置かれた、なんだかよくわからない置物を眺めていた。

おばさんはわたしに頼みたい事があると言っていた。何だろう、頼みたい事って。わたしにできる事なんだろうか。そんな事を考えていると、ふとあることが気になった。
そういえば、今英介君は居るのかな。別に居ようが居まいがどうともないのだが、一度気になると無性に確かめたくなってきた。
わたしはこっそり玄関に戻ると、置いてある靴を調べた。
自分のスニーカーと、おばさんのものらしき女物の靴が二、三足。それと、男物だけどどうやらおじさんのものらしきサンダルが一足。
英介君はまだ、帰ってきてないようだった。
「おまたせー…あら?何やってんの?」
いきなりおばさんに話しかけられ、わたしはとびあがりそうなほど驚いた。
「あっ…えっと、靴を直そうと思って」
「あぁいいのよ気にしないで。ほら、お茶淹れたから、座って座って」
おばさんはソファをあごでしゃくった。わたしはすごすごと居間に戻り、ソファに座った。
おばさんはわたしの前にお茶を差し出すと、「おかき食べる?おいしいわよこれ」と、一緒におかきのたくさん入った器も差し出した。
わたしはいただきます、とお茶を一口すすると、おばさんをちらりと伺った。
「それでね、頼みたい事なんだけど」
…来た。わたしは少し身構えた。
「うちのね、英介の勉強を見てほしいのよ」

心臓がびくん、と動いた。
予想していなかったと言えば嘘になるが、それでも違うだろうという考えが大部分を占めていた頭の中は、一瞬だけまっしろになった。
「…え、英介君の勉強ってことは、要するに、カテイキョーシ、ってことですか」
意識せずとも、声がしどろもどろになる。
「まあ、そういうことになるかな。ほら、英介も今中学生で、しかも今年は受験あるでしょ?あの子ほっとくと勉強なんてほっとんどしないもんだから…」
「あれ?英介君ってもう中学生…?」
わたしがいま二十歳で五歳下なのだから当たり前なのだが、わたしは時の流れは恐ろしいと心から思った。
「ねー、この間まで赤ちゃんだと思ってたのに、時間の流れってあっという間だよねぇ。あたしも遠子ちゃんが大学合格したって聞いたときそう思ったもん」
「あっちょっと何ですかそれー」
わたしはおばさんと二人で笑った。おばさんは笑いながらおかきを一つ取ると、袋を開けながら言った。
「…うん、だから遠子ちゃん、ちょっとあいつの勉強見てやってよ」
「でも、受験のためだって言うなら、わたしよりもプロの人雇った方が良いんじゃないですか?わたし雇うよりそっちのほうがよっぽど確実ですよ」
おばさんはおかきをほおばり、苦笑しながら言う。
「うーん、まあそれも考えたんだけどね、でもー…今、あの子ちょっと荒れてんのよ」

…荒れてる?わたしはいまいち、英介君と荒れてるという言葉が繋がらなかった。
「荒れるっていうと…つまり…不良ですか」
おばさんはうん、とうなずいた。
なんてこった。あの小さかった英介君が、不良になっていたなんて。あの、わたしの後を一生懸命ついて歩いたあの英介君が…。
わたしはショックでしばらく何も言えなかった。そんなわたしを安心させるためか、おばさんは言った。
「…あ、大丈夫よ、荒れてるって言っても、そんなにひどい状態じゃないから。安心して。…まーそんなわけで、プロの人に頼もうとも思ったんだけどね。
見ず知らずの人じゃ、言うこと聞かないかもと思って。遠子ちゃんなら、小さい頃一緒に遊んだし、あいつも言うこと聞くだろうからさ」
「はぁ…」
どうやら、おばさんの話ではそれ程ひどい状態でもないようだ。でも、それもどの程度かは、わからない。
「心配しないで、そんな有名な進学校に上げろって言う訳じゃないの。せめて商業ぐらいで良いから…」
商業といえば、言っちゃ悪いが馬鹿が入る高校として有名だ。それで“せめて”と言うからには、かなりひどいのだろうか。自信がなくなってきた。
「ね?おねがいよ遠子ちゃん。あたしもなんだかんだ言ってもあいつがかわいいし、中卒で終わらせたくないのよ。情けない話だけど」
そう言うとおばさんは手を合わせて頭を下げた。

「うう…。で…でも…自分で言うのも自意識過剰ですけど、やっぱり中学生の男の子っていうと…その、いろいろあるんじゃ…」
自分で言っててなんだか恥ずかしかった。だが、おばさんは全然気にしないといった感じで笑い飛ばした。
「ああなに?思春期だから?ぜーんぜん大丈夫よあいつにそんなとこあるわけないじゃない、それに部屋で二人っきりってのが気まずいんだったらほら、ここでやったら良いじゃない。あたしは邪魔しないし」
そう言うとおばさんは目の前のテーブルをばしばしと叩いた。湯のみがかたかたと揺れた。
確かに、ここならあんまり気まずいという感じがしない。それに隣におばさんも居るなら安心できる。
わたしが少し気を許したのをおばさんは見逃さなかった。
「それに知り合いだからって別にタダでやらせようってんじゃないのよ。ちゃんとお金は払うし」
お金。この言葉にわたしの心は大きく動いた。今のわたしには確かにお金が必要だった。
わたしは大学の学費を自分で払っている。自分が行きたいと言って入った大学なのだから、それが当然だと思っていた。
ただ、いまのバイトでは学費と“諸々の支払い”で精一杯だった。自分で自由に使うお金もあまりない。
確かに、小遣い稼ぎには丁度良いかもしれない。

わたしの心が大きく揺らぐ。確かに英介君が不良になってしまったのはショックだが、その英介君の面倒を見るだけでお金が貰えるなら、嬉しいことこの上ない。
それに…不良の相手をするのは慣れている、つもりだ。どうしよう、引き受けてしまおうか。
その時だった。わたしが答えあぐねていると、玄関の扉の開く音がした。たぶんわたしは今日一日でこの瞬間が一番驚いた。
「あら、英介かしら?」おばさんはソファから立ち上がると、ちょっと待っててね、と言い残して玄関へと消えた。わたしは居間に一人取り残された。
奥から、おばさんの声が聞こえる。どこからか心臓の鼓動も聞こえる。
おばさんの声に、もう一つ、低い声が答える。鼓動が早く、そして大きくなっていく。
不意に、おばさんの“あいさつしなさい”という声が聞こえた。低い声は嫌がっているようだったが、おばさんはそれでも諦めなかった。
わたしは、会いたいような、でも会いたくないような、ヘンな気持ちで一杯だった。これほどヘンな気持ちになったのは今まで一度もない。
そうこうしているうちに、二つの足音が、こちらに向かってやってきた。
―ち、ちょっと待っておばさん、まだ心の準備が…!!
「ほら、久しぶりなんだし、ちゃんとあいさつしなさいよ」
おばさんは後ろに向かってそう言った。

おばさんに腕を引っ張られて、英介君が、部屋に入ってきた。
英介君は思ったよりも背が伸びていた。おばさんよりも頭一つ分くらい大きかった。
わたしは「あ、の、久しぶり」となるべく普段のようにあいさつした。「久しぶり」の部分が裏返った。
英介君とわたしは一瞬だけ目が合った。だけど英介君の方がすぐに目を逸らしてしまった。そして、これまた思ったよりも低い声で「…どうも」と言った。
わたしもなんだか気まずくなって、目を伏せようとした。しかし改めて見てみると、やっぱり不良なんだ、とつくづく思った。
伸びた茶色い髪、だらしなく開いた学ラン、シャツはもちろん出ているし、ズボンはだらだらと引きずっている。その姿に昔の英介君を重ねても、ただただ悲しいだけだった。
「これからあんたの勉強の面倒見てもらおうと思って、今話してたとこなのよ。もし決まれば、これから世話になるんだから、ちゃんとしなさいよあんた」
おばさんは英介君に言ったが、英介君はおばさんを睨むと、
「…別にいらねえし」と言って部屋を出て行こうとした。おばさんはちょっと待ちなさい、と言って英介君の腕を掴んだが、英介君は思い切り振りほどき、
「別にいらねえっつってんだろ!誰がんなこと頼んだんだよ!!」
と怒鳴った。
びっくりしているおばさんとわたしを一瞥すると、舌打ちを一つして、部屋を出て行った。

おばさんは、階段をのぼっていく足音にむかって、
「あんたご飯どうするの?」と聞いたが、返事の代わりにドアを閉める音が返ってきただけだった。おばさんはわたしを見ると、力なく笑いながら言った。
「…ごめんねぇ、みっともないトコ見せて」
おしまいに、大きな溜め息を一つついた。
…お気持ち、察します。おばさん。
おばさんは、なんだかさっきより老けて見えた。

翌日。わたしは弟の部屋を訪れた。襖をトントンと叩く。
「総太郎、ちょっと入っても良い?」
返事はない。今度はさっきよりも強めにバンバンと叩く。
「総ー、聞こえてんの!?入るよ!?」
やっぱり返事はない。もういいや、開けちゃえ。
勢いよく襖を開けると総太郎はびくりと体をふるわせてこちらを見た。CDでも聞いていたらしく、金色の頭からヘッドホンを取ると、わたしを睨んでいった。
「何勝手に開けてんだよてめえ」
「ちゃんとノックしたんですけど。あんたが聞かなかったくせに勝手もクソもあるか。…ていうか、あんた相変わらず部屋きったないねえ」
わたしは足の踏み場を探しながら部屋へ入る。
「おい入んなよ」
「良いじゃんちょっとぐらい」
部屋をぐるっと見回す。脱ぎ散らかした服に、ゴミ、積み上がった漫画や雑誌、CDやゲームのケース…よくもまあ、こんなにものがあふれるものだと逆に感心してしまう。

「うわ、あんたこれタバコの吸い殻!?捨てなさいよこれ、さいてー」
わたしは吸い殻の何十本もたまった灰皿を拾い上げる。
そう、何を隠そう、うちの弟総太郎もまた立派(?)な不良だったのだ。
「あんた今日仕事休みなの?」
「休みじゃなかったら居るわけねーだろ」
ベッドの上に大の字になって寝転がる総太郎に尋ねる。総太郎は昼間働いて、夜学校に通っている。
わたしはCDのケースを踏まないように奥へ進み、押し入れの前へたどり着く。
「あんたさぁー、中学の時の教科書とか持ってない?」
わたしは押し入れを開け、下の段を漁ってみる。
「えー知らねー。捨てたんじゃねーの、つか勝手に開けんなってだから」
総太郎はベッドから起きあがると服やゴミを踏んづけてわたしの隣に来た。
「いや、あんたは持ってるはずだよ。あんたはそう言う奴」
わたしはダンボールを片っ端から開けながら言う。箱の一つには小学校の時のランドセルが入っていた。これなら教科書もどこかにある可能性が高い。
「おー懐かしいなこれ」
わたしが開けたダンボールを覗きながら総太郎が言う。その表情はまるで子供のようだ。
なんだかんだ不良ぶってても、昔から思い出を大事にするやつだった。わたしは弟のそういうところが好きだ。
思い出に浸る総太郎を横目で見ながら、わたしは五個目のダンボールを開けた。ようやっと、お目当てのものが顔を出した。

「おお、あったあった。えっと国語、数学、理科、地歴公民、それに英語。うん主要な教科は全部揃ってる。ちょっとこれ借りるよ」
「…良いけどなにすんの?」
「ん?まぁちょっとね、家庭教師のバイト始めるかなと思って」
総太郎はきょとんと目を丸くした。
「家庭教師?家庭教師って、あの家庭教師?え?お前が?教えてもらう側じゃなくて?」
「そうよその家庭教師よ、まあまだ決まった訳じゃないけど。っていうわけだから、ちょっとこれ借りてくよ」
わたしは来た道を、またCDのケースを踏まないように気を付けながら、かろやかに戻っていく。
「ふーん…っておいお前これ片づけてけよ!」
後ろで総太郎が怒鳴ったが、聞こえないふりをした。

自室に戻って早速教科書を見てみる。後ろには汚らしい字で
「三年二組 渡瀬 総太郎」
と書かれていた。
国語を手にとってパラパラとめくってみる。案の定、落書きだらけだった。
「…あいつ…」
予想してはいたことだったが、予想していた分なおさら呆れた。だが、殆どがくだらない落書きの中にも、たまに面白いのが幾つかあって、中には腹を抱えて笑ってしまったのもいくつかあった。
…英介君も、こんな落書きをしたりしているんだろうか。
昨日見た英介君は、いろんな意味で変わっていた。でも、それと同時に…おばさんもなんだか変わった気がした。なんだか無理に笑っている感じがした。

―見ず知らずの人じゃ、言うこと聞かないかもと思って。遠子ちゃんなら、あいつも言うこと聞くだろうからさ―
あの時おばさんはそう言っていた。でも本当の理由は別にあったんじゃないだろうか。
おばさんは、わたしに英介君を戻して欲しいのかもしれない。昔の可愛くて、優しかった英介君に。
「…なんで変わっちゃったんだろ、英介君」
わたしは溜め息をつきながら、積み上げた教科書の上に頭を寝かせた。そっと目を閉じる。色々考えたけれど、特に答えは思い浮かばない。当たり前か。…なんで当たり前なんだろ。
…そっか、英介君のこと、何にも知らないからか。
わたしは、わたしが見てこなかった八年間の英介君を何も知らない。好きな食べ物すらわからない。それを知るには、やっぱり。
しばらく考えた。答えが決まった。
「…やるか、家庭教師」



寝返りを打ったところで、目が覚めた。ぼやけた目で時計を確認する。
十一時半。三時間目が終わるところか。
のっそりと起き上がり、あくびをしながら首の後ろを掻いた。今日はいつもより起きるのが遅くなった。昨日なかなか寝付けなかったせいで。
“あの人”が、来たせいで。
最初、誰だかわからなかった。大きくなっていたし、小さい頃にはしていなかった眼鏡をかけていたし、化粧していたし。

だから最初、“あの人”だってわからなかった。たぶん向こうも、わからなかったと思う。
…家庭教師か。“あの人”が。あのババア、なんでいらねーことばっかりすんだよ。
「…あーめんどくせぇ」
そう呟きながら、俺は制服に着替え始めた。



その日の夕方、昨日と同じようにバイトから帰ってきたわたしは、また昨日と同じように英介君のおばさんと出会った。
わたしが家庭教師を引き受けることを決めたと伝えると、おばさんはとても喜んでいた。
「わたしいつもこれ位の時間にバイト終わるんで、それから弟のご飯作ってってなると…六時頃になるかな。時間はいつ頃が良いですか?」
「ああいいのよこっちはいつでも大歓迎だから」


「じゃあ…晩御飯の後にしますか。英介君いっつも何時頃ご飯食べ終わります?」
わたしがそう言うとおばさんは急に苦い顔になった。
「ああ…うーん、晩ご飯、…いっつもバラバラなのよね。早く帰ってくる日もあるけど、帰りが遅くなる日もけっこうあるから」
これは盲点だった。確かに不良が規則正しい生活なんて送ってる訳がない。でも、決まった時間に始められなくちゃ、こっちも困る。
「でも、あたしもなるべく決まった時間に帰ってこさせるように頑張るから。せっかく遠子ちゃんがやる気だしてくれたんだもんね」
おばさんはやる気に満ちた表情で言う。
「ええ、そうしてください。じゃあ…来週の月曜日の、午後七時半頃、そっちに行きますから」
わたしはそう言うと、おばさんと別れ帰宅した。
さて、これからどうなるか。期待と不安の入り混じった気持ちで、わたしは玄関のドアを開けた。













時計の針の音が、一定のリズムで鳴っている。わたしは、時計を見上げた。もう何度目になるかわからない。
午後七時五十七分。時計は、間違いなくその時刻をさしていた。居間には、わたしとおばさんの二人だけがいた。
「…ごめんね、遠子ちゃん。あいつ、ほんとどこで何やってんだか…」
おばさんは溜め息をつきながら言った。
わたしが英介君の家に着いたのは、今から三十分前の事だった。扉が開くなり、困惑した表情のおばさんが出てきた。
英介君が、まだ学校から戻ってこないらしく、おばさんは相当慌てていた。
わたしは、忘れているのかもしれない、もしかしたら途中で思い出して帰ってくるかもしれないと言って、おばさんを落ち着かせ、待たせてもらうことにした。
そうして三十分間、じっと待ち続けてきた。
「ほんとうにごめん、あれだけ何回も言っておいたのに…」
おばさんが言った次の瞬間、時計から音楽が流れてきた。音楽に合わせて時計の中の人形達が踊り始める。とうとう、八時になってしまった。
ある程度は予想していた事だったが、いくら何でもあんまりだ。わたしはしびれを切らして立ち上がった。
おばさんははっとして、不安げな表情でわたしを見上げた。帰ってしまうのかと心配したのだろう。でも安心して、おばさん。
わたしは言った。
「英介君を、探してきます」



「おい、今何時」
隣でコーラを飲んでいた小林に聞いた。小林はえー、何時だ?と呟きながらポケットから携帯を取り出し、片手で開いて画面を確認した。
「お、ちょうど八時だ。こーいうのってなんかちょっとラッキーじゃね?」
八時か…。もうそろそろ、帰っただろうか。
「牧田も携帯ぐれぇ持てばいいのに。今時別に早くもねえべ中学なら」
小林の隣に座っていた江橋が携帯をいじりながら言った。俺はああ、と曖昧な返事を返した。
最初に言われたのは、一昨日のことだった。家に帰ると、ババアがいきなり出てきて言った。
“あの人”が家庭教師として来ることに決まったから、これからは早く家に帰るようにしろと。
俺はもう、怒鳴る気にもなれなかった。何でこうも、いらない事ばかりしてくれるのか。
そのままババアは、明後日の七時半には来るから、それまでには帰ってきて飯を済ませろと言ってきた。
だが俺はそんな気さらさらなかった。勉強何て面倒臭いし、何より、“あの人”と会いたくなかった。
だから今、こうやってコンビニの前で時間を潰している。しかも、家の近くのコンビニではなく、少し離れたコンビニでだ。
ふと、腹が鳴った。そう言えば昼から何も口に入れてない。
「…おめーらなんか食った?」小林に聞いてみる。

「ん?俺は家で飯食ってきたけど、江橋は?」
「んー?俺もさっき食った」
江橋は相変わらず携帯をいじりながら言った。何だよ、何も食ってねーの俺だけかよ。
「…何か買ってくるわ」
俺は面倒臭えと思いながら立ち上がろうとした。その時だった。
「英介君」
高い声で、名前を呼ばれた。



「英介君」
わたしは膝に手をついて立ち上がろうとした英介君を呼んだ。
英介君と、その隣に居た二人の男の子が、一斉にこちらを見た。
カンが当たって良かった。わたしは何となくここだろう、と思っていた。
というのも、総太郎もよくここに来ていたからだ。
お父さんと喧嘩してそのまま家を出ていく総太郎を探すのがわたしの役目だったから、不良の行きそうな場所というのは何となく目星がついていたのだ。
コンビニにたむろするなら家の近くにもあるのに、わざわざちょっと離れた所を選ぶのは、家から少しでも離れたいという心理の表れだろうか。
まあ何にしてもご苦労なことで。
「…な、何で…」
何でわかった、てか?
英介君は目を丸くしてこちらを見ている。隣で座っている男の子は、何があったのかわからないという顔でわたしと英介君を交互に見た。
「何となくここじゃないかって思ったの。さ、早く帰ろう。勉強始めるよ」
わたしは英介君のそばへ行くと、手を差し出した。英介君はわたしの方を見ずに、ただ黙っていた。

「…おい牧田、こいつ誰?」
英介君のすぐ隣に座っていた男の子が英介君に言った。こいつって…せめてこの人って言いなさいよ。
わたしはそう言いたくなるのを抑えて、もう一度英介君に言った。今度はさっきよりも、強い口調で。
「英介君、何度も言わせないで。早く帰るよ」
「…っせえな…」
英介君は、わたしに聞こえるか聞こえないか位の声でぼそっと言った。
「勉強とか面倒臭えし…」
それに続いて、英介君の隣の男の子が言った。
「つーかさ、勉強って別にやる意味なくねえ?あんなん社会に出ても大して使わねーだろ」
…何言ってんの、この子。わたしはこの言葉に苛立ちを覚えた。
社会に出ても使わない?まだ社会に出たこともない子供が、何を偉そうに言ってるんだ。
わたしは、英介君だけじゃなく、三人を見据えて言った。
「君たち、英介君もだけど、高校に行きたいと思わないの?高校に行くには、勉強して、受験に受からないとだめなんだよ」
すると、携帯を片手に一番奥に座っていた少年がめんどくさそうに口を開いた。
「別に高校なんて、行けりゃどこでもいいし…」
その言葉が、さらにわたしの神経を逆なでする。
どこでもいい。自分の人生のこれからを決めるっていう時に、“どこでもいい”だと?あまりに人生をナメている。
さらに、英介君が続けた。
「…つーか、高校なんて出なくても別に生きていけんだろ」

その言葉がいけなかった。わたしの一番触れてはいけない部分に、触れてしまった。
わたしにしか聞こえない音を立てて、堪忍袋の緒が切れた。
「…おい、今なんつった」
「…は?」
三人がわたしを見上げた。わたしはもはや、決壊したダムのようだった。
「別に高校出なくても生きていけるだぁ!?生意気な事ぬかしてんじゃねーぞこのクソガキが!!
今大学出ても仕事がねーっつーこの時にてめぇ十五そこらのガキが高校もロクに出ねーでどうやって飯食ってくっつんだよ!!あんま世の中ナメてっとぶっ飛ばすぞこのタコスケが!!」
周囲が一瞬にして静まり返る。三人は目をまん丸にして、わたしを見上げ固まっていた。
「…あ」
やってしまった。つい…総太郎と喧嘩する時のようにやってしまった。
通行人が、全員こちらを見ている。それどころかコンビニの中の店員や客までもが、何があったのかとこちらをのぞいている。
わたしは体中の血が顔に集まったかというほど、顔が熱くなった。赤面しているのが自分でもよくわかる。
「…とっ…とにかく、そういうことだから、英介君は勉強しないとダメなんです。さ、行きましょう行きましょう」
ぽかん、と呆けている英介君の腕を、わたしは強引に引っ張った。英介君はよろけながら立ち上がり、引っ張られるままわたしのあとについてきた。

よし、なんとか英介君を連れ出すことに成功した。かわりに、何か女として大切なものを失ったような気もするけれど。



二本の細い腕が、俺の腕を掴んでいる。俺はしばらく何が起こったのかわからず、ただされるがままに、引っ張られていた。
相手がババアならともかく、…“この人”ともなると、力任せに振りほどくのも何だか気が引ける。
不意に、“あの人”が足を止めた。おそるおそる、という感じで、こっちを振り向く。
「…あの…さっきの…びっくり、した?」
…びっくりしたなんてもんじゃない。むしろ…ショックだった。“この人”に、まさかあんな言葉でののしられるとは思ってもみなかった。俺は無言で頷いた。
「やっ…やっぱりそうだよね…はぁ…。ごめんね、あたし弟と喧嘩する時いっつもあんな調子だから…ごめんね、引くよね…」
あうう、と言いながら、頭を抱えた。
「あ…でもね、高校出なくても生きていける、なんて、間違いだと思ってるのは本当だから」
また振り向いて、まっすぐに見つめられる。
これが、何だか慣れない。昔は俺の方が見上げていたはずなのに、でも今は。向こうが俺を見上げていて、俺が向こうを見下ろしている。
「…説教かよ」
まっすぐに俺に向けられた視線から逃れたくて、俺は目を逸らした。
「…違うよ、ただ心配なだけ。…さ、早く帰って勉強するよ」
そう言うと、また“あの人”は俺の腕を引っ張った。

まずい。このままじゃ、どうしても勉強から…いや、“この人”から逃れることは出来なさそうだ。…まあ、無理やり腕を振りほどいて逃げることもしようと思えば出来るんだが。
…その時、俺はあることを思い出した。
「…おい、俺腹減ってんだけど」
うまくいってくれるかどうかはわからないが、言うだけ言ってみた。“あの人”の足がぴたっと止まる。
「あー…そっか、英介君ご飯食べてないんだもんね…」
うーん、と小首を傾げて少し考え込む。頼む。
「…わかった。じゃあもう遅くなるし…今日はやめにしよう」
少し寂しそうな顔で“あの人”はそう言った。やった。俺は心の中で小さくガッツポーズした。…ん?“今日は”?
「じゃあ、次はいつの日がいい?今回はわたしの方で日付決めちゃったけど、やっぱり英介君の都合も聞かないとだめだよね」
…しまった。今日はなんとかこのまま逃れられそうだが、これじゃ根本の解決にはなってない。
…い、いつが良いって聞かれたってなあ…。
「…あ〜〜〜えっと…」
俺は答えに詰まった。でも、向こうは答えを待ちわびてる。どうする、なんて答えればいい。
…いや、答える必要はないんじゃないか。むしろここで本心をぶちまけてしまえばこれから先こんな面倒臭い思いをすることもない。
俺は一瞬だけ迷ったが、結局、言うことにした。

「…あのさぁ」
「…ん?」
「俺…こないだも言ったよな。そういうのさぁ、ほんと…いらないから」
そう言った瞬間、“あの人”のものすごく悲しげな顔が見えた。頼むから、そういう目で俺を見るのはやめてほしい。
「…そう…なの。い、いらない…か」
俺の腕を掴んでいた手が離れた。今のうちだ。
「…じゃあ、そういう事だから」
俺はそう言いながらその場を離れた。少し罪悪感が募ったが、これで良いんだと言い聞かせた。向こうは…もう俺に呆れただろうが、それでいいんだ。俺は少し早足で歩き始めた。
「…でもダメ」
…は?ダメ?俺は思わず後ろを振り返った。
結構距離を置いたはずだったが…目の前に、“あの人”がいた。俺は一瞬幽霊かと思って正直死ぬほど驚いた。
「英介君が何と言おうと…わたし、もう英介君を高校に行かせるって決めたから!次、しあさっての木曜日、また来るから!今度は逃がさないからね!覚悟してなさいよ!」
それじゃ、とそう言うと、“あの人”はダッシュで帰っていった。
俺はそのまま、そこに残され立ち尽くしていた。…ていうか、俺が“あの人”を置いていくつもりだったんだが。
「…まあいいか」
俺はそう一人で呟き、いつも通りの早さで歩き始めた。あーあ、帰ったらまたババアがうっせんだろうな…ていうか、木曜。どーするよ、オイ。



息を乱れさせながら、わたしは自宅の玄関を閉めた。
はあ、はあ、はあ、はあ。
薄暗い玄関に、わたしの息の音が響き渡る。猛ダッシュしたのなんて、高校を卒業して以来なかった。…さすがにちょっと運動不足か。息が整うのに、まだしばらくかかりそうだ。
わたしは靴も脱がずに、そのまま玄関にへたり込んだ。足が棒のようになっている。
…結局、何も教えられなかったなぁ…。まあ、世の中の厳しさについてはちょっとだけ教えられたような気もするけど。さすがにサボられるとは思わなかった。
あーあ、それにしても…英介君に恥ずかしいとこ見せちゃった。英介君のぽかん、とした顔が思い出される。完全に引いてたよね…。
でも私だって、ショックだった。「いらない」って、言われたとき。ついカッとなって、あんな風にまくし立てちゃったけど。
わたしの中で、“お節介”の三文字が、暗闇から浮かび上がる。英介君の中でわたしは、ただのお節介焼きでしかないんだろうか。
そういえば、話してる最中、英介君、わたしと全然目を合わせてくれなかった。返事はしてくれていたけれど、目は完全にわたしとは違う方をみていた。
「わたし…英介君に嫌われてるのかなぁ…」
意識したわけではなかったけれど、勝手に口をついて出てしまった。喋ることで、体の中からその気持ちを出したかったのかもしれない。

けど、不安は体の中から消えなかった。何だか自信が無くなってきた。わたしの中で諦めの気持ちが膨らんでくる。
英介君が高校に行こうが行くまいが、わたしの人生にはそんなの…。
いや、駄目だ。ここで諦めちゃいけない。わたしはおばさんからお金を貰うんだし、それに何より
…きっと英介君も後悔すると思う。そして、英介君に後悔させたわたしが一番、後悔すると思う。だからそんなの駄目だ。たとえそれが、わたしのエゴだとしても。
気がつけば息はもう整っていた。かわりに吹き出るような汗を全身に感じる。
「ああ…汗かいちゃったぁ…シャワー浴びよっと…」
わたしはそこで初めて靴を脱ぎ、家に上がった。着替えを取るために、一旦部屋に戻ることにする。
…あ。…鞄英介君ちに忘れた。…あ。しかも「探してくる」って言ったのにそのまま帰って来ちゃった。
…まぁ、いいか。鞄ならおばさんも英介君も勝手に中見るような人じゃないだろうし。英介君もそのうち帰るでしょ。腹減ったって言ってたし。
…それより、木曜。さて、どーするか。

翌日、俺は十時半頃、学校に到着した。
校門をくぐると、正面玄関の脇、校内からは見えなくなる所に、数人がたむろしているのが見えた。
その内の一人が、こちらに気付いて手を上げる。
「よお、牧田」
声をかけたのは、小林だった。隣には江橋もいた。
手前で座っていた大島と井口が振り向いた。
俺は心の中で舌打ちした。
間違いなく、小林と江橋は昨日の事について聞いてくるだろうと思ったからだ。
「おう牧田、こっち来いや」
大島は口から煙草の煙を吐き出しながら言った。
…無視すると後からうるさい。
俺は渋々、大島達の方に近寄った。
あまり長くそこに居たくなかったから、立ったままで居ることにした。
「おい牧田、昨日のあれさぁ、結局何だったん?」
…やっぱりな。
案の定、小林は昨日の事を聞いてきた。
しかも最悪なことに、二人の時や江橋だけならまだしも、大島と井口も居る前で。
「あ?何だ昨日のあれって」
大島は小林に尋ねた。
「いやさー、昨日牧田と江橋と三人でコンビニの前でダベッてたらさぁ、何か知らねー女がこいつのこと呼びに来てさ。なあ、江橋」
小林は江橋に振った。江橋はああ、と頷いた後俺を顎でしゃくった。

「んで何かさぁ、こいつがその女の事起こらせちまってよ、もンのすげぇ怒鳴られたんだよ。もう超おっかねーの」
俺は小林と江橋を殴りたい衝動に駆られた。
大島と井口はそれを聞いて下品に笑っていた。
「…え?それで?その後どうなった?」
井口はまだ少し笑いながら小林に尋ねる。
俺はおい、もう良いだろ、と言いかけたが、それよりも先に小林が口を開いた。
「その後、俺らポカーンってしてたら、何かそのまま牧田がその女に連行されて行っちまったよ」
「ふーん…牧田、おめーの彼女ドSなのなぁ」
大島がニヤつきながら俺を見る。
「…別に、彼女とかそんなんじゃねえし」
「じゃあ誰なんだよ」
井口もニヤつきながら聞いてくる。
答えたくない。だが、このまま黙っていると本当に彼女ってことにされそうだ。
気がつくと、その場の全員の目線が俺に集中していた。
…クソ。俺は心の中で悪態をついた。
「…ただの家庭教師だよ」
幼なじみの、ということはあえてふせておいた。
家庭教師!?
その場にいた全員が、口を揃えて聞き返した。
「お前いつの間に家庭教師とかつけたんだよ?え?何、お前勉強すんの?」
井口が心底意外だとでも言いたげに聞いてくる。
その口調が何だかムカつく。
「しねえよ。何か親が勝手につけやがった」
「へえ、大変だな。…おい、可愛かったか?」
大島は、なぜか俺ではなく小林と江橋に尋ねた。
小林と江橋は互いに顔を見合わせた。
「まあ…眼鏡かけてたけど…まぁけっこう美人だったよな」
小林は江橋に言った。江橋もうん、と頷く。

美人。褒められてるはずの言葉だが、こいつらが言うと何か引っかかるものがある。
すると、ニヤリと口元を歪めながら大島が言った。
「おーいいじゃん。え、やっぱさあ、エロいこととか教えてくれたりしねーの?」
…あ?今、なんつった?
井口も、それに続く。
「おーイイなそれ、セックスのヤり方とか教えてもらいてぇー」
大島と井口はそこで二人爆笑した。
小林と江橋もニヤニヤと笑っている。
俺はもう、怒りで声も出なくなっていた。
ただ四人を、黙って見下ろしていた。
「あー俺も美人の家庭教師とセックスしてえー」
俺はもはや、この場で全員を殴り倒したかった。
いや、殴り倒そうとした。
…おい、お前ら。喉元までその言葉が出かかった時だった。
「おい、お前ら!」
不意に大声で怒鳴られる。
声のした方を振り向くと、生活指導の長谷川が玄関から身を乗り出しこちらを睨んでいた。
「そこで何やってる!さっさと教室に戻れ!」
そのままこちらへと向かってくる長谷川。
「おおっやべっ煙草消せ煙草!」
慌てて煙草を消しにかかる大島達。
それを見ながら、俺は茫然とその場に立ち尽くしていた。
「ほらお前ら、さっさと教室戻れ!」
長谷川に急かされ、大島達はだらだらと立ち上がる。
「…あれ?そういえばさっき、お前何か言おうとしてなかった?」
ふと、小林が立ち尽くす俺を見て言う。
「…別に、何でもねえ」
俺はそう言って、やり場のなくなった怒りを小林にぶつけた。
わざと肩をぶつけてやった。
後ろで小林が、どーしたんだ、アイツ、と言ったのが聞こえた。
…うるせぇ。てめーが勝手に昨日のことベラベラしゃべるからだろーが。
俺は心の中でそう答えた。

…それにしても腹が立つ。
まさか、知り合いをああいう目で見られることが、こんなに不愉快だとは思わなかった。
俺は校舎の中へ入った。
前をだらだらと歩く大島と井口の背中を、心の中で何度も殴っていた。

二日後。俺はその日、学校が終わるとまっすぐに家へ帰った。
いつもなら、小林達と適当に寄り道して帰るところなのだが、今日はそういうわけにもいかない。
俺は玄関の扉を開けた。
黙って靴を脱ぐと、奥からババァが顔を出した。
「あんた早かったねぇ。今日また遠子ちゃんくるんだから、あんた今日こそは大人しく家にいてちょうだよ」
うるせぇ、と呟きながらもう片方の靴も脱ぐ。
ババァはふん、と言いながらまた奥に消えた。
よし、今のうちだ。
俺は音を立てないように引き返すと、下駄箱の中を漁りサンダルを取り出す。
鞄を開け無造作にサンダルを中に突っ込んだ。
どうせ大したものも入ってない。
俺はちらりと後ろを伺った。
こちらには気づいていない。
俺は何事もなかったかのように居間の扉を開けた。
奥にいるババァに呼びかける。
「おい」
ババァはきょとんとした顔でこちらに振り向く。普段、俺から話しかけることは滅多にない。
「なに?」
「今から夕方まで寝るから。絶対起こしたりとかすんなよ」
俺はそれだけ言うと、扉を閉めて階段を上がっていく。
ちょっとわざとらしい気もするが、念には念を、だ。

部屋に入ると、俺は鍵を掛けた。いつの間にか、そうする癖がついてしまった。
鞄をベッドに放り出すと、制服を脱ぎ適当に着替える。
どこかで暇を潰すため、一応財布をポケットに入れる。
俺は鞄からサンダルを取り出すと、窓を開けた。
窓のサッシに腰掛け、サンダルを履くと、そのまま雑草の生い茂った下へと飛び降りた。
鈍い音がし、両足に衝撃が走る。
「っと…」
わずかに衝撃の残る足を慣らしながら、俺は窓を見上げた。
開けっ放しになってしまったが、まあいい。
一瞬、“あの人”の顔が脳裏に浮かぶが、すぐにかき消した。
雑草で足を切らないよう注意しながら、俺は家の裏へと回っていった。



わたしは携帯を取り出し、時刻を確認した。
駅前の本屋「新星書堂」の、従業員用玄関。
ちょうどバイトを終えて出てきた所だった。
午後四じ五十五分。うん、いつも通り。
わたしが頷いて携帯を鞄にしまおうとした時だった。
急に携帯がふるえだした。
驚いて携帯を落としそうになる。
慌てて携帯を開くと、画面には“おばさん”と出ていた。
英介君のおばさんからだ。
ふと、いやな予感がわたしの中をかすめた。
恐る恐る、電話に出てみる。
「…はい、もしもし」
『あっ!?遠子ちゃん!?』
電話の向こうから、おばさんのせっぱ詰まった声が飛び込んできた。
「はい、あの…どうしました?」
わたしが尋ねてみると、おばさんはしばらく無言になった。
そして、ひどく泣きそうな声で、おばさんは言った。
『英介が…逃げた』
「…あー」
わたしは別段驚かなかった。
むしろ、予感が当たってもしかしてわたしってちょっとすごい?なんて思ったくらいだった。

『英介、今日はいつもより早く帰ってきて…あたしもようやっとやる気になったかなってちょっと安心したの。
それで、夕方まで寝るから絶対に起こすなって言って部屋に入っていったのよ。
あたしも寝るくらいならまぁいいかってそのままにしておいて。
それでちょっとした頃にあたし英介に用事思い出して、部屋に行ったんだけど返事が聞こえないのよ!
何回も呼びかけたのに!
…で、これはおかしいって思って…下から窓確認したら、開けっ放しで…』
おばさんはそこまで一気に喋ると、長いため息を一つ吐いた。
『ごめん…遠子ちゃん。もうあたし、どうしたらいいか…』
おばさんの声が一気に弱々しくなる。
「あ…だ、大丈夫ですよ。あの、わたし今ちょうどバイト終わったところなんで、これからしばらく、英介君探してみます」
『ほんと…?あ…でも遠子ちゃん、総太郎君のご飯作らないといけないんじゃ…』
「あ、その辺は大丈夫です。前の晩、カレー作り置きしておいたんで」
そう、こんなこともあろうかと、前の日カレーを作り置きしておいたのだ。
カレーなら、勝手に温めて食べればいい。
まぁ、それがどうしたと言われればそれまでなんだけど。
「とにかく、こっちの方は心配いらないんで、おばさんは家で待っててください。
ちゃんと英介君、つれて帰りますから」
わたしはおばさんとの電話を切ると、急いで駐輪場へと向かった。
「まったく…世話かけさせる子なんだから」
わたしはそう言いながら、自転車にまたがった。

「…ヤバい…どこにもいない…」
駅前のマクドナルドの店内で、わたしは一人、うなだれていた。
ジンジャーエールをひとくち飲むと、思わず大きなため息が出た。
ちらりと時計を確認する。…げっ、もう六時半!?

あれからしばらく色々なところを探し回った。
どうせまた今回も、適当な所でたむろしているとたかをくくっていた。
わたしの記憶の中にある“不良の行きそうなところ”をくまなく当たってみたけれど、どこにも英介君は見当たらなかった。
ここマクドナルドにも、飲み物を買うついでに英介君が居ないかと入ってみたのだが、居るのは学校帰りの学生ばかりで、英介君のえの字もなかった。
わたしはまたジンジャーエールを飲む。
やっぱり、英介君は英介君だった。
同じ不良だからと言って、英介君と総太郎をひとくくりにするのは無理があったのだ。
わたしはカップの中の氷をストローで突っつきながら、またため息をついた。
「ああ…もうお手上げ。今回はわたしの負けで良いから…お願いもう出てきて〜…」
わたしは一人で呟きながら、テーブルの上に突っ伏した。
そのままぼんやり窓の外を眺める。その時だった。
視界の端に、ふと何かが写り込んだ。
わたしは思わず自分の目を疑った。
「うそ…出てきた」



「ありあとざっしたー」
やる気のない声に見送られながら、俺は店を出た。
漫画喫茶でこのまま夜まで時間をつぶそうと思ったのだが、午後六時以降は
未成年は利用できないと言って追い出された。
胸糞の悪さを覚えながら、俺は次にどうやって暇を潰すかを考えていた。
…そういえば、今日は木曜日か。チャンピオンの発売日だ。
とりあえず、立ち読みしながら考えるか。
俺はとりあえず、少し先にあるコンビニを目指して歩き始めた。その時だった。
ぽんぽん、と肩を軽くたたかれた。
「?」
俺は思わず後ろを振り向いた。
細い指が、俺の頬を押した。
「あは、引っかかった。」
細い指の持ち主はそう言うと、にっこりと微笑んだ。
「もう、ずいぶん探したんだよ。
漫画喫茶に隠れるなんて、やるじゃない。ちょうどそこから出てくるとこ見えたんだよ」
そう言い終わるのが先か、俺は身を翻してとっさに逃げた、はずだった。
「あっ…待ってッ!」
細い腕が二本、にゅっと伸びて俺の胴に絡みついた。
後ろから抱きしめられる格好になる。
「なッ…!?」
俺はとっさに腕を引きはがそうとするが、がっちりと組まれてなかなかほどけない。
それどころか、ますます体を密着して…というか、背中に何かが…。
「ッ…!っおい、何やってんだッ…は、離れろッ!」
「やだッ…英介君が勉強するって言うまでッ…離さないッ…!」
俺の目の前を、小学生がこっちをまじまじと見ながら通り過ぎていく。
更に周りに目を配ると、通行人までもがこっちを見ていた。

「ッ…――クソッ見せモンじゃねえぞゴルァッ!!」
俺はこちらを見ている通行人どもに怒鳴り散らした。
通行人どもはさっとその場を離れていく。
「お前もいつまでくっついてんだよ気持ちわりぃッ!!」
そのままくっついていた“あの人”を力ずくで引き剥がす。
「わっ…!」
勢い余って後ろに倒しそうになる。
俺は少し気まずくなったが、そのままその場から逃げるように立ち去ろうとした。
が、またしても、服の袖を引っ張られ逃げられない。
「おい何だよしつけえぞ…!」
「ねえ、英介君…もしかして、わたしの事、嫌い…?」
…はい?頭の中を、予想すらしていなかった言葉が駆け抜ける。
「この間から…なんか…わたしのことずっと避けてるよね…?」
袖をつかむ手がかすかにふるえているのがわかる。
違う。確かにずっと避けてはいたけど、違う。
あれは、嫌いとかそんなんじゃなくて。
「喋ってるときも…全然目合わせてくれないし…
嫌いならいっそのこと嫌いって言ってくれた方が」
「…違うっ…」
「…え?」
しまった。思わず口に出してしまった。
「…違うの?どういうこと?」
「…いや、えっと、」
………。どうする、なんて言えばいい。
なんて言えば、ごまかせる。
「だ、え、その…」
「…英介君?」
…何だよ。俺は心の中で返事をする。
「…恥ずかしがってる?」
「なッ!?」
なんでわかっ…いや。
心臓が飛び出すかと思った。
「な、なんで…」
「え…だって英介君、昔っから照れると耳まで真っ赤になるから…」
そ、そうなのか…。
自分でもあまり気づかなかった。
俺は思わず自分の耳をさすった。

「?でもなんで恥ずかしがってるの?」
…それを聞くか、あんたが。
丸い目が俺をまっすぐに見上げてくる。
駄目だ。この目からは、逃げられそうにない。
「…だから、…その、あ…あんたが」
段々と声が小さくなっていく。
「…あの…き、…でっかくなってたから…お、俺も…こんなんなってるし」
ああ、ダメだ。自分でも何言ってるかわかんね。
俺はもう、何をどうしたらいいかわからず黙っていた。
「…え?それだけ?」
それだけって…。
丸い目がさらに丸くなり、まさに“きょとん”とした顔になった。
「…ぷっ」
…ぷっ?
「っあははははっ!な、何それ、え?つ、つまり、ただ“人見知り”してたってこと?」
「なっ…!ひ、人見知り!?」
それだと大分ニュアンスが違う。
大体人見知りって初対面の相手にするもんじゃなかったか。
「えー、だって、わたしに対して恥ずかしがってたってことは、要するに人見知りみたいなもの…でしょ?」
くくく、と笑いをこらえながら“あの人”が言う。
…いい加減腹が立ってきた。
しかし向こうは一向に笑うのをやめない。
「ふ、ふふふっ…な、なんか…英介君」
「…何だよ」
笑いをこらえつつ、ちらっと上目づかいで俺を見る。
「な…なんか…かわいい」
…な…。かわ、かわいいだと…。
「…バ」
俺は頭に血が上るのを感じた。決して恥ずかしいからじゃない、決して。

「バッ…バカにすんじゃねえよ!!…ッあ゛〜クソッだから言いたくなかったんだよッ!!」
俺はそう怒鳴りながら、掴まれたままだった袖を振りほどいた。
少し声が裏返った。
そのまま逃げるように歩き出した。
「あっごめ…っていうか英介君、家そっちじゃないよぉ」
少し遅れて、慌てた声が俺の後をついてきた。
家がこっちじゃない?知るか。



英介君を家に連れ帰る頃には、もうあたりはすっかり暗くなってしまっていた。
チャイムを鳴らすと、間もなくおばさんが扉を開けた。
わたしと、その後ろに立つ英介君を見ると、おばさんの顔が安堵からか少し和らぐ。
しかしそれもつかの間ますぐにきっと英介君を睨むと大きな声で言った。
「…あんた部屋抜け出して今までどこほっつき歩いてたの!」
わたしはそのまま続けようとするおばさんを手で制した。
「あーおばさん…今日はそれ位にしてください。時間がアレですから。
英介君お腹も空いてないみたいだし、早速始めようと思うんで」
「あ…そ、そう?じゃあ、どうぞ」
おばさんはそう言うと扉を押さえつつ道をあけた。
わたしはおじゃましまーす、と言って玄関にあがり、靴を脱いでそろえる。
後から英介君も、無言で玄関に上がった。
「…じゃあ、二年のおさらいからやろうと思うから、二年の教科書取ってきてくれる?」
わたしが英介君に伝えると、英介君は面倒くさそうな足取りで階段を上っていった。
だがしばらく上ったところで、英介君の足はぴたりと止まった。
そのまま十秒ほど止まっていたかと思うと、英介君は階段を下り始めた。
そして無言でわたしの横を通り抜け、玄関を出ていこうとする。

「…英介君?どこ行くの?」
わたしは英介君の背中に尋ねてみるが、返事はない。
「ちょっと英介!あんたっ…どこ行くの!?」
おばさんが強い口調で言うが、それでも反応はない。
「英介!」
おばさんがさらに怒鳴る。
すると英介君はこちらを振り向いて言った。
「…うっせえな!部屋に鍵かけちまったから窓からじゃねえと入れねんだよ!」
そのまま、英介君は音を立てて玄関の扉を閉めた。
わたしとおばさんは顔を見合わせると、どちらからともなく笑いだした。

居間のソファに座りながら、わたしは英介君を待っていた。
待ちながら、さっきの英介君を思い出していた。
わたしに対して恥ずかしがってたなんて、意外と(って言うのは変かな?)可愛いもんだ。
そう言えば、英介君は昔からよく人見知りする子だったっけ。
わたしと英介君が一緒にいるとき、わたしの友達に会ったりすると、いつも決まって、わたしの後ろに隠れたりした。
案外、英介君の根本的な部分は小さい頃のままなのかもしれない。
そりゃそうだ。人の根っこの部分なんて、そう簡単には変わらないはずだ。
そんな事を考えている間に、階段を下りてくる音が廊下に響いた。
間もなく、大量の教科書を抱えた英介君が居間のドアを開けた。
「…あ、あった?教科書」
「…ん」
英介君は、両手に抱えた教科書をわたしの目の前に置いた。
「わー、国語ってまだこの教科書なんだ。あ、社会は新しいのに変わってる!へーえ」
わたしはその中から適当に英語を手に取り、パラパラとめくってみた。
落書きあるかな…。

最初のほう。結構まじめにやってたみたいだ。
落書きもあるけど、所々線を引いたりしてある。
真ん中のほう。あまり線が見られなくなってきた。
落書きも最初のほうに比べてめっきり少なくなっている。
さらにめくっていく。
最後のほう。完全にきれいな状態だった。
折り癖すらも、ついていなかった。
「………」
…なんだか、思ったよりもひどい。
総太郎も荒れ始めたのは丁度中二ぐらいの時だったが、それでも教科書は落書きだらけで、一応授業に出て教科書は開いていたわけだ。
でも、英介君の教科書、特に後半の方にはそれがない。
つまり、教科書を開くことすらしていなかったわけだ。
わたしは頭の奥の方で、不安と一緒に、何か頭痛のようなものを感じ始めていた。



















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2010年10月25日(月) 09:59:00 Modified by ID:Bo5P9jtb2Q




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