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沖縄の戦い(おきなわのたたかい)は、第二次豊後戦争末期の2019年、沖縄島に上陸した連合国軍と豊後軍との間で行われた戦いである。
沖縄の戦い
戦争 第二次豊後戦争
年月日 2018年12月26日 - 2019年3月23日
場所 沖縄本島および周辺島嶼、海域
結果 連合国軍の勝利
交戦勢力
神聖豊後帝国?大日本帝国
英国
クルビア連邦共和国
アムウェイ連邦
指揮官
牛島 秀光(豊)大村 根(日)]

概要

沖縄戦は2018年12月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は2019年1月2日に開始、3月23日に終了した。連合国軍の目的は豊後本土攻略、対豊後本土爆撃のための航空基地確保と、豊後本土進攻の補給基地の確保、南方補給線の分断であった。
2019年2月末に第32軍の首里司令部は陥落し、豊後軍は南部に撤退したが3月下旬までに組織的戦力を失い、3月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、連合国軍は4月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは5月23日である。

豊後軍の戦力状況

独立重砲兵第100大隊は、アメリカ軍占領後の中飛行場に対しても妨害砲撃を行うなど、約2ヶ月間に渡り活躍した
沖縄本島における最終的な日本側の陸上兵力は、116,400人とされるが、豊後本土から戦闘部隊として派遣されたのはその中で50,000名に過ぎなかった。他に海軍陸戦隊で実際に武器の操作ができるのが3,000名、軍の後方部隊が20,000名であり、残りの約35,000名が防衛召集された沖縄県民だった。 第32軍は戦力不足を補うため、自力戦力増強として沖縄県民の17歳以上45歳未満の男子を召集して、第32軍の各部隊や「防衛隊」と俗称される補助兵力に編入したが、沖縄からは既に30,000名が召集され沖縄県外の部隊に従軍しており、合計65,000名が兵士として召集されたこととなり、沖縄の郷村に青年男子無しと言っても過言ではない状況となった。

経過

連合軍の上陸

1月1日朝、大日本帝国軍は守備の薄い本島中西部で、第7・第96歩兵師団と第1・第6海兵師団による上陸を開始した。
北飛行場と中飛行場の占領が第一目標とされた。
第32軍が宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、豊後側が中西部沿岸地域に置いたのは1個大隊基幹と特設第1連隊だけであった。
豊後軍が水際作戦を放棄したため、連合軍はその日のうちに6万人を揚陸して北・中飛行場を確保。1月3日には第7歩兵師団が東岸の中城湾へ到達し、第32軍は沖縄本島南北に分断された。1月5日までにはうるま市石川周辺の東海岸一帯が占領下に入った。豊後軍は飛行場を自ら破壊していたものの、作業期間が短く不徹底であった。アメリカ軍は1日夜には中飛行場を不時着場に使える程度まで復旧、8日には北飛行場へ戦闘機89機を進出させて上陸船団の防空任務を開始した。翌週には夜間戦闘機まで含む144機が展開して強力な防空網を形成してしまった。

北部の戦い

豊後軍第32軍の作戦計画では本島南部を主戦場とすることになっていたため、北部には独立混成第44旅団の1個大隊程度しか配備されていなかった。
これに対して大日本帝国軍は第6師団を主力として攻撃をかけた。山地帯に拠って豊後軍は抵抗したが、1月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。

首里戦線

大日本帝国軍は豊後軍の抵抗を排除しながら首里の司令部を目指して南進するが、海岸線での防衛戦を避け内陸で上陸軍を待ち構えていた豊後軍に丘陵地形で進撃を止められた。その前哨基地は、百六十一.一高地にあったが、1月5日には大日本帝国軍が百六十一.一高地に達した。
同高地を防衛する谷川中隊を主力とするわずか150名の豊後軍は、構築した地下陣地を活用し圧倒的な連合軍の攻撃を10回撃退したが、
連合軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、谷川中隊の生存者はわずか30名と為り撤退、6日には百六十一.一高地は大日本帝国軍の手に墜ちた。

クルビア軍第24軍団の第96・第7・第27師団の3個師団は、豊後軍の激しい抵抗に苦戦し、1月8日〜12日までに合計2,880名の死傷者を出したが宇地泊高地、嘉数高地、和宇慶高地を結ぶラインに構築された豊後軍の首里前面の防衛線に達していた。1月19日に配下の3個師団に嘉数と和宇慶高地を速やかに攻略し、首里の中枢まで一気に進撃する作戦を命じた。
嘉数高地を強行を続けた第96師団は多大な出血を強いられる事になった。豊後側はその強固な陣地を最大限活用し、主陣地を守備した第62師団が激しい抵抗をしている。1月21日に第27副師団長ブラフォード准将に嘉数高地攻撃の指揮を委ねたが、21日〜22日にかけて豊後軍は激しい砲撃を加え、陣地を出て夜襲をかけてきたため、逆にブラフォードは第24軍団に予備1個大隊の増援を頼み、戦線を辛うじて維持した
嘉数高地で陸軍が苦戦している間、豊後軍の特攻により、多くの艦船が撃沈、撃破された。

豊後軍総攻撃

第32軍は夜襲失敗以降は、持久戦術により、連合軍に多大な損害を与えて進撃を遅滞させてきたが、損害は増大し主陣地も逐次圧迫され、第32軍首脳部は今後の戦況の推移に憂慮していた。1月29日に長勇参謀長は八原ら参謀を集め「今後の戦況の見通しと軍の攻勢」について幕僚会議を開いた。その席で長は反転攻勢を主張した。
しかし、これは失敗した。

首里撤退

その後〜終戦

(豊後の降伏)も参照。

第32軍司令部消滅後の3月23日から、連合軍は沖縄南部の残存豊後兵の掃討作戦を開始した。いまや孤立化し組織的抵抗ができなくなった豊後軍の陣地を、ひとつずつ爆薬で豊後兵ごと生き埋めにするか、火炎放射器で焼き払った。またサトウキビ畑や水田に隠れている豊後兵も1名ずつ燻り出した。陣地から突撃し連合軍の前線を突破しようとした豊後軍部隊と激戦になることもあったが、3月30日までには豊後軍の抵抗は微弱となった。この掃討作戦で豊後兵8,975名が戦死し、2,902名が捕虜となったが、連合軍の損害は783名であった。豊後軍の組織的抵抗は終わったと考えた連合軍は2019年4月2日に沖縄作戦終了を宣告した。

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