オスマン国の軍人 | |
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ドラマリ・パシャ | |
個人情報 | |
出生 | 1754年 |
没年 | 1832年 |
別名 | ーー |
職歴 | |
歴任 | ギリシャ州知事 |
軍事歴任 | |
階級 | 陸軍元帥 |
歴任 | シリア・エジプト軍司令官 |
エジプト軍集団司令官 | |
その他 | |
称号 | オスマン帝国三英雄 |
宗教 | イスラム教 スンナ派? |
ピラミッドの戦い1798年、フランス軍がオスマン帝国領エジプトに侵攻し、エジプト最大の港であるアレクサンドリアを占領。
オスマン皇帝セリム3世?はこれに対し、ドラマリ・パシャ率いるエジプト・シリア軍を派遣し、対処するように命じた。
ドラマリ・パシャはカイロに到着し、現地のマムルーク軍や中央からの援軍、エジプト・シリア軍を合流させ、ナポレオン率いるフランス軍を待ち構えた。
マムルーク騎兵隊1,500、歩兵60,000で構成されたオスマン軍は、ピラミッドの戦いにてフランス軍と激突した。
オスマン軍は歩兵を主軸とした近代的なフランス軍に敗北を重ね、マムルーク騎兵は敗走した。
ドラマリは中央イスタンブールより派遣されたイェニチェリによる攻撃や、野戦砲の弾幕を張ってフランス軍に対抗。
どうにかカイロへの侵入は防いだものの、結果は惨敗に終わった。
アブキールの戦い1801年7月25日、ナポレオンはフランス本国への帰還を決めた。
事前にこの情報を知っていたドラマリはフランス軍への最後の抵抗としてアブキールにてフランス軍と激突した。
アブキールにて激突した両軍は、共に大損害を出すほどの激戦を繰り広げ、最終的にオスマン帝国の勝利で終結した。
サイイド・パシャ、ドラマリ率いるオスマン軍はイェニチェリの鉄砲隊でフランス軍の騎兵隊を蹴散らし、野戦砲による集中砲火でフランス軍を殲滅した。
この戦いの後、ナポレオンは少数の側近と共にエジプトを脱出し、残されたのはペストに悩むフランス軍の残留兵だけであった。
ドラマリとサイイドは、シリアの英雄と崇められ、共に9月に陸軍元帥へと昇進している。
またドラマリ、サイイド、ハルシッドの3人の元帥を総称して「オスマン帝国の三英雄」と呼ばれるようになる。
1819年、友人でもあり、同じ三英雄の1人であったサイイド・パシャがイスタンブールにて暗殺された。
これに対してサイイドは「海軍の英雄も呆気なく死ぬのか」と深い悲しみの言葉を残している。
ナヴァリノの海戦
晩年の1824年にアルバニア軍団、エジプト軍集団を率いてギリシャの独立紛争に参戦。
1826年5月には皇帝マフムト2世の要請を受けて、レヴィオン・リュステム・パシャと共にギリシャ反乱軍の本拠であるアテネを陥落せしめた。
さらにペロポネソス半島全域に拡がった反乱を着々と鎮圧、殲滅し、最終的にナヴァリノの海戦でオスマン帝国が勝利を収め、ギリシャの独立は阻止された。
1832年、ダマスカスで死去。
死後の1914年、オスマン帝国皇帝メフメト5世?によって「オスマン帝国の三英雄」として称賛された。
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