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第1次大戦ドイツの陸戦戦術概観

はじめに

浸透戦術、ユティエ戦術、縦深防御


 第1次大戦ドイツの陸戦戦術を語るとき、根本的に難しい問題は、「浸透戦術」「ユティエ戦術(Hutier tactics)」という用語がどちらもフランス軍の使ったものだということです。ドイツ軍はそのどちらも定義していないのです。たぶん「フランス軍はこれらの言葉をどう使っていたか」よりも、「第1次大戦ドイツの陸戦戦術」そのものに関心のある読者の方が多いと思いますから、この小論では後者について語ることにします。

「第1次大戦ドイツの陸戦戦術」を語るとき、「柔軟防御(flexible Verteidigungsstrategie)」を一緒に語らないと大事な部分が抜け落ちてしまいます。後で見るように、ローア大尉が中心になって編み出した戦術は攻撃のためのもので、歩兵師団や歩兵連隊に、あるいは軍直轄部隊として、Stosstruppenと総称される突撃大隊や突撃中隊ができました。ところがこの編成が成功したので、1917年から一般の歩兵部隊全体を突撃部隊風に編成し、突撃部隊風の行動を求めるようになりました。これまた後で見るように、歩兵連隊への歩兵砲配属は最初のうち攻撃任務に就く部隊に臨時に行われ、やがて(多少値切られて)常態化しますが、火炎放射器や工兵が歩兵連隊に組み込まれたわけではありません。重機関銃中隊が各歩兵大隊に1個つけられるほど増設された後、1917年になって水冷軽機関銃MG08/15が歩兵中隊に直接配属され始め、軽機関銃を中心とする分隊〜半小隊を軸にして中隊を組み立てていくようになります。これも(必ずしも他兵科と協同しないのに)Stosstruppenと呼ばれるようになるのです。そして大戦後半になると、攻勢を念頭にStosstruppen風に改編され、あるいはStosstruppenを持った部隊が、もっぱら守勢に回り、迎撃と反撃を繰り返すようになったわけです。

 第1次大戦ドイツの陸戦戦術を語ることを難しくする、もうひとつの問題があります。複数の指導的人物が、それぞれの立場から戦術の発展を主導したため、まさに浸透戦術的ですが、複数の動きが同時並行しているのです。これに複数の兵器の開発過程が加わります。逆に言えば、前後関係を正しく把握できれば理解はずっとたやすくなります。

 例えばユティエ将軍は1918年春までずっと東部戦線で戦ってきました。だからフランス軍が「ユティエ戦術」と呼んだものは、1918年春以降のユティエ将軍隷下部隊の戦術に違いないのです。「フランス軍がユティエ戦術をどのように理解したか」が知りたいのであれば、まずフランス軍の指令、操典、軍人の回想などをもとに議論すべきであって、極端に言えばユティエ将軍がが実際に何をやっていたかだけを見ても、知りたいことはわからないとすらいえます。ユティエ将軍が東部戦線でやってきたことを、フランス軍は正確に知っていたのでしょうか。根拠もなしにそれを断定することはできません。それぞれのキーパーソンが試行錯誤したり、自分ではどうしようもない状況変化に対応したりします。ここでもそれが「いつの話なのか」を意識することが大切です。

貴族、士官、兵科


 本題に入る前に、いくつか枕話をしておきましょう。Robinson & Robinson[2009]によると、1890年3月29日、ヴィルヘルム2世が士官のerwünschte Kreise(望ましい階層)として、「魂の高貴さ(Adel der Gesinnung)」を認めることにしました。つまり産業革命が進展していわゆるブルジョワ層が社会的地位を高めたので、貴族の血筋がなくても士官になれることにするというのです。

 実際には士官候補生となるために連隊長の面接での承認が必要なため、ここで裁量がかかりました。騎兵はほとんど貴族以外認められず、逆に工兵と重砲兵(foot artillery、俗にdugout artillery=Grabenartillerie、砲は馬で引くが兵員は歩く)は理系の専門知識が必要なこともあり、積極的に平民を採用しました。

「近衛騎兵連隊は原則貴族士官のみ」ということでユンカーの不満をなだめようとしましたが、騎兵は個人装具にお金がかかるので、近衛歩兵連隊も貴族のみということになりました。ただし近衛歩兵連隊には数パーセントの平民士官(たぶん富豪の子弟)がいて、ユンカー士官仲間からは招かれざる客とみられていたようです。また近衛でない騎兵連隊にも、結局ほとんど貴族しか入れませんでした。

 当時の1年自弁志願兵制度(Einjährig-Freiwilliger)では、無給に加えて装備品を自分で買わねばなりませんでした。これを終わって試験の成績が良くて、かつ家系がある程度良い(職人とか商店主とかはダメだったらしい)と、予備士官になれました。成績がある程度良いと、予備下士官になれました。Robinson & Robinson[2009]によると、13%くらいどちらにもなれずに1年を終える人がいたそうです(154頁)。予備士官も少佐程度までは出世の可能性がありました。

 当時は軍曹(Feldwebel)は原則として中隊にひとりしかいないもので、伍長(Unteroffizier)から軍曹に上がれる人はわずかでした。軍曹以上で退役した下士官や予備下士官はFeldwebelleutnant(代用士官?)を務め、勤続の長い現役下士官はOffizierstellvertreter(士官勤務下士官?)になることができました。ただし第1次大戦当時ですら、これらが広く用いられたかどうかは定かでありません(Robinson & Robinson[2009]、201頁)。

 何が言いたいかというと、第1次大戦までのドイツは、特務士官制度があった日本陸軍などとは違って、兵士からたたき上げて士官になる道はほぼなかったということです。士官の身分は兵・下士官から隔絶したもの。それはそれとして、下士官以下に権限をどの程度まで移譲しますか? というのが次節の話なのです。

委任戦術


 ドイツにはAuftragstaktikという伝統的な指揮方法があります。日本語版Wikipediaで「訓令戦術」になっているのは、英語でMission-type tacticsと呼ばれているものを直訳したのでしょう。要点は「指揮官の望む結果はこうだと伝え、状況はこうこうだと伝え、どうやって結果を出すかは自分で考えさせる」ということです。

 どこまでも自主性を尊重する……などということはおよそ軍隊っぽくありません。例えばこんな話があります。第2次大戦当時のドイツ軍で、砲兵連隊の新兵が懲罰を食らって教育係の軍曹に出頭を命じられました。軍曹はそれほど怒っている風でもなく、ジャガイモを差し出して「これを厨房で揚げて来い」と言いました。内心ほっとした新兵は心を込めてフライドポテトを作り、持って行きました。軍曹はそれを見て激怒しました。「俺はジャガイモを切れとは命令していない。針と糸で縫い合わせて来い」(Adamczyk[1992])

 留保も逡巡もなしに命令を遂行することも必要であり、実情に合わせた独断専行も必要です。Auftragstaktikについては、もっぱらそうした指揮スタイルについて述べた著作も複数刊行されているので、ドイツ軍は一般に下級指揮官に目標を明示し、それを実行する方法については裁量を認めるのが良い指揮とされる傾向があった……としておきましょう。

 例えば1906年版ドイツ歩兵操典の第275項は次のように述べています。
上級指揮官は命令を必要な限りにとどめるべきである。細部にわたることは避け、下級指揮官に方法の選択を 残さねばならない。命令と指示はもっぱら、直接自分に属する指揮官に宛てたものとすべきである。 もし状況が必要とするなら、さらに下級の指揮官に直接指示することは妨げない。時間が切迫している 場合や、任意の指揮官の行動が戦闘の目的[達成]を脅かしている場合である。そのような場合、中抜きされた 指揮官に直ちに連絡すること。

 特にこの小論に関係するのは、小隊未満の単位(半小隊=2個分隊、または1個分隊)がどれくらい独立行動を期待されているかです。士官は少なくとも小隊長ではあるからです。1906年版ドイツ歩兵操典第169は歩兵小隊長の行動について述べた項のひとつですが、こうなっています。
攻撃時には、小隊長は[次の]行動を起こせる位置まで、なるべく損失を被らないよう前進を試みる。 敵の砲火や地形の様子が許す限りで、小隊長は不必要に散らばりすぎないようにしながら、散兵線を導く。 開けた地形では走っても良い。 地形の性質上、最初にそのような前進方法が取れないか、敵砲火によって全く不可能であるなら、小隊長は 半小隊か分隊の大きく広がった散兵線を成し、それぞれに不規則な距離を置いて追随させるようにしても良い。 ただし、射撃を始めるときには遮蔽物を取ってひとつにまとまれるよう常に意識すること。

 突撃そのものはバラバラではなく、少なくとも中隊単位で一斉に行うのですが、突撃に入るまで例えば横一線で移動しろとは言っていません。ある程度の散開は認めつつ、しかし小隊長の指示が届かないところまで広がることは考えていないように読めます。

 例えばGudmundsson[1989]は、第1次大戦が始まったばかりの1914年9月8日、Gerdauen(東プロイセン、ロシア領カリーニングラード州南端からポーランド領にかけて)での戦闘を例に挙げています。第43歩兵旅団の6個大隊中4個が前面に展開し、ほとんどが30〜40人の半小隊単位で散開して攻撃しました。15個中隊2250人中2225人が攻撃後生存していましたが、1個中隊は150人が密集し75人が戦死しました。中隊長ともなれば密集して前進する裁量があったのがわかりますし、この時点でもまだ士官たちの意見が完全に一致していなかったこともわかります。しかし半個小隊が勝手にするする前進して行ったという話ではないのです。

 後で見るローアのアプローチは、だから控えめに言っても、戦前の原則……というか常識をいくらか超えていたと言ってよさそうです。

1914年


 Samuels[1996]は英独それぞれについて、操典の変遷などを含め、戦術原則がどう変化したかを丁寧に追っています。ここでは1914年の開戦前に、両軍がどんな(間違っていたので大戦が始まると損害を大きくした)考えを持っていたかを拾い出すにとどめます。

 5連発ないし8連発の小銃はすっかり普及していました。数百人の一斉射撃に比べると、機関銃の火力など大したことがないように考えられていました。そして機関銃は、攻撃の重点となる場所に火力の足し前として配置するべきだと考えられていました。だから程度の差はあれ、なんとか機関銃を軽く、移動させやすくしようという要求は、浸透戦術とは関係なく出ていたはずなのです。

 ところが1915年3月10日のNeuve Chapelleで、経験の浅い砲兵が準備砲撃に参加したため、(全体としては最前線のドイツ歩兵を粉砕する密度であったのに)2丁のドイツ機関銃が残り、この2丁を中心とする士官ひとり、兵65人が数時間粘って1000人のイギリス兵を殺しました。彼らが稼いだ数時間では後方にいた2個中隊が予備の機関銃4丁を第2防衛線に展開できただけでしたが、予備も含めると40個大隊もいたイギリス軍は防塁から撃ってくる機関銃に対処できず、ついに日没まで守り抜いてしまったのです。

 よく防御された機関銃座は守りに強い。小銃が何丁あっても抜けない。このことは両軍が大戦が始まってから肝に銘じることになりました。

 もうひとつ、大戦が始まるまで支持されていたのは、砲兵の直接砲撃で突撃を成功させる条件作りを助けることです。もともとナポレオン戦争のころから騎馬砲兵は騎兵に次ぐ花形で、決定的な局面に弾雨の中で砲を展開し、一撃を与えることが役目でした。

 ところが、直接砲撃のために位置を晒すとすぐにカウンターバッテリーが飛んできて、砲兵は逃げる間もなく高価な砲と馬を失うことになりました。おそらくこれは、すでに不安定な代物ながら野戦電話が登場していたためでしょう。昔ならできなかった迅速な間接砲撃ができるようになり、ゲームバランスが変わったのです。

人物

ローア


 以下しばらく、Gudmundsson[1989]を基本に記述します。1915年8月、Sturmtruppenの部隊長がWilly Rohr大尉に交替しました。この部隊は37ミリ突撃随伴砲(Sturmbegleitkanone)を実験する部隊でしたが、この兵器もこの部隊もあまりうまくゆかず、あらためて歩兵攻撃戦術を実験する部隊となったのです。この構想自体は世界がこぞって模索したもので、機関銃をアウトレンジできるぎりぎりのスペックを追求したわけです。わが日本にも狙撃砲十一年式平射歩兵砲がありました。Sturmtruppenという名前はローアの関与以前からあったわけですね。

 この部隊はHans (Emil Alexander) Gaede歩兵大将のゲーデ軍支隊に属していましたが、ゲーデ大将は実験内容に細かい注文を付けず、機関銃、Minenwerfer、火炎放射器をローアの指揮下に入れました。このときの機関銃は重機関銃MG08が2丁(1個小隊)でした。

 じつはこのとき、マドセン空冷軽機関銃を持つ、ドイツに2つしかないMusketen Battalionのひとつがゲーデ大将の傘下にありました。そちらではなくてMG08を配属してきたのは、多くの部隊で応用できそうな戦術を期待してのことでしょう。

 部隊が編成されたのは1915年の後半に入っていましたから、MG08/15水冷軽機関銃がローアの実験に刺激されて開発された……などということはないでしょう。優秀な兵器であるMG08をそのままもっと容易に進退させたいということだったろうと思います。

 火炎放射器を対塹壕兵器に使ったのはローアが初めてではありません。手榴弾もそうでした。初期の手榴弾は工兵手作りのものもあり、歩兵が取り扱うには難しいものでした。以後だんだん手榴弾専門の部隊が言及されなくなっていきますが、一般歩兵が取り扱える大量生産品が普及したせいでしょうね。

 ローアの戦術をまとめると、次のようになります。

 分隊単位のsturmtrupp(stosstrupp)で行動し、塹壕掃討のために火炎放射器を持った工兵や手榴弾を持った部隊(Handgrenatentrupp)、そして奪取箇所保持のために(塹壕を掘る)工具と砂袋を持った歩兵が随伴します。

 攻撃が始まったら分隊間の連絡は保たず、分隊内の隊列も、地形に合わせ最善と思うようにします。有名なのは対処できないほどの脅威はスキップして後続部隊に任せ、自分はさっさと前進していくと言うところでしょうか。ただしローアはブリーフィングはもちろん後方で似た地形を使ってリハーサルまでやらせ、下士官はおろか兵士にまで作戦目的を共有させてから自由にやらせているので、最終的に何を達成すべきかはみんなわかっているのです。

 砲兵には準備射撃はもちろん、box barrage(戦場外側を囲む増援阻止の阻塞射撃) を要請します。さらに直接照準であとから見つかった脅威に対処するため、歩兵砲をつけるようローアは求めます。歩兵砲については後でまとめて述べます。

 こうした流れはおおよそ1915年のうちに固まり、翌1916年からこれにならった部隊を歩兵師団、歩兵連隊、あるいは上級司令部がそれぞれ作るようになります。1916年歩兵操典にはローアの方針が反映されたとGudmundsson[1989]は書いていますが、歩兵連隊が諸兵科連合になったわけではありません。あとで書くように、結局空冷軽機関銃は1916年に多数が配備されたもののMG08の補完で終わり、歩兵中隊にMG08/15が入ってくるのは1917年になってからです。だからこの時点では、分隊ないし半小隊が従来より自由に進退することが許されるようになったということでしょう。1917年になって軽機関銃という軸が入り、また様相が変わってきます。

 初期には銃身の短いKarabiner 98aが使われていましたが、1918年になってベルグマン短機関銃MP18が登場して、我々がよくイメージする浸透戦術の構成要素がようやく全部そろいます。

ロスバーク


 Wynne[1940]は売らんかなのタイトルがついていますが、実際にはこの本のドイツ軍は全然attackしません。ひたすらイギリス軍が攻めて、損害を出します。イギリス陸軍大尉が、どうして我が軍はあんなに損害を出したのかと問いかける観点から戦闘の細部を追った本です。

 この本で大きく取り扱われているのが、Fritz von Lossberg中佐(のち少将)です。

 1917年にはルーデンドルフと参謀本部が西部戦線にかかりきりになり、バイエルン王弟レオポルト王子を司令官とするOberbefehlshaber Ost(東方総司令部?)のホフマン参謀長に東部戦線を委ねていましたが、1915年には逆でした。ロスバーク中佐たち少数のスタッフが守勢の西部戦線を仕切っていました。

 1915年7月、フランス軍の攻勢を支えかねた第3軍司令部の弱気を支えるため、大佐になったばかりのロスバークが参謀長になり、丘陵の逆斜面を使った防衛線を敷いて、最前線に置く戦力を絞り、反撃によって戦線を元に戻す「柔軟防御」を初めて導入しました。この考え方はロスバーク自身の関与したマニュアルによっても広がりましたが、1916年12月にルーデンドルフ参謀総長の下で若手幕僚たちが書いたGrundsätze für die Führung in der Abwehrschlachtは、中隊以下の第一線部隊に独自判断の撤退を認めていて、ロスバーク自身を含め多くの士官から異論が続出しました。

 しかしすでに英仏の弾薬生産能力はドイツが追い付けないほどになっており、これまでには考えられない密度での砲撃がドイツを脅かしていました。ロスバークも1917年には一部の撤退を黙認せざるを得なくなり、師団単位の増援を呼び込んで反撃し当初の戦線を固守するとしていた当初の方針も、戦線のすぐ近くに置いた予備での反撃に手段を限定せざるを得なくなりました。

 1917年後半にはMG08/15が相当数配備されていたので、前哨にMG08/15を中心とする小部隊を置き、主防衛線には歩兵大隊のMG08、さらに師団に増援された重機関銃狙撃大隊のMG08は砲兵陣地の手前で最終防衛ラインを形成するという分担が指示されました。

 歩兵中隊には1918年になるとGranatwerfer 16などの擲弾筒が配備されており、軽機関銃も6丁に達していました。ですから擲弾筒班のほかに軽機関銃を中心としたグループが軽機関銃の数だけでき、軽機関銃を持たないグループは突撃班または偵察班……といった、ミニ突撃隊のような構成になっていきました。そして間断なく即時反撃に投入されていったのです。

 Samuels[1996]によると、ルイス軽機関銃の配備数増加を背景として、イギリス軍は1916年から一部で小隊を小隊本部、小銃班、手榴弾班、小銃擲弾班、ルイス班(ルイス2丁)に再編して運用することを始め、1917年のうちには公式なマニュアルでそれが認められました。だから1918年には、ドイツ軍もイギリス軍も歩兵大隊は突撃隊風の編制になっていて、その点ではドイツの優位は小さくなり、少なくとも驚かれるということはなくなっていました。

 フランス軍の場合、偕行社編纂部(編)[1924]によると、1916年9月27日の教令により軽機関銃を攻撃の第1波に投入し、敵を火力で圧したところで第2波が突撃するよう用法が変更されました(第3巻123頁)。これに先立つ9月10日、「[小隊ではなく]半小隊を以て歩兵の最小戦闘単位となし」(第3巻124頁、原文カタカナ)、英仏軍の半小隊(2個分隊)をチームとして中で分業する戦法が原則となりました。同書はこれを戦闘群戦法と呼んでいます。従来は1916年2月13日の教令により、軽機関銃は第3波か第4波に配属し、確保した地形に展開して反撃に備えることとされていました(同書第2巻111頁)。ですからこの点で、フランス軍はイギリス軍より少し早く動いたと言ってよさそうです。

 宇垣改革で日本陸軍に導入された軽機関銃は当初2個分隊に1丁の割合だったと思いますから、当初は日本陸軍も英仏軍を真似たわけです。その後ドイツに接近した日本陸軍は、軽機関銃の充足をはかり、1個分隊に1丁を配備する目処がついたところで1940年に歩兵操典を改正し、軽機関銃を火力の中心に据えたドイツ風の原則を採ります。それはまあ別の話ですね。

 酒石凡平さんのサイト「道は六百八拾里」に、日本陸軍の世界大戦戦訓吸収を含む記事と参照文献リストがあります。

 ロスバークの考えの変遷や、ロスバーク以前に受け入れられていた柔軟防御の構成要素については、Samuels[1996]の第6章が参考になります。

ブルフミュラー


 Georg Bruchmüller大佐は偉くもないし退役したのを呼び返されてるしで、なんとなく「中高年の星」みたいなイメージを持たれているかと思いますが、Zabecki[1994]によると、重砲兵の教育畑が長く、重砲兵最後の操典をじつは執筆した人であるといいます。これは1908年版のExerzier-Reglement fur die Fussartillerieだろうと思います。まあ階級以上の信用と実績、そしてたぶん重砲兵仲間の人脈があったことは想像できます。

 ブルフミュラーはあまり出世しませんでした。この人がいると次にドイツが攻勢をかけるのがそこだとわかってしまう……という嬉し悲しい現実もあったようです。高レベルの司令官からの個人的信任、そしてそれを反映した「ブルフミュラーの命令は余の命令と心得よ」という類の命令を基礎として砲兵組織を采配しました。

 Creeping Barrageは基本的コンセプトとしては砲兵関係者なら誰もが(夢として)思いつく類のもので、それを実現する手段が問題なわけですから、ブルフミュラーはアイデアマンというより実践者でした。そしてああでもないこうでもないといろいろ試しました。ブルフミュラーの準備射撃は3段階あったとよく書いてありますが、リガでは5段階だったし1918年3月のサン・クエンティンは7段階だったとZabecki[1994]は書いています。

 ブルフミュラーは特に敵砲兵に対して毒ガス弾を多用しました。「しばらく無力化(中立化)できればそれでいい」という発想は当時としては斬新でした。ただZabecki[1994]はあまり書いていないのですが、ハーバー[2001]を読んでみると、毒ガスとブルフミュラーの典型的戦術を関連付けるためには困難な問題があります。それは「効いたり効かなかったりする」ことです。ハーバー[2001]は高い本ですし絶版でもないので、買わずに済ませられるほど中身を紹介するわけにはいかないのですが、ひとつふたつ紹介します。例えばドイツはガスマスクを透過させるために、分子ほど細かくないほどほどの粒子に毒ガスをエアロゾル化させようとするのですが、これがなかなかうまくいきませんでした。大きすぎるとただの水滴みたいなものですから、ガスマスクの外側にペタッと張り付いてしまったのです。逆にガスマスクのカタログスペックが優れていても、兵士への教育が上手でなかったり、士官が適切なタイミングで適切な命令を出さなかったりすると、やはり被害は出ました。

 東部戦線のリガやイタリア戦線のカポレットは、毒ガスが効いた戦例の代表であり、1918年の西部戦線ではあまり効きませんでした。だから「典型的な戦例はどれですか」と言われるとちょっと困ってしまうわけですね。

 Zabecki[1994]もまだ絶版ではないので内容を全部ばらすわけにもいかないのですが、ブルフミュラーのやったことは大雑把に言えば砲兵の広域的な組織化だと言えるでしょう。観測チーム、連絡士官チーム、通信チーム、そしてスペックの違う砲チームにそれぞれの役割を与え、時間割だの移動計画だのカタチのある定型業務に落とし込み、そしてそれぞれの役目を理解させる。それはもう軍隊の縦割り組織を引き裂くような活動であって、よほどボスの信任を得ている担当者でなければ、理解できても真似はできない類のものだったろうと思います。もちろん後世の陸軍はそうした活動を定型化し、ルール化し、分担するようにして今日に至っているわけです。

 1916年にもなると彼我でrolling barrageは実施されるようになっていて、ブルフミュラーがいなくても攻撃にはそうした要素が加味されるようになっていたでしょう。ただMG08/15が西部戦線の師団に優先配備されたこと、1918年春季攻勢になってブルフミュラーが初めて西部戦線に出てきたこと、そして短機関銃MP18が1918年にやはり出てきたことを考えると、ドイツ歩兵戦術の要素がすべて揃うのは1918年春の西部戦線で、かつ1918年に限られるように思います。

兵器 [#l59e2544]

空冷軽機関銃


 イギリス軍のルイス軽機関銃は正式採用される1915年10月に先立ち、Samuels[1996]によると、1915年7月から歩兵大隊への配備が始まりました。この銃はもともとアメリカ軍のルイス大佐が設計したもので、アメリカ軍がこれを採用しないのに怒った大佐は軍を辞め、ベルギーに自分の工場を作っていました。ここが生産した分は装甲車に積まれるなどして1914年のうちからイギリス軍に使われていたと言いますから、1915年10月というのは本国で大量調達するための制式化であったのでしょう。1915年末には各大隊が8丁のルイスを持ち、1918年7月には36丁となっていました。Gudmundsson[1989]は一般歩兵部隊に行き渡り始めた時期を1916年半ばとしています。

 ドイツでは1915年(あるいは1914年末かも)にロシアから捕獲したマドセン空冷軽機関銃が2個大隊(合計5個中隊)のMusketen Battalion(Abteilungではない)に配備され、突破されかかった地点への火消し部隊として運用されました。

 Nash[2008]は戦時中にイギリス情報部がまとめた資料で、なぜ個人名つきで復刊されたのかよくわからないのですが、とにかくそういう性格の資料です。この資料を信じるなら、ベルグマン社の空冷軽機関銃l.M.G.15は、1916年7月から9月にかけて編成された111個の軽機関銃隊(M.G.Trupp)に9丁ずつ装備されました。当時は歩兵連隊に2個機関銃中隊があり、3つ目として配備されたようです。他国の空冷軽機関銃同様、連射すると熱でいろいろまずいことが起こり、その後について記した資料はほとんどありません。東部戦線やアジア(中東)戦線に主に送られたと書いてあるWebページもあり、少なくとも突撃隊に優先配置しようとは考えられなかったようです。

 大戦末期に空冷型のMG08/18が登場していますが、ライヒスヴェーアに引き継がれた様子がないのは、やはり放熱の問題があったのでしょうか。

水冷軽機関銃(MG08/15)


 MG08/15は1917年4月ごろから歩兵中隊に順次配備されました。l.M.G.15がやっぱりダメなのを見ての配備であるのか、順調にそこまで遅れたのかはよくわかりません。このころには、もともと4個小銃中隊であった歩兵大隊が、3個小銃中隊+(重)機関銃中隊と少し資本集約的になっています。加えて、多くの歩兵師団は機関銃狙撃大隊を追加配備されていました。もともと重点攻撃戦区の師団につけられるものだったようですが、このころには防衛戦力に数えられ、砲兵陣地を守るように後方に防衛線を張るのが普通の使い方でした。

 MG08/15は防衛線の最前線で前哨に使われるほか(Wynne[1940]、311頁)、配備数が増えてくると中隊火力の柱となり、MG08/15のない分隊が突撃班になったり偵察班になったり、火力以外の役割を分担していました。逆に弾薬手を含めて4人チームで運用できるとはいえ、弾薬と人員の予備は必要なため、実質的に8人程度の分隊(Einheits-Gruppe)で軽機1丁を運用することが普通になりました(Gudmundsson[1989])。

短機関銃


 ベルグマン短機関銃MP18は、1918年春季攻勢でようやく投入されましたが、ローアのコンセプトが明確になってから、それと整合的な武器が出てきた数少ない例で、そのせいでずいぶん遅くなったのではないかと思います。

歩兵砲とミーネンヴェルファー(MW)


 Gudmundsson[1989]によると、ローアは直接砲撃で突撃隊を支援する火器として、ロシアの76.2ミリ要塞砲が手頃だといいました。1917年1月、この要求に沿ったNahkampf-Batterie(近接戦闘砲兵中隊)が第201〜250の50個中隊作られ、同年5〜6月に第1〜第50Infanterie-Geschutz-Batterieに改称されました。両方編成されたと書いてある史料もありますが同じものだそうです。6門を持つ1個中隊が師団に一時的に配属され、大隊に1門ずつ、バラバラに歩兵を支援しました。ロシア製要塞砲は鋼の品質の問題があったのか、命数があまりなく、クルップの歩兵砲も使われました。

 IBB( Infantriebegleitbatterien)は旧式77mm野砲が師団砲兵から割愛されたもので、輓馬編成であり、末期には馬を減らされて「一時的に」師団砲兵から借用しないと前進できませんでした(Zabecki[1994])。1個中隊4門が歩兵連隊に割愛されました。

 MWは日本での「迫撃砲」の典型的なイメージである、底の撃針目がけて弾を落として発射するものとは違い、袋入り装薬で弾を飛ばし、駐退復座機を持っています。だから水平に近い角度で撃つこともできます。一部の歩兵連隊ではIBBの代わりに Flachbahn-Lafette (平射砲架)の76ミリMinenwerfer12門を持つ1個中隊が作られ、このために工兵連隊の第4中隊が解体されました(Schneider[2007])。

1918年、そしてユティエ戦術


 Samuels[1996]は「ユティエ戦術」という概念の成立について、興味深い指摘をしています。
A third explanation was developed by the French and taken up by the British and Americans. It was noted that the greatest advance had been made by Eighteenth Army under General Oskar von Hutier and that he had been brought to the Western Front after his skillful capture of Riga in September 1917. The new tactics employed by the German troops were therefore ascribed to his genius and dubbed 'Hitier Tactics'.(第8章冒頭近く)

 Kindle版なのでページ数はご容赦ください。thirdと言っているのは、イギリス軍が大損害と大きな後退を強いられた犯人捜しがいろいろ行われた3つ目ということです。1918年のカイザーシュラハト攻勢に参加した3個軍のうち、ユティエ将軍の第18軍が最も大きな進出を見せたので、その差はユティエ将軍のなんだかわからないが優秀な戦術のせいにしてしまえば連合軍首脳部の無能は咎められない……とまで言うと語弊がありますでしょうか。

 ユティエ将軍がユティエ戦術を持っているとすれば、そのユティエ戦術はその前のリガ戦で確立したに違いない……それはまあ歴史的認識というより「政治的に正しい事実」であるのかもしれません。念のため付け加えますが、Samuelsはイギリス軍について話をしているのであって、フランス軍が何を考えていたかはマイソフはノーアイデアです。

参照文献

  • 偕行社編纂部(編)[1924],『世界大戦ノ戦術的観察』(第1巻・第2巻・第3巻),偕行社(近代デジタルライブラリーで公開中)
  • ハーバー、ルッツ・F[2001],『魔性の煙霧-第一次世界大戦の毒ガス攻防戦史-』原書房、原著1986年
  • Adamczyk,Werner [1992],'''Feuer: An Artilleryman's Life on the Eastern Front''',Broadfoot Pub Co
  • Gudmundsson, Bruce I.[1989],Stormtroop Tactics: Innovation in the German Army, 1914-1918: Innovation in the German Army, 1914-18,Praeger
  • Lupfer,Timothy T.[1981]," The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine during the First World War", Leavenworth PapersNo.4,Combat Studies Institute(US Army)
  • Nash,David[2008],The German Army Handbook of 1918,Frontline Books
  • Robinson, Janet & Joe Robinson[2009],Handbook of Imperial Germany,AuthorHouse
  • Samuels, Dr Martin[1996],Command or Control?: Command, Training and Tactics in the British and German Armies, 1888-1918,Routledge
  • Schneider,Chris[2007],"The Leichte Minenwerfer",On the Wire(Great War Association),Spring 2007,7-9
  • Wynne,Captain G.C.[1940],If Germany Attacks: The Battle in Depth in the West,Faber & Faber(1976年にGreenwood Pressから再販されたものを参照した)
  • Zabecki, David T.[1994],Steel Wind:Colonel Georg Bruchmüller and the Birth of Modern Artillery,Praeger

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