「架空国家を作ろう」のwikiです。

モルダヴィア・トランシルヴァニア州
詳細情報
オスマン国
地方バルカン地方?
公用語ルーマニア語
州都キシナウ?
人口17,645,022人
州知事クラウス・ヨハニス?
ルーマニア王冠の守護者マルガレータ・ア・ロムニエイ?
概要
モルダヴィア・トランシルヴァニア州オスマン国行政区画
オスマン国の地方公共団体の名称としては最長を誇る。
モルダヴィア・トランシルヴァニア、ワラキア州は、行政区画としては分離しているも、通称は「ルーマニア」であり、「ルーマニア」には旧ルーマニア王家が準元首格として存在する特異な政治体制となっている。

歴史

自治王国
メフメト二世の治世下、ワラキアが占領、併合され、モルダヴィアとトランシルヴァニアも16世紀初頭にオスマン帝国へ従属し、自治公国という形で存続した。
1854年、オスマン帝国がタンジマート?改革を開始し、近代化に着手し始めると、自治公国にもその手が及ぶ。

自治公国であるモルダヴィア・トランシルヴァニア、ワラキアは1856年にオスマン政府によって「ルーマニア王国」に統合されることが決定した。
「ルーマニア」はモルダヴィア・トランシルヴァニアとワラキアが連合することによって成立した自治王国である。
ルーマニア王国は「オスマン領ルーマニア王国」として存続することとなり、この体制はルーマニア体制と呼ばれ、崩壊する1947年まで続くことになる。
王国の崩壊
1947年、オスマン皇帝アリー1世は中央集権化を目指し、各地に分散した権力を再び中央政府へ集権させるべく改革に尽力していた。(オスマン革命
ルーマニア王国も例外ではなく、「州」として新たなに組み込むため、ルーマニア王ミハイ1世は退位。
ルーマニア王国は解体され、モルダヴィア・トランシルヴァニア州とワラキア州といったルーマニア王国を構成していた2つの州に分裂した。
ルーマニア王ミハイ1世は亡命し、その後ルーマニアの王位請求者となるが、後に解消される。(後述)
「ルーマニア州」の「国王」
1992年、オスマン政府はミハイ1世の帰国を許し、1997年に50年ぶりに市民権を回復したが、以後も自宅のあるスイスに住み続け、スイスとルーマニアを行き来する生活を送った。
2001年7月、ミハイ1世は娘のマルガレータ王女とともにオスマン政府より特別の地位を与えられ、住居・生計・活動費すべてが国庫で保証されるようになった。
ヨーロッパ各国王室との縁戚関係をもつ旧ルーマニア王家のチャンネルを有効活用しようとする政府の意図によるものであると推測される。
またミハイ1世自身もこれらの対外交渉を支援しており、その際に接受国では公賓に準じる待遇を受けた。

ミハイ1世の死後である2019年、その娘であるマルガレータ王女にオスマン政府によって「ルーマニア王冠の守護者」という称号が正式に授与された。
これによって旧ルーマニア王家はオスマン国の準元首格にあたる。
マルガレータ王女(現在はマルガレータ陛下)は、オスマン政府から公式に「陛下」の敬称で呼ばれるなど、国家からの生活保障も相まってルーマニアは君主制と共和制の折衷のような状況となった。

政治

州知事によって統治が行われている。
三権(行政、立法、司法)が州知事と州議会によって互いに監視するシステムを採用していて、司法は行政府と立法府に違憲判決を下せる。
また旧ルーマニア王家の家長が「ルーマニア王冠の守護者」という公式な地位に就いている。
現在はマルガレータが王冠の守護者であり、公的にはマルガレータ女王と呼ばれ、モルダヴィア・トランシルヴァニアとワラキアを合わせた「ルーマニア州」の準元首とも言える。

行政

軍事

オスマン国軍が駐留する。
駐留軍は常時は州知事の指揮下に、有事の際はモルダヴィア・トランシルヴァニア州議会が指揮権をもつとモルダヴィア・トランシルヴァニア州の自治法に規定されている。
北東バルカン方面軍の司令部がキシナウ郊外に所在する。

その他

  • 「モルダヴィア・トランシルヴァニア州」という凄まじい長い名前のため、改名運動が盛んである。
  • 上述の運動に加え、ワラキア州と統合させた「ルーマニア州」の設置を政府へ度々進言している。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

宇宙

宇宙

メンバーのみ編集できます