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オスマン国の軍人
サイイド・パシャ
個人情報
出生1750年
没年1819年
別名サイード・パシャ
職歴
歴任アンカラ州知事
軍事歴任
階級海軍元帥
歴任黒海艦隊総司令官
ボスポラス艦隊指揮官
その他
称号オスマン帝国三英雄
宗教イスラム教 スンナ派?
概要
サイイド・パシャは、オスマン帝国の軍人。三英雄の1人。
オスマン帝国では数少ない海戦に精通した人物の一人で、オスマン海軍艦隊を指揮する最高の将軍であった。
クルビア王国との戦争である来阿戦争中に起きた黒海海戦で、オスマン艦隊を指揮して勝利を収めた。
ハルシッド・パシャドラマリ・パシャの2人とサイイドを加えた3人を「オスマン帝国の三英雄」と呼ぶ。

生涯

司令官への道

1750年、オスマン帝国内の独立国クリミア・ハン国に生まれる。
14歳の時にイスタンブールに上京してイスタンブールの海軍学校に入学。16歳の時に海軍学校を卒業し、東地中海艦隊の艦隊指揮官の参謀を務めることになる。

参謀を務めた後、24歳(1774年)の時に海軍小佐に昇進する。

その後はクリミアで起きた反乱や、黒海の海賊などの対処、鎮圧を行いながら31歳の時に少将へと昇進する。

黒海艦隊司令官として

オスマン海軍の戦列艦
1781年、黒海艦隊司令官に就任。
同年8月21日、キプロス州の反乱を鎮圧するため、東地中海へと出立し、艦隊を率いてキプロス島近海を包囲し、キプロス反乱軍のシーレーンを破壊した。8月28日に反乱を鎮圧した。

1787年、第6次来阿戦争(1787年-1791年)に参戦。
黒海艦隊を率いて黒海にてクルビア王国海軍艦隊と交戦し、勝利。先の戦争で締結されたキュルチュク・カイナルジ条約の内容であるクリミア・ハン国の分離を、阻止し、再びオスマン帝国の従属下に置くことに成功した。(ヤッシーの講話)

1798年-1801年のナポレオンによるエジプト州?侵攻の際には、イギリス海軍と共に東地中海艦隊を率いて、エジプト近海に赴きナポレオン率いるフランス軍の輸送船を攻撃し、孤立させることに成功した。この功績でサイイドは海軍中将へ昇進した。

第8次来阿戦争(1806年-1812年)

アトスの海戦
1806年に勃発した第7次来阿戦争にもサイイドは参戦した。
黒海にてクルビア海軍との海戦が発生し、サイイドは黒海艦隊を率いて交戦した。(アトスの海戦)
この頃、ナポレオン率いるフランス帝国がクルビア遠征を企んでいるとの情報がクルビア王国に伝わり、クルビア王国は戦争継続を困難と考えた。
対するオスマン帝国も、戦争継続が困難となった。中央の目まぐるしい皇帝の代替わりなどもあって、新帝マフムト2世を擁護する改革派と保守を全面的に打ち出す旧守派との争いが足枷となったからである。

最終的にオスマンとクルビアは、オスマン帝国がセルビアへの自治を与えること、コーカサス、クリミアでの優位性を保つことを条件に、ブカレストで講和条約を締結した。(ブカレスト条約)

この戦争後、サイイドは海軍元帥へ昇進。
また、マフムト2世によりドラマリ・パシャハルシッド・パシャと共に「オスマン帝国の三英雄」と称賛された。

死とその影響

1817年、セルビア公国(現セルビア州)が成立。
自治公国が次々と成立する中、サイイドは1819年6月に新たな自治公国の独立を阻止するために、イスタンブールへ向かった。
しかし1819年6月19日、サイイドはドルマバフチェ宮殿の庭園にて大セルビア主義者である若者に暗殺された。

死後の1914年、メフメト5世?によって正式に「オスマン帝国の三英雄」として再び称賛された。現在も、海軍の英雄として有名。

人物

  • 同じ三英雄のハルシッド、ドラマリとは友人。
  • オスマン帝国では数少ない海戦に精通した人物で、海軍の中では大提督と呼ばれたバルバロス・ハイレッディンと並んで有名。

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