最終更新: kyo_miyato 2017年05月02日(火) 22:42:52履歴
琳派は、師弟関係や世襲による系譜ではなく、“私淑(ししゅく)”によって美意識が継承されたことに大きな特色がある。琳派の祖の一人とされる本阿弥光悦は、刀剣の鑑定・研磨を家業とする家に生まれ、狩野派の「唐様」とは異なり日本の四季を描いた「大和絵」をバックボーンに、書・漆芸・陶芸・出版などに斬新なデザイン力を発揮した。陶芸の代表作である楽茶碗「( 91 )」は国宝である。その才能は作庭にも生かされ、( 92 )の「三巴の庭(みつどもえのにわ)」は光悦の作と伝わる。光悦と出会った絵師の俵屋宗達は、( 93 )という独自に考案した技法を用いて、革新的で力強い「風神雷神図屏風」(国宝)を描いた。元和元年(1615)、光悦は( 94 )から拝領した鷹峯(たかがみね)の地に、多くの芸術家や工芸家と共に移り住み「光悦村」(工芸集落)を開いた。光悦寺は光悦が草庵の傍らに立てた堂字が起源とされ、光悦垣でも有名である。 光悦と宗達の偉大から約100年。富裕な上層町衆が台頭した元禄時代、京都有数の呉服店「( 95 )」に尾形光琳・乾山兄弟が生まれた。卓越したセンスをもつ光琳は、華麗で大胆なデザインを着物や帯をはじめ、陶器や蒔絵などを生み出し、陶芸に秀でた乾山との合作も多い。金箔の上に群青と緑青を用いた「( 96 )屏風」は傑作として知られ、「風神雷神図」の模写も行うなど、宗達の影響を大きく受けた。光琳・乾山の墓は、「松竹梅図」を所蔵する妙願寺の塔頭である( 97 )にある。「琳派」という呼称は、光琳の名から後の時代に付けられた。 さらに100年後、後に江戸琳派と呼ばれる酒井抱一(さかい ほういつ)が現れ、京風の絵を描いた。宗達・光琳の絵をこよなく愛した抱一もまた「風神雷神図」の模写を行い、図録『光琳百図』を出版した。代表作の「四季花鳥図屏風」は( 98 )に所蔵されている。明治に入ると、( 99 )がヨーロッパで流行したジャポニズムに触発され、琳派の構図や技法を暮らしの中のデザインとして表現していく。「( 100 )」は今もファンが多い彼の代表作のひとつである。 |
(91) 琳派の祖の一人とされる本阿弥光悦は書・漆芸・陶芸・出版などに斬新なデザイン力を発揮し、陶芸の代表作である楽茶碗「( )」は国宝である。
(92) その才能は作庭にも生かされ、( )の「三巴の庭(みつどもえのにわ)」は光悦の作と伝わる。
(93) 光悦と出会った絵師の俵屋宗達は、( )という独自に考案した技法を用いて、革新的で力強い「風神雷神図屏風」(国宝)を描いた。
(94) 元和元年(1615)、光悦は( )から拝領した鷹峯(たかがみね)の地に、多くの芸術家や工芸家と共に移り住み「光悦村」(工芸集落)を開いた。
(95) 光悦と宗達の偉大から約100年。富裕な上層町衆が台頭した元禄時代、京都有数の呉服店「( )」に尾形光琳・乾山兄弟が生まれた。
(96) 尾形光琳といえば、金箔の上に群青と緑青を用いた「( )屏風」は傑作として知られ、「風神雷神図」の模写も行うなど、宗達の影響を大きく受けた。
(97) 光琳・乾山の墓は、「松竹梅図」を所蔵する妙願寺の塔頭である( )にある。
(98) 江戸琳派と呼ばれる酒井抱一(さかい ほういつ)の代表作である「四季花鳥図屏風」は( )に所蔵されている。
(99) 明治に入ると、( )がヨーロッパで流行したジャポニズムに触発され、琳派の構図や技法を暮らしの中のデザインとして表現していく。
(100)「( )」は今もファンが多い彼の代表作のひとつである。
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(97)妙願寺 → 妙顕寺
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