曹洞禅・仏教に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々について管理人が研究した結果を簡潔に示しています。曹洞禅・仏教に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

初期日本曹洞宗僧団内で発生した紛争であるとされ、狭義には永平寺3世を巡る争いであるとされる。ただし、その内容や歴史的経緯については異説も多く、未だにこの「三代相論」が何を意味するかについての論争が決着したとは言い難い。

【内容】

まず、歴史的経緯を古写本『建撕記』を見ながら考察していくが、永平寺2世の懐弉禅師が示寂し、続く3世義介禅師の項目にて永平寺の住持を巡る混乱について伝えている。

道元禅師示寂後、永平寺の住持となっていた懐弉禅師は、文永4年(1267)4月8日に、その地位を義介禅師に譲っている。しかし、文永9年(1272)には義介禅師は退位し、懐弉禅師が再び住持に就いた。弘安3年(1280)に懐弉禅師が示寂すると、義介禅師はまた永平寺に入ったが、弘安10年(1287)には退院し、寺麓に庵を設けて、養母堂として寺を離れることはなかった。そして、永仁元年(1293)に加賀国大乗寺の住持になったのである。

そして、どうやらこの間に義演禅師が第4世として永平寺の住持になったようである。しかし、古伝が残らない義演禅師の行実は記録上で確認できず、『建撕記』でも弘安10年以降、正和2〜3年(1313〜14)頃には退院し、義演禅師は正和3年10月26日に示寂したと伝える。なお、義演禅師が住持だったとき、阿波城万寺の瑩山紹瑾禅師が拝登して『仏祖正伝菩薩戒作法』を書写したが、それは29歳(1292年)の時であったが(『洞谷記』参照)、この記述からその時に義演禅師が住持であったことが分かる。

【「三代相論」について】

『建撕記』では、義演禅師退院の記事の後で、5世として義雲禅師が永平寺に晋住したことを伝えているが、その後で急に「三代相論」について論じている。

同著によれば、時期は正和元年〜3年(1312〜14)の間であると推定されているが、とりあえず義演禅師寂後のことであるとされている。そして、それは義介禅師と義演禅師の両者が亡くなった後で、その遺弟が、それぞれの祖師の位牌を作り、永平祖師堂に建てようとしたらしいが、お互いが自分たちの尊敬する祖師が3世であると主張し争った。結局は、義介禅師も義演禅師も「前住」であるとして、争いは抑えられたという。

【「三代相論」の真相】

以上に見てきた『建撕記』は、良くも悪くも、宝慶寺に依った寂円派の見解であり、決して公平な歴史的記述とは見なされない。それの証拠に、『三祖行業記』の義介禅師伝では檀那である波多野公が必死になって義介禅師を永平寺に留めようとし、それに対して反発した者がいたことを伝えている。なお、その際に「雲水、間に、円公の参随、鋒を争うが如し」ということがあったようである。これから、円公を文字通り「寂円」と採るのか、音通で「義演」と採るのかで見解が相違するところである。

もし、寂円派、対、義介・義演であるとするとここには達磨宗の影響があると見なくてはならない。道元禅師の古風な禅を慕う寂円派による達磨宗派の排除である。また、義介、対、義演であるとすると法系論争ということにもなるだろう。

しかし、「三代相論」の難しさは、全てが後代に残された記録上のものであり、結局は定説を見ないことである。ただ、道元禅師の寂後に、永平寺を始めとする日本曹洞宗僧団の運営を巡って、様々な議論があったのであろう。

そして、事実として日本曹洞宗は、大乗寺にて独立した義介禅師の下に太祖瑩山禅師が輩出され、その門下が總持寺永光寺といった寺院を中心に全国展開することになっていく。つまり、この「三代相論」があってもなくても、どちらでも良いのである。寂円派が必死になって守ろうとしたとすれば、その甲斐空しく、永平寺は、室町期・戦国期を通じて極めて低調な態勢であった。

【江戸時代の議論】

面山瑞方師が52歳の時、祖山に拝登して当時の住持大虚喝玄禅師と会談に及んだとき、大虚禅師による見解を紹介している。
又、当寺の三代論、未審義雲大鐘の銘を作して、当寺五世と記す。則ち、開山・懐弉・徹通・義演・義雲なり。義雲、私無きの明鑑なり。後来、徹通・義演を合して、一世に充て、義雲を指して以て、四世牌と為す。是の故に世牌の数、皆な差う。代々の手筆・墨跡等、亦た其の十世となすが如きなり。実に是れ、十一世なり。然れば、今、改めて十一世と為すと雖も、恨むべきなり。 『傘松日記』、『続曹洞宗全書』「法語」巻・451頁下段

このように、大虚禅師は永平寺に遺された五世・義雲禅師の大梵鐘の銘を証拠としつつ、三代相論について不信感があるとしたのである。

【研究論文】

・竹内道雄「三代相論と永平義雲・一つの類推・」(『日本の禅語録月報13』S53.9)
・佐橋法龍「三代相論に於ける第二次紛争の発生年代に就いて」(『印度学仏教学研究3-2』S30)
・竹内道雄「三代相論の社会史的考察・その問題点・」(『宗学研究7』S40)
・村上聖尚「永平寺三代相論について」(『駒沢史学16』S44)
・東隆眞「「三代相論」考(4回)」(『宗学研究11〜15』S44〜48)
・松田文雄「三代相論の意味するもの」(『宗学研究15』S48)
・石川力山「三代相論再考 道元僧団の社会的経済的背景を中心として」(『宗学研究31』H1.03)
・中世古祥道「永平寺三代相論私考」(『宗学研究39』H9.3)
・石川力山「三代相論と大乗寺移住」(『曹洞宗教義法話大系7 日本曹洞宗の祖師―伝記・語録』同朋舍出版・H3.7)

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます