オスマン国の軍人 | |
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サイイド・パシャ | |
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個人情報 | |
出生 | 1750年 |
没年 | 1819年 |
別名 | サイード・パシャ |
職歴 | |
歴任 | アンカラ州知事 |
軍事歴任 | |
階級 | 海軍元帥 |
歴任 | 黒海艦隊総司令官 |
ボスポラス艦隊指揮官 | |
その他 | |
称号 | オスマン帝国三英雄 |
宗教 | イスラム教 スンナ派? |
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オスマン海軍の戦列艦1781年、黒海艦隊司令官に就任。
同年8月21日、キプロス州の反乱を鎮圧するため、東地中海へと出立し、艦隊を率いてキプロス島近海を包囲し、キプロス反乱軍のシーレーンを破壊した。8月28日に反乱を鎮圧した。
1787年、第6次来阿戦争(1787年-1791年)に参戦。
黒海艦隊を率いて黒海にてクルビア王国海軍艦隊と交戦し、勝利。先の戦争で締結されたキュルチュク・カイナルジ条約の内容であるクリミア・ハン国の分離を、阻止し、再びオスマン帝国の従属下に置くことに成功した。(ヤッシーの講話)
1798年-1801年のナポレオンによるエジプト州?侵攻の際には、イギリス海軍と共に東地中海艦隊を率いて、エジプト近海に赴きナポレオン率いるフランス軍の輸送船を攻撃し、孤立させることに成功した。この功績でサイイドは海軍中将へ昇進した。
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アトスの海戦1806年に勃発した第7次来阿戦争にもサイイドは参戦した。
黒海にてクルビア海軍との海戦が発生し、サイイドは黒海艦隊を率いて交戦した。(アトスの海戦)
この頃、ナポレオン率いるフランス帝国がクルビア遠征を企んでいるとの情報がクルビア王国に伝わり、クルビア王国は戦争継続を困難と考えた。
対するオスマン帝国も、戦争継続が困難となった。中央の目まぐるしい皇帝の代替わりなどもあって、新帝マフムト2世を擁護する改革派と保守を全面的に打ち出す旧守派との争いが足枷となったからである。
最終的にオスマンとクルビアは、オスマン帝国がセルビアへの自治を与えること、コーカサス、クリミアでの優位性を保つことを条件に、ブカレストで講和条約を締結した。(ブカレスト条約)
この戦争後、サイイドは海軍元帥へ昇進。
また、マフムト2世によりドラマリ・パシャ、ハルシッド・パシャと共に「オスマン帝国の三英雄」と称賛された。
- 同じ三英雄のハルシッド、ドラマリとは友人。
- オスマン帝国では数少ない海戦に精通した人物で、海軍の中では大提督と呼ばれたバルバロス・ハイレッディンと並んで有名。
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