最終更新: kyo_miyato 2017年04月29日(土) 00:15:49履歴
(91) 山科の地名「御陵(みささぎ)」は、「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」の歌を詠んだ( )の御陵があることに由来する。
(92) 宇治田原町にある( )は、「奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき」を詠んだ歌人を祀っている。
(93)「因幡薬師」として知られる平等寺は、「立ち別れ いなばの山の 峯に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」の歌を詠んだ中納言行平が、薬師如来を祀ったことに始まる。
※この短歌を詠んだ中納言行平とは在原行平のことであり、当該の薬師如来を祀った橘行平とは別人のため、問題自体が無効とされ全員正解扱いとなった。
(94) 大原野の十輪寺には、「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌を詠んだ( )の塩竈跡にちなむ伝説が残る。
(95)「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る」の歌を詠んだ右大将道綱母は、「( )」に不安定な結婚生活の苦悩などを書き綴った。
(96) 新京極にある( )には、「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」の歌を詠んだ和泉式部の墓と伝えられる石塔がある。
(97)「玉のをよ たえなはたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」の歌を詠んだ( )は、後白河天皇の皇女であり、和歌を藤原定家の父俊成に学んだ。
(98)「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」の歌を詠んだ藤原定家の御子左近は、のちに三つの家に分かれるが、そのうち冷泉家(れいぜいけ)の
祖となったのは( )である。
(99) 従二位家隆の歌「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」にある「ならの小川」は、( )の境内に流れている。
(100)「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は」の歌を詠んだ( )は、鎌倉幕府と対立し、倒幕の兵を挙げた。
(92) 宇治田原町にある( )は、「奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき」を詠んだ歌人を祀っている。
※この短歌を詠んだ中納言行平とは在原行平のことであり、当該の薬師如来を祀った橘行平とは別人のため、問題自体が無効とされ全員正解扱いとなった。
(94) 大原野の十輪寺には、「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌を詠んだ( )の塩竈跡にちなむ伝説が残る。
(95)「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る」の歌を詠んだ右大将道綱母は、「( )」に不安定な結婚生活の苦悩などを書き綴った。
(96) 新京極にある( )には、「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」の歌を詠んだ和泉式部の墓と伝えられる石塔がある。
(97)「玉のをよ たえなはたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」の歌を詠んだ( )は、後白河天皇の皇女であり、和歌を藤原定家の父俊成に学んだ。
(98)「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」の歌を詠んだ藤原定家の御子左近は、のちに三つの家に分かれるが、そのうち冷泉家(れいぜいけ)の
祖となったのは( )である。
(99) 従二位家隆の歌「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」にある「ならの小川」は、( )の境内に流れている。
(100)「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は」の歌を詠んだ( )は、鎌倉幕府と対立し、倒幕の兵を挙げた。
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