総一郎と茜_四度目の6月

初出スレ:5代目366〜

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 初日
 
 全く悪気がなかった、と言えば嘘になる。
 多少は下心があった。
 クールでドライな彼女が、慌てるさまを見られるかもしれない、なんて、ささやかな悪戯心が。

「こちら小笠原先生。君の指導教員だから」

 目の前の恋人は、その人形のような無表情をぴくりとも変えることもなく、よろしく、と、軽く頭を下げた。

「よ、ろしく……お願いします」
 準備していたはずの心は、簡単に動揺をして声が裏返る。
 隣に立つジャージ姿の学年主任が、にやにやと笑いながらこちらを見ている。

 小笠原先生は美人だからなあ、なんて、アンタに言われなくても知っている。
 そんなことで動揺をしているわけじゃあないのだ。
 その美人は、総一郎を見上げてうっすらと対外用の笑みを浮かべると、いけしゃあしゃあと言い放った。

「久しぶりだな、浅尾」

 この人の面の皮の厚さには、ほとほと感心する。たぶん、ここは見習わなければならないところだろう。
「………………はい、お久しぶりです」
 ひきつった笑顔で何とか答えて、お元気でしたか、も付け足したほうがよかったかと思った時には、もうジャージ先生が口を開いていた。
「おや、ご存じでしたか」
「ええ。彼は化学部員でしたから。部長も務めたんです。覚えているか、浅尾?」
「……もちろん、です」
 覚えているどころの騒ぎじゃない。今自分が、こうして職員室の朝礼に立っているのは、あの化学部の活動の日々があったからだ。
 ……まあそんな理由、他人に話せることではないけれど。
「そうですか。じゃあ話は早い。まぁ頑張りなさい」
 背中を力強く叩かれたところで、タイミングよく予鈴が鳴る。
 ――ああ、この、少し間の抜けたチャイムが懐かしい。
 感慨に浸って目の前の現実から逃げようとしたところで、「指導教員」が総一郎を見上げて笑う。
 営業スマイルや、総一郎が好きな柔らかい笑顔じゃなくて、あの、くちびるの端をゆがめる、にやり笑いだ。

「よろしく。浅尾『センセイ』」





 センセイにセンセイと呼ばれる日がこようとは。いや問題はそこでなく。
「センセイ!」
 ホームルームへと向かう道すがら、歩きながら小声で呼びかける。
 茜は足を止めることなく、浅尾先生、と繰り返した。
「ここには先生が大勢いる。小笠原、と呼びたまえ」
「……おおお小笠原先生! ちょっと、聞きたいんですけど!」
「なんだ?」
「今日から俺が来るって知ってた?」
「もちろん知っていた」
「俺の指導教員って、事前に決まってた?」
「決まっていた。告知もされた。君を受け入れる準備は万全に整っている。それが何か?」
「どうして教えてくれなかったんですか!」

 若干大きめのウィスパーボイスで訴えると、茜がぴたりと足を止めた。
 茜が担任を務めている2−Bの教室の、目の前だ。
「君が、この実習のことを私に伝えなかったのと同じ理由だ」
「ぐ」
 それを言われてしまうと、もう反論の余地はない。

 確かに総一郎は、母校での教育実習が決まりましたと茜に伝えなかった。
 当日の朝礼で突然総一郎が現れて、この鉄仮面がどんなふうに驚くだろうと勝手に想像をして結構長い間楽しんでいたのだ。
 なんと申し開きをしたものか。一瞬の間に様々な言い訳を考えて、そのどれをも却下した瞬間に茜が口を開く。

「忙しさのあまり、うっかり忘れていたのだろう?」
「…………う、ん。はい、その通りです」
「私もうっかり君に伝えそびれていた。そういうこともある。さあ、余計なおしゃべりは終了だ。ホームルームが始まる。
 これからの君と私は、しがない教育実習生と指導教員だ。それ以上でもそれ以下でもない。いいな?」

 総一郎の返事を聞く前に颯爽と踵を返して、茜はさっさと木製のドアと対峙する。
 そのさらさらの髪が揺れる後ろ頭を見つめながら、――前途は想像以上に多難かもしれない、と密かに溜息をついた総一郎だった。



 三日目

 雨と様々な薬品とインスタントコーヒーの香り漂う実験準備室。
 懐かしいにおいは、総一郎の記憶を一気に高校時代へと引き戻してくれる。

 ここで、茜といつも他愛もない会話を繰り返していた。テスト期間中には猛勉強もさせられた。
 何度も言い負かされた。不思議と、悔しいとかそういう気持ちは湧いてこなかった。
 誕生日やクリスマスにプレゼントを渡した。今思えば、甘酸っぱすぎてこっぱずかしい。
 幾度か白衣の茜を抱きしめたし、「一度」だけ、キスもした。
 たった三年ほど前の出来事のはずなのに、こんなにも懐かしい。

 総一郎ここに戻ってくるために教師を目指したようなものなのだ。
 こんなにも早く、予行練習とは言えその目標を達成できてしまったことに少々戸惑ってもいる。
 茜と毎日顔を合わせられる喜びと、日々の慌ただしさと緊張がごちゃごちゃに混ぜ合わさり、視界と思考がぼやけている。
 今この瞬間ですら、もしかして夢なのではないか、なんて錯覚を抱いて、慌てて頭を振り刺激を与え、現実逃避を終了させた。

 三日目にして、今日は部活にも参加をした。
「三年前の部長だ」
 簡潔な説明では納得しなかった二年生が、去年の部長が一年の時の部長、というまどろっこしい説明におお、と歓声をあげた。
 長峰と朝倉の率いていた去年は化学部の黄金期だったらしい。
 腕試しに、と出場した「高校化学グランプリ」にて、一次選考突破まであと一歩だった生徒が四人もいたそうだ。大変に素晴らしいことだ。

 茜と二人っきりだったあの年から、もう四年。
 自分が部長の任を負い、長峰がそれを引き継ぎ帰宅部の代名詞だった化学部を一気にこの学校の花形部へと押し上げた。
 結果、予算も新入部員も、四年前の倍以上だ。

 化学部の成長は確かに嬉しい。

 でも、すっかりと様変わりしてしまった活動内容に寂しさも感じるのだ。
 実験は金曜だけ。その他の曜日は、延々と過去問を解いて、傾向と対策を練る。
 実験室の一番後ろから、机に向かう生徒の丸まった背中を見つめていると、まるで授業中のようだ。
 ただ違うのは、生徒たちが自由に立ちあがって、茜か、もしくは勉強に興味がなさそうな女子が総一郎に「彼女はいないの?」なんて質問をぶつけてくることぐらい。
 まさか「そこに立っている人」とも言えず、ご想像にお任せする、なんて曖昧に誤魔化しながら総一郎は、数年前の実験室の様子を克明に思い出していた。

 きっと今の部員たちは、茜のきれいな指先が薬品を薬包紙にとてもすばやく丁寧に包んでしまう様子だとか、丸型フラスコより三角フラスコのほうが使用頻度が高いとか、
顕微鏡をのぞくときは眼鏡が邪魔そうだとか、シャーレに何かを入れるときが一番嬉しそうな顔をするとか、そういうことは知らないままなんだろう。
 それは、とても勿体ないことでもあり、自分だけの甘美なヒメゴトでもあった。実に複雑である。


「お疲れ」

 凛とした声音に顔をあげると、両手に湯気の立つマグカップを持った茜が隣に立っていた。
 その片方を、茜が目の前に置いてくれる。
「ありがとう、ございます」
 そのマグカップは、三年前に総一郎が使っていたものだ。
 味もそっ気もない、白い陶器のカップ。
 懐かしさに手を伸ばして両手で包みこみ、その熱さに驚いて手を引っ込める。一連の動作を見ていた茜が小さく笑う。
 総一郎もへらりと笑い返した。

 なんか、幸せかも、とふと思う。

「これ、まだあったんだ」
「ん?」
「とっくに割れちゃったかと思ってた」
 ああ、と、うさぎのマグに口をつけた茜が、そのまま一口啜って向かいの席に着いた。
 舌に温感センサがない茜は、湯気の立つそれを口にしても表情を変えない。
 総一郎にとってはおそらく焼けるような熱さのコーヒーを喉に流し込み、曇った眼鏡のままさらりと言葉を続ける。
「長いこと棚に入れっぱなしだったからな。割れようもない」
 その言葉に、ふと、思いついたままを口にする。
「……誰も、これ使ってないんですか?」
「そうだが?」
「俺専用ってこと?」
「………………まあ、そういうことだ。実験準備室に単独で入り浸る生徒は、君以来いない」

 すっかりと様変わりしてしまった活動内容が、確かに寂しくもある。

 だけどそのおかげで、必要以上に茜と親しくなる生徒もいないってことだ。
 人見知りで鉄仮面だけど、一歩踏み込んでしまえば以外に無防備で押しに弱い茜を、勝手に心配していた時期もあった。
 校内には若い男性教師がいない今、不安材料は生徒だけだ。その不安が簡単に取り除かれた。喜びに、にやりとくちもとを歪める。

 誰にともなく言い訳をするが、別に茜を信用していなかったわけじゃない。
 ただ、勘違いやうぬぼれや、妄想を逞しくする生徒が現れれば、そいつと茜の両方が傷つくと、勝手に危惧をしていただけだ。
 心配ごとが減るというのは、実に気分のいいものだ。晴れやかな心もちだ。
 
 ご機嫌に笑みを浮かべた総一郎を見て、茜もやわらかく笑う。
「浅尾。女子高生に囲まれて、少々脂が下がっていたぞ。気を引き締めるように」
 ほほ笑みを瞬時に引きつり笑いに変えた総一郎の身体は、その体温を一瞬にして氷点下まで下げた。

 凍える肉体と精神をなんとか通常温度まで戻す過程の中で、ふと三年前の文化祭の、熱気を孕んだ準備室を思い出す。

 ――センセイは、アンドロイドじゃなくて、嫉妬も、独占欲も、性欲も持ってるけど見せられなくて、俺との年の差に相当なコンプレックスを抱いている。
 その状況証拠から導き出される結論は。まさか。

「……センセイ、もしかしてヤキモチ?」

 図星だったのか、単なる不謹慎だったのか。
 茜は眼鏡の奥からじろりと総一郎を睨み、ただの忠告だ、とそっけなく言うと、すぐに机の上の日誌に目を向ける。

 同じ質問をしたあの頃の自分なら、言葉どおりに受け取って情けなく凹んでいただろう。
 だけど、伊達にこの嘘つきでクールで鉄面皮のドSと恋人をやってきていないのだ。

 茜がこちらに視線を向けないのをいいことに、総一郎はにやにやと笑みを浮かべながら己も目の前のレポートに向き合った。


 七日目


 流石に疲労の色が濃くなってきた。
 慣れにより緊張の糸が緩んできたせいでもある。
 だけど、ここで気を抜くわけにはいかない。
 明日は研究授業なのだ。
 校長から教頭から、学年主任までが総一郎の行う授業を、評価のために見学に来る日。
 むっとする湿気が肌に不快を与える放課後の実験室。
「ああ……」
 思わずあげたうめき声に、棚の整理のために瓶を鳴らしていた茜が、後ろにまとめた黒髪を揺らしながらこちらを振り返る。
「どうした?」
「……明日の授業を思うと、気が重いんです」
「そうか」

 まるで他人事のようにそれだけを言うと、すい、と視線を目の前の瓶のラベルに視線を戻す。
 肩こりをほぐすようにくびをぐるりと回して、身体をひねり指先に掴んだ瓶を総一郎の右側に置いて、抑揚のない口調で告げた。
「まあ……イニシエーションだな。乗り切るしかあるまい」
「イニシエーション?」
「通過儀礼」
 ああ、なるほど。
 深く納得をして、ふと、抱いた疑問を口にする。
「センセイも、教育実習したんですよね?」
「普通に考えたまえ。通過したに決まっている」
「どうだった?」
「思い出したくもない。つまり、そういうことだ。張り切って恥をかくといい。それもまた儀式だ」
 経験者の談は実に説得力がある。
 これが、非常にやりにくいところで、またその逆でもある。

「明日のことよりも目の前の部活動記録は書けたのか? そろそろ職員室に戻れるだろうか」
「まだ三行です。毎日、そんなに書くこともないです」
「そこを捻り出すのが教師の腕の見せ所だ」
 がんばれ、と抑揚なく告げて茜は再び、薬品の並ぶキャビネットに向き合う。
 ためいきをひとつ吐いて、あまり彼女を待たせるわけにもいかず急いで文章を捻り出す。
 焦りが総一郎のHPをじわじわと削っていく。

 やっと五行ほど文量が伸びたところで、茜がこちらに背を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……実はな、浅尾」
「ん?」
「君の、指導教員の話がきたとき、ほんとうは断ろうと思ったんだ」
「え? なんで?」
 作業の手を止めた茜が、無機質なキャビネットに背を預けて総一郎に向き直る。
 白い指をぴ、と一本だけ立てて、お得意の箇条説明を始めた。

「1、指導に当たるには年齢が若すぎて、経験が少なすぎる。
 本来なら将来の教育を担う若手を育てるために、もっとベテランが当たるべきなんだ」
 最もかもしれない。茜よりももっと経験の深い理科教師などこの学校にもたくさんいる。
「2、君も私もやりにくいだろうと考えた。ニ・三日ならともかく、
 二週間の長丁場、気を抜かずにやり遂げられるかどうか、不安もあった」
「じゃあなんで引き受けたんですか?」
「1に対しては。君の専攻が化学だからだ」
「は?」
「現在この学校に、化学が専攻の教員は私と三年の学年主任のみだ。
 主事も兼任している先生に、どうしても自分には無理だ、いい経験だから頼むと泣きつかれた」
「はあ」
「2は……君の状況を我が身に置き換えて考えてみた。
 授業ごとに私が仁王立ちしているのと、最後の授業のみそうしているのと、どちらがやりやすいか。
 前者だと判断したが、間違っていただろうか?」

 視線を空中に彷徨わせて考える。
 確かに、一番初めの授業は、これが初めてであるという事実と茜が見ているという緊張でほとんどパニックのまま授業を終えた。何を話したのか、未だに思い出せない。
 しかし回を重ねるごとに、教室の後ろで仁王立ちする彼女の姿は、安心材料へと変わってきている。
 明日の研究授業も、茜がそこで見ていてくれてる、と思うだけで、抱く感情は緊張だけでなく若干の興奮も混じっているのだ。

「……いえ。センセイが、指導教員で、ほんとによかったです」
「…………そうか。よかった」
 そう言ってふわりと笑った茜がどう思うか判らないが、それはまぎれもなく本心だ。
 茜に認められる授業がしたい。
 自分を認めてほしいのは、あの頃から今でも、茜だけだ。
 なんと進歩のなく、頑固なことだろう。だけどそうさせているのは、他ならぬ茜なのだ。

 その当人が、三本目の指を立てて、珍しく口ごもりながら、もうひとつ、と付け足す。
 その言葉の響きの真剣さに、居住まいを正して総一郎も上体を茜に向けた。
「はい」

「もう一度……私の教えられること全部を、君に教えたかったんだ。最後の機会になりそうだから」

 急に胸が苦しくなる。爪の先から甘いしびれが脳天まで昇ってくるような錯覚に陥る。
 たぶん、幸せが過ぎるせいだ。
 愛の告白を受け取ってもらえたとき、海外から電話をもらったとき、
チョコレートをもらったとき、初めてキスをしたとき、夜明けのコーヒーを飲んだとき。
 幾度も経験をしたこの感覚。いつ味わっても、泣きそうにせつなくなる。嬉しいはずなのにほんとうにおかしい。

「センセイ」
 胸がいっぱいに詰まってしまった総一郎が呼んだ声は、情けなく掠れていた。
「……ありがと」

 やっとそれだけを言う。
 ひとつ頷いた茜は、くるりと身体の向きを変えると上段の棚に向かって腕を伸ばす。
 彼女も珍しく動揺をしているらしく、危なげによろめく後姿を見て、総一郎は慌てて立ちあがって茜の背後に位置を定めた。
「これ?」
 茜の指の先にある瓶を手に取り、ラベルを向ける。
 ああ、ありがとう、と表面的には平坦に礼を述べた茜が、その瓶を中段に戻してまた上段に手を伸ばした隙に、思いあまって後ろから抱き締めた。
「……っ! 浅尾っ?」
 狼狽を露わに身を捩る細い体躯を、きつく腕の中に閉じ込めてしまう。
「駄目、だ」
「ごめん、ちょっとだけ」
「学校だぞ」
「うん、判ってます」
「誰か来たら」
「鍵、かけてあるから大丈夫」

 嘘ではない。三日ほど前から、もしかして万が一こういったチャンスがあるんじゃないかと、周到に用意をしていたのだ。不毛な努力がやっと実を結んだ。

 まったく。
 あきれ返ったように、深い息とともにそう漏らして、茜は力を抜く。
 総一郎は遠慮なく、黒い頭のてっぺんに鼻をうずめて柔らかな身体の抱き心地を楽しんだ。
 すっかりと身体になじんだ甘い香りが、肺いっぱいに入り込む。
 数年前からずっと変わらずに愛用している、彼女の香水の香り。
 この香りに、素直に反応をして欲情をした。
 まるでアレだ、パブロフの犬。


「センセイ」
 顔を離して、ささやきのように呼びかける。
 茜が、ゆっくりと総一郎を振り返った。
 その形のいい顎に、そっと人差し指を添えてこちらに仰がせて、何か言う前に盗むようにそのくちびるにそっと触れた。

 重なったくちびるの下で、茜が息をのんでまた身を固くする。
 気にせずに、触れるだけのキスを繰り返して茜の油断を誘った。
 五度目に触れたと同時に、抱きしめる手に力を込める。
 温度の低いくちびるに舌を割り入れて、するりと内部に侵入を果たした。
 茜は、驚くほど素直にこちらの舌に応える。
 勢いのついたくちづけは歯止めを知らず、どんどんと野性的なそれへと様相を変える。

「ぅんん!」
 抗議のような声が聞こえた気がするが、頓着をせずにキスを続ける。
 茜の両腕が、総一郎の身体を引き離そうと肩を押してきた。
 その抵抗はごくささやかで、邪魔だな、程度の感想を抱いた総一郎は、腕の中に拘束をするように細い腕に己のそれを巻きつけて、茜の身動きを封じてしまう。

 細い腰に回っていた左手をするすると移動させて、薄いシャツの裾から差し入れて素肌に触れた。
 手のひらに吸いついた茜の腹は、もう6月だというのに心地よくひんやりとしている。
 彼女の体温が常に低いせいか、それとも自分の手が熱すぎるせいなのか。
 判らないまま、口内に誘い込んだ茜の舌をかぷりと噛んだら、腕のなかの細い身体がいっそう硬くなった。

 名残惜しげに顔を離して、白い首筋に顔をうずめた。
「……浅尾、」
 熱い吐息混じりの声で、茜に呼ばれた。背筋がぞくりと震える。
 ついでに弱々しく身を捩りながら、離れなさい、とも言う。

「ごめん…もう少し」
 だめだ。まだ離したくない。まだエネルギーチャージには全然足りていない。
 最後に茜に触れたのはいつだっただろう。
 特別な親しみと性的なニュアンスを含めて触れたのは、恐らくひと月ほど前のことのはずだ。
 こんなにも長い間触れなかったのは、まだたった17の高校生だったころ、禁欲を強いられていたあの頃以来のことのような気がする。
 
「センセイが、あんなこと言うから、さ……我慢できない」
「……私の、所為か」
「そ。センセイの所為」
 
 投げやりに言い放ってしまえば、茜は諦めたように抵抗をやめた。
 駄々をこねる子供には何を言っても無駄だと思われたんだろう。
 それを好意的に受け取って、あらためて白い首筋に湿ったくちびるを押しつけた。
 熱い舌を這わせて甘く噛みつく。びくり。茜の身体が小さく震え、甘い吐息がそのくちびるから漏れた。

 耳の後ろに軽くくちづける。
 ぺろりと舌を出して舐めながら、耳のふちをくちびるで挟んでやわやわと口で愛撫する。
 茜の呼吸が乱れる。
 彼女はここに弱い。
 最初は緩やかに丁寧に、そして高ぶってきたら突然乱暴に扱ってやれば簡単に理性を手放す。三年をかけて知ったことだ。
 
「センセイ……」
 熱い吐息を吹きかけるように声をもらす。てのひらの下の茜の腹が、また熱くなった。
 空いた右手もシャツの裾から差し入れて、下着の上から柔らかな胸を数度揉んでみる。
 抵抗をされないのをいいことに、ふくらみを覆う布地を避けるように上から指を差し入れて、かり、と硬く尖り始めた乳首を指先ではじいた。
「ぅん!」
 高い声が漏れると同時に、総一郎は己の理性が徐々に壊れていくのを実感した。

 ここは学校。それは判っている。
 まだ就業中である。それも十分承知だ。
 いい加減にしないとそろそろクールな茜から平手打ちが飛んできそうだ。嫌というほど経験をしている。
 そもそもこんなところで初めても、欲求を満たせる最後まで持ち込めない。

 もろもろを理解している理性がそれでも、あとちょっと、もう少しだけ、という欲求に打ち負かされていく。
 茜の抵抗が、ごくささやかであることも総一郎の暴挙に拍車をかけていた。
 しかも、触れてほしいとばかりに、密着させた腰がくねるのだ。
 小刻みに震える肩も手も、しっとりと汗ばんできた白い肌も、ぴんと尖った乳首もすべてが総一郎の理性を奪っていく。
 おかしい、と総一郎は思う。自分がおかしい、と。
 この場所から始まった関係はすっかりと成熟をしているはずで、今更こんなに我を忘れてしまいそうなど彼女を欲しくなるなんて。

 右手で胸のふくらみを弄りながら、反対の手をするすると下ろして黒いスラックスのボタンに手をかける。
 一瞬茜が身を固くしたが、気がつかないふりをしてボタンとファスナーを一気にくつろげ、隙を見せることなく下着の中に指を滑り込ませた。
「……っ!」
 押し殺した悲鳴とともに、くちゅり、という水音が聞こえた気がした。
 実際はそんな音が立つほどではないにせよ、濡れ始めているのは確実であるそこに、指の腹をぐいと押し付ける。

「あっ……だめ、だ、浅尾っ」
 そんな声で名前を呼ばれたら、ますます止められない。
 彼女自身の形を確かめるように撫で上げる。茜の腰がびくりと震える。
 ああ、もうムリだ。
 理性を完全に放棄した総一郎は、汗ばんだ首筋に口づけながら胸の頂きを弄り、下肢の敏感な部分を中指で刺激する。
 茜の息がどんどんと荒くなり、花芯を弄る指先がどろどろに濡れてゆく。

 さあ、と柔らかな音が響いた。
 今日は夕方から降り始めた雨がだんだんと激しくなり、明朝まで続くでしょう。傘のご用意をお忘れなく。
 可愛らしいお天気キャスターが今朝のニュースでそう伝えていた。
 だから今日は二本用意してきた。
 少し大きめのサイズの雨傘と、折り畳みの黒い傘。後者はずっしりと重い鞄の奥底でスタンバイしている。
 二本目の傘の出番はないといい。出来れば、一つの傘に身を寄せ合って一緒に帰りたいと、寝ぼけた頭で思ったのだ。

 生ぬるい空気を孕んだ風が、熱くなった頬を撫でた。
 その風は遮光のための黄色いカーテンをふわりと押し上げたのだろう。
 ということは窓が開いている。早く閉めなければ、雨が降りこんできてしまう。
「あ、あ…ん、あさ、や、んっ」
 どれだけ余所事を考えて理性を取り戻そうとしても、茜の甘い声が簡単にそれを阻止してしまう。
 普段は冷たいはずの肌は、総一郎の手と同じ温度の熱を孕み汗ばんでいて、しっとりと吸いついて心地いい。
 秘裂をなぞるたびに、そこからはどろりとした愛液があふれて指先に絡みつき、彼女の悦びを露わにしている。
 ぐいと秘部に押し入れば、信じられないほどの熱をもって総一郎の指を締め付ける。
 そんな風に切なげに締め付けられたら、関節をぐいと折り曲げて中を堪能したくなるではないか。

「……あ、だ…め、ん、んっ……や、」
 茜の声がだんだんと余裕のないものへと変化をしている。
 終着が近いようだ。膝や腰がくがくと震えて、総一郎の手を握り締める指先にもぐっと力が籠ってきている。
 

 快楽から逃れようと、ぶるりと首を振った茜のくちびるを捕えて、己のそれであっさりと塞いだ。
 重なったくちの下で茜が息をのむ。
 直後に熱い呼吸が流れ込んできて、彼女が呼吸を求めるのと同じタイミングで舌を割り入れた。

「んっ…んん…………ぅ、んっ、ぁんんんっ!」
 
 押し殺してはいるけれど十分な甘さをもった悲鳴が聞こえた。
 自分の身体に密着させた茜の太ももがぷるぷると震え、右の掌でぴったりと覆った汗ばむ肌はせわしなく上下して、少し話したくちびるからは荒い呼吸が漏れている。
 差し込んだ総一郎の指を咥えこんだ秘肉が、脈打つように関節を締め付けて絶頂を伝えてくれる。
 その鼓動が、どくどく、どく、とだんだんにスパンが長くなるに従い、総一郎の思考も熱いながらも徐々に落ち着きを取り戻していった。
 そして真っ先に思うことは、――ヤバい、この一言に尽きた。
 一度絶頂を迎えた茜の頭も身体も、総一郎と同じように少しずつ冷えていくことだろう。
 彼女はゆるく頭を振って総一郎のキスから逃れ、深くうつむいてしまって表情を見せないようにしていた。

 ヤバい、マズい、やりすぎた、ヤバい、ヤバいヤバい。

 お咎めが恐ろしすぎて、身体が一気に冷える。
 分け入ったままの指の所在を決めかねてぐるりとかき回してみたが、茜は少し息を飲んだだけで甘い声を上げはしなかった。
 それどころかゆっくりと上下させた肩ごしに、そろりそろりとこちらを仰ぐ。
 大慌てで指を引き抜く。
 ぴったりと貼り付けていたてのひらも、密着させた身体も引き離して、ゆっくりともろ手を挙げホールドアップのポーズを無意味にとった。
 広げた指先の、人差し指がぬらぬらと光っているのがどうにも卑猥だ。

「……浅尾、」
 振り向き切る前にいつもより低い声で呼ばれた。
 はい、と掠れきった声音で答えた語尾に重なるように、準備室の内線がけたたましい音をたてた。
 見ていたかのようなタイミングに、二人の肩がびくりと震える。
 一瞬後に相変わらず感情の読めない表情のまま、茜が目の前の総一郎を押しのけた。
 足音もなく自分のデスクの前に立つと、と受話器を取って耳に当てる。
「――はい、小笠原です」
 耳になじんだ心地よいアルトが、いつもと違う余所行きの音程で響く。

 衣服は乱れたままだが、とくに急いで直すそぶりはない。一度に二つのことがなかなかできないひとなのだ。
「ええ、いますよ……いえ、もう終わりましたが」
 言いながらちらりとこちらを見る。
 眼鏡の奥のその視線に感情は特に読めないが、なんとはなしに咎められている気がして総一郎はいたたまれなくなる。
 だが当の彼女は、ふいと顔を反らして視線を目の前の電話に落してしまった。
 そればかりか彼のほうに背を向けて、視界に総一郎が入らないようにさえしてしまっている。

 あれ、と総一郎は思う。
 ここは極限に冷えた目で睨まれてしかるべきだ。
 電話を切った直後にお説教に入るべく、総一郎を逃さないようにしつつ臨戦態勢にはいるのが常である。

 その後、二、三言返事を返した茜が、通話を切って受話器をゆっくりと下ろす。
 相変わらずこちらに背を向けたままだ。
「浅尾、学年主任がお呼びだ。職員室に戻りなさい」
「……はい」
「先に戻っていてくれ。片づけと戸締りをしてから私も行くから」
「……はい、あの、センセイ」
「うん」
 即座に返事は返ってきたものの、その声は掠れていて意外なほど弱々しかった。
 よほどの怒りをこらえているのか、それとも別の感情と戦っているのか。

「えー……服、治したほうがよくないですか」
「ああ、うん」
「センセイ?」

 手を伸ばして肩に触れる。
 細い肩がびくりと震えて、総一郎の手を避けるように身をよじった。
 俯けていた顔をあげて、上目に総一郎を見つめたその瞳は若干の熱を持っていまだ潤んだままだった。
 ――え、何その反応。
 素直に動揺をして両目を見開いた総一郎の表情を目の当たりにした茜は、眉間に少ししわを寄せ、くちもとを手のひらで隠して再び背を向けた。
 耳までを赤く染めて、左手で胸元を掻き合わせてぎゅっと握る。
 そのうちに何か言ってくれるかと辛抱強く待ってみるものの、ただ時間だけが過ぎていく。

 柔らかだった雨音が、若干激しくなったようだ。
 ああ、そうだ、窓を閉めなくては。それに、早く職員室に戻らないと学年主任が呼んでいるのではなかったか。
 できることならば待ちたかったが、いい加減タイムリミットだった。
「あの、センセイ……怒ってます、よね?」
「…………うん」
「軽率でした、ごめんなさい」
「ああ」
「だから、いつもみたいに正論で責めてもらえませんか」
「……今は…無理だ」
「は?」
「駄目だ、違う、なんでもない。いいから早く行きなさい」
「なんでもないって何ですかそれ」
 茜はやはりこちらに背を向けたままぶるりと首を左右に振った。
 だからなんでもない、と吐き捨てたその口調は、クールなだけでなくいっそ剣呑だった。そんな態度の茜を見るのは、ものすごく久しぶりな気がする。

「センセイ……ちょっと普通じゃないよ、どうしたの」
「普通じゃないとも。それが?」
「なんで普通じゃないのか言ってください」
「……ああ、言わせたいのか君は。とんだヘンタイだな。
 それも私の調教のたまものなのか? 君に問いつめられるなんて私は教え方を間違えたのかもしれないな」
 そう言いながら、やっと茜は顔をあげてこちらを見つめた。
 どの口がそれを言うか、と思ったものの、やっと硬直状態が解けたのだから黙って続きを待つことにする。
 一瞬聞こえた「調教」という言葉は、気のせいだということにした。

「いいだろう、告解をしよう。しっかりと聞きたまえ。
 私には君を怒る資格などないんだ。なぜなら不覚にも私も楽しんでしまったのだ。
 学校で、しかも私の聖域であるこの化学準備室で、ネクタイを締め白衣を着た君に後ろから抱き締められていいように弄ばれて、私は異常に興奮をした。
 意識が飛びそうなほど追いつめられて迎えた絶頂の余韻が、いまだこの身から引かず困り果て、同時に深い自己嫌悪に陥っているところだ。
 君を怒るのは、思う存分自分を責めたそのあとになるだろうから、残念ながらご期待には添えないだろう。反省は一人でやってくれ。
 以上――なにか、質問は?」
「い、いえ……特にありません」
「だったらそういうわけだから、早く一人にしてくれないか。あたまを冷やしたいんだ」
 よっぽど動揺をしているらしく、いつもより早口でそうたたみかけられて、総一郎もつられて動揺をする。
 はいっ、と勢いよく返事をし、職員室に戻るべく散らばった筆記具をかき集めようとしたところで、ふと、ぬらりと光る己の指に気が付いてしまった。

「あっの、センセイ……手だけ洗わせてもらっていいですか?」
「……ご勝手に」
 茜は引き続きつっけんどんに言い放つと、自分の椅子に腰をかけて机に突っ伏してしまう。
 ここは、恐らくそっとしておくべきなのだと判断した総一郎は、大急ぎで手を洗い職員室へとダッシュしたのだった。
 
 



 天気予報の通り、夕方から降り始め徐々に勢いを増した雨は、帰宅時刻になっても強さを維持したままだった。
 帰り支度を済ませて隣の席の茜に、もう帰れますかと尋ねると、物凄く時間がかかりそうだから先に帰りなさいと冷たくあしらわれた。
 避けられるのは当然と納得がいくので、せめてこれだけはと思い折りたたみ傘を差し出したところ彼女は、
いらない持っているお疲れと低く告げて、真剣な面持ちでパソコンに向かってしまった。
 その可能性を考えてなかった自分の浅はかさに自分でびっくりした。
 疲れのせいか、普段以上に視野が狭くなっているのかもしれない。
 あと三日。集中して実習をこなさないといけない。明日からはまた指導教官と教育実習の関係に戻って、真面目にすごそう。
 そしてこれが終わったら一番に茜とセックスがしたい。
 不健全な目標を立てて、改めて一心不乱に励もうと気合を入れなおした。

 それから。
 二度とそのようなハプニングもなく、またハプニングを起こす余裕もなく、なんとか教育実習を終了した総一郎を待っていたのは、なぜか一か月の禁欲生活だった。
 猛然とレポートを書きあげて茜に会いに行ったのがその翌週の週末のこと。
 部屋には入れてくれたものの、いざコトに及ぼうとした瞬間に
「あの日の自責がまだ終わってないから今日は無理」とこちらの罪悪感を巧妙に煽られた。
 切なげに伏せられた瞳が、また心を深くえぐるのだ。引き下がるしかあるまい。

 それから三度同じ断り文句を聞いたところで、俯いた茜のくちびるの端が上がっているのに気が付き、それが詭弁だと知った。
「もしかして……からかって、ます?」
「ああ、やっと気がついたのか、浅尾」
 顔をあげた茜は、やっぱりにやり笑いをしていた。物凄く楽しそうな。
 なんか最近この顔を見た気がする。
 逡巡をして、すぐに思い至った。教育実習の初日だ。

 やっと追い付けると思ったのだ。まだ片足を踏み込んだだけだけど、同じ場所に立って、茜と肩を並べるに値する自分になれそうだと思ったのだ。
 実習に行ってみて判ったのは、教師ってホントに大変だなということと、茜はビジネスライクなりに生徒ときちんと向き合ってるということ、実は彼女は白衣フェチだということ、
 そして――やっぱりまだまだ、茜には勝てそうにないということ。

「……ヘンタイ」
 やっと出てきた文句はそれだった。
 褒め言葉か、と茜が言いきる前にくちびるを塞いだ。彼女は抵抗らしい抵抗をみせず、珍しく大人しく総一郎の舌を受け入れる。

 意識も飛んでないのに、いつもより若干大きめの声を上げて応えているあたり、もしかして彼女も欲求不満だったのかもしれないけど、
聞いても教えてはもらえないだろうから真実は闇の中だ。
 いつかこの天邪鬼をぎゃふんと言わせてやる。
 今日じゃなくていつかという所に多少虚しくなったが、すぐにそんなことも忘れて、久しぶりの快感にのめりこんでしまったのだった。



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2010年09月12日(日) 16:15:59 Modified by tknt7188




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