最終更新: kyo_miyato 2017年04月27日(木) 01:44:01履歴
二条城は、慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられた( 61 )が、上洛時の宿所や京都の警護のために造営したものである。以後、主として江戸幕府の儀典の場として利用された。元和6年(1620)、徳川秀忠の娘で後の( 62 )が後水尾天皇の女御(にょうご)として入内する際にも使われた。 寛永3年(1626)には、後水尾天皇が行幸しているが、現在国宝に指定されている( 63 )は、この行幸に備えて大改修がなされた。重要文化財に指定されている障壁画や襖絵は、( 64 )が中心となって描かれた。 寛永11年(1634)の徳川家光の上洛を最後に、将軍の上洛、二条城入城は、幕末の文久3年(1863)の( 65 )まで途絶えた。そして、慶応3年(1867)には、最後の将軍である徳川慶喜が朝廷に政権を返還する大政奉還の儀式を行っている。 |
(61) 慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられた徳川家康が、上洛時の宿所や京都の警護のために造営したものである。
(62) 元和6年(1620)、徳川秀忠の娘で後の( )が後水尾天皇の女御(にょうご)として入内する際にも使われた。
(63) 寛永3年(1626)、後水尾天皇が行幸しているが、現在国宝に指定されている( )は、この行幸に備えて大改修がなされた。
(64) 重要文化財に指定されている障壁画や襖絵は、( )が中心となって描かれた。
(65) 寛永11年(1634)の徳川家光の上洛を最後に、将軍の上洛、二条城入城は、幕末の文久3年(1863)の( )まで途絶えた。
銀閣寺は、室町幕府8代将軍の( 66 )が建てた東山山荘を没後に禅寺としたもので、正式な寺名は「( 67 )」と称する。また、通称の銀閣とは、国宝の( 68 )のことである。それは錦鏡池(きんきょうち)のほとりに建つ二層の楼閣で、下層の心空殿は和様の住宅、上層の潮音閣は観音像を安置する禅宗様の仏堂となっている。 持仏堂であった( 69 )も国宝に指定されている。そのうち、「同仁斎(どうじんさい)」と称する( 70 )の書斎には付書院と違い棚があり、書院造の初期の事例と考えられている。 |
(66) 銀閣寺は、室町幕府8代将軍の( )が建てた東山山荘を没後に禅寺としたもの。
(67) 銀閣寺の正式な寺名は「( )」と称する。
(68) また、通称の銀閣とは、国宝の( )のことである。
(69) 持仏堂であった( )も国宝に指定されている。
(70)「同仁斎(どうじんさい)」と称する( )の書斎には付書院と違い棚があり、書院造の初期の事例と考えられている。
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(61) 慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられた徳川家康が、上洛時の宿所や京都の警護のために造営したものである。
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(61) 二条城は、慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられた( )が、上洛時の宿所や京都の警護のために造営したものである。
問61 問題中に答えが〜!