マイソフの創作と資料とチラシの置き場です。


ミリタリ関係

ドイツの西北ラスカンのとなり〜アーヘン1944




ドイツの西南ラスカンのとなり〜ロレーヌ・メス1944


 メス(メッツ)を中核都市とするロレーヌ地方はドイツとフランスの角逐があった地域のひとつだが、独仏国境の北端に近く、すぐそこにオランダがあるアーヘンからみると200km南である。モントゴメリーとバットンの戦区を隣り合わせにするとろくなことがないとシシリーで学んだのか、アイゼンハワーはバットンにここを割り当てた。ここを抜けばドイツ中央部のフランクフルトは目の前である。

 その戦線を語ると言っても、アメリカが勝ってドイツが負けてバットンがだんだん東へ行った以上のことは書けないのだが、資料の制約もあり、アーヘンの本編よりは適当に気付いたことを書いていきたいと思う。

マントイフェル


 Lexikon der Wehrmachtによると、フォン・マントイフェル大将の父は(たぶんプロイセンの)近衛士官であった。マントイフェルという姓はクールラント、シュレジェンなどプロイセン王国東部やドイツ騎士団領に多いのだそうである。騎兵士官として出発したのだから、彼の家は何らかの理由で騎兵士官の個人装具をまかなえるほど裕福だったのであろう。

 戦間期からマントイフェルは騎兵部隊を離れ、オートバイ歩兵大隊長などを務めるようになる。少佐になったのが39才だから決してエリートではない。そして42才・中佐で第2次大戦を迎えるが、1940年まで戦車学校教員として過ごす羽目になる。ところが第7装甲師団の歩兵大隊長として呼び出されてから手腕を発揮し、危機迫るチュニジア戦線で声価をさらに高め、幸か不幸か過労で帰国している間にチュニジアは失われた。その後も東部戦線で激闘をつづけ、9月1日に戦車兵大将・第5装甲軍司令官として西部戦線にやってきた。

第5装甲軍


 第5装甲軍というナンバリングが最初に使われたのは北アフリカである。1942年12月のことで、ロンメルのアフリカ戦車軍が東から敗走してくる背後のチュニジアに立てられた軍だった。第10装甲師団や、降下猟兵部隊を寄せ集めたフォン・ブロイヒ師団(のちマントイフェル師団)が属していた。

 北アフリカのドイツ軍が全滅してから長いこと空番だったが、リティヒ作戦が始まる直前の1944年8月5日、ガイル大将の西方軍戦車集団が第5装甲軍に改称し、同時に司令官がエーベルバッハ大将に代わった。エーベルバッハはファレーズ・ポケットでアメリカ軍の捕虜になり(8月31日)、直ちに"ゼップ"ディートリッヒ大将が後任に充てられた。もっとも彼も逃げ延びたというだけであり、軍の実態はなかったはずである。

 それがマントイフェルの着任と並行して、急ピッチで再建されることになった。隷下には第47装甲軍団がこれも再建され、リュットヴィッツ大将が着任した。ちなみにリュットヴィッツはアルデンヌ攻勢のころもこの職にあり、バストーニュを死守するアメリカ軍が「Nuts!」の返答を返した相手は、包囲側の指揮官であったリュットヴィッツということになる。

 第47装甲軍団には第21装甲師団、第111装甲旅団、第112装甲旅団、第113装甲旅団が配属されてきた。しかし第21装甲師団はファレーズ・ポケットで第100戦車大隊のフランス系車両群を失い、残余ないし再建中の師団である。3つの装甲旅団はアーヘンの第105装甲旅団よりも番号が後で、従って旅団としての訓練がろくろくできないままだったと思われる。もっと多くの優良師団が攻勢に参加するはずだったが、それぞれの戦域で中核をなしている師団を引き抜くこともできず、結局上記の戦力で攻勢をかけたのがアラクールの戦いであった。

フォート・ドリアン(その1)


 メスはモーゼル川の東岸にある。メスを守る要塞として、川の西岸に1899-1905年に作られたのがFort Driantである。装備は旧式だが防御は堅く、戦火が近づくまでは地下軍需工場として使われていた。

 8月から、ヴェストファーレン=ラインラントの第6軍管区にあるFahnenjunkerschuleが学校を閉じてフォート・ドリアン周辺の防備にあたるよう命ぜられた。このFahnenjunkerschuleというのは、日本軍にぴったり同じ制度がないので訳しにくい。予備役士官学校と訳すのが良いだろうか。士官として勤務するが、戦争が終わったら職業軍人としては残れない。その予備役士官への志願者を訓練するのがこの学校である。あとでわかったことだが、この時期にはFahnenjunkerschuleは事実上士官学校そのものだった。本来は士官教育の総仕上げとしてKriegsschule(war school)があり、帝政ドイツでは士官学校出身者も一般ギムナジウムなどを出て士官候補生になった候補生もここで合流したものだが、教育の短縮が相次いで、事実上この学校だけで教育することになっていた。そして高等教育の卒業者が払底したことと、(旧来の学校教育を軽視する)党の影響力が国防軍に及んできたこともあって、前線で手柄を立てたというだけの理由で兵・下士官が送られてくることが増えていた。そしてこの学校はたまたま、歩兵教育に特化したFahnenjunkerschuleだった。

 多くは所属部隊から推薦を受けた下士官であり、通常の装備と補給を与えられれば戦闘能力は高かったに違いない。教員・生徒含めて1500人が、次々に逃げ延びてくる敗残兵を編合して4000人の部隊となり、20kmほどの戦線を受け持たされていた。

 連合軍が最初にモーゼル川を渡ったのは9月7日早朝、フォート・ドリアンやメスのすぐ南だった。フォート・ドリアンの攻略はメス攻略の前提条件となるが、それでさえ9月末から10月中旬のことであった(これらの作戦はドイツ軍の戦力を過小評価していて失敗し、フォート・ドリアンの完全攻略はじつに12月中旬までもつれ込む)。この時点ではマントイフェルによる反撃が(たぶん現場ではとても間に合わないとわかっていたろうが)9月10日に予定されていて、ヒトラーはまだまだ反撃する気満々である。

 だからフォート・ドリアンの詳しい話はもう少し後で書こうと思う。
 

装甲旅団の問題点


 編成としての装甲旅団にはいろいろな問題点がある。砲兵がないことと、小部隊が(もっと言えば士官と士官が)協力する訓練を積まないまま実戦に出たことは明らかに問題である。それ以外にもいくつか問題がある。

 ひとつは偵察能力の不足である。装甲兵員輸送車が攻撃を受けた場合、中の歩兵はすぐ側壁を乗り越えて周囲に散る。手りゅう弾が放り込まれると危険だし、車両は何かと目標にされるからだ。つまり夜間に会敵などしたら朝まで再集結できないのである。だからわざわざSd.Kfz.250/9のような、曲がりなりにも天井のある車両が偵察に使われるのだが、それを欠いている。

 もうひとつは中長距離無線機の欠如である。戦車の無線機は数キロしか届かない。隊長車には短距離と中距離の無線機があって、ふたつのヘッドホンを手で耳に当てたりしながら隊長が上級司令部との仲立ちをする。どうも指揮戦車用無線機がないか、足りなかったようである。むしろ残り戦車数両の戦闘団に落ち込んでしまうとこの問題は見えなくなるのだが、完全状態で進撃し広範囲に散開したときは深刻な問題になる。

 第106装甲旅団を襲った大敗は、以上のような問題が背景にあった。

第106装甲旅団


 モーゼル川をアメリカ軍が渡ったので、ドイツ第1軍のクノーベルスドルフ大将はその側面を突くために、G軍集団予備だった第106装甲旅団を回してくれるよう9月7日に求めた。すでにマントイフェルの反撃に加わる計画だったが、総統は48時間以内に旅団を解放することを条件に、同日夕方にそれを裁可した。

 急いで前進した旅団だったが、特に夜間には偵察もないまま不慣れなフランスを横切ることを強いられた。そして8日午前2時から3時にかけ、珍事が起きた。不規則に走る道路の交差点付近でテントを広げていたアメリカ第90歩兵師団司令部に、2隊に分かれた旅団の隊列が突っ込んでしまったのである。モン・ボンヴィエという村の近くだった。アメリカ軍も驚いたがドイツ軍も驚いた。互いに部隊はバラバラになり、再び組織的な活動ができるまでの時間を、通信機材の充実ぶりが分けた。旅団は捕虜だけで764名を出し、47両の戦車・自走砲のうち9両だけが作戦可能という惨状に陥った。

ナンシー


 フォート・ドリアンのすぐ南にいったん確保した橋頭堡は、ドイツ軍の砲撃にさらされる位置にあって渡河地点として安定しなかった。もっと南のナンシーには強固な陣地がなく、7月に歩兵と砲兵だけで編成されたばかりの第553国民擲弾兵師団が守っていた。燃料と弾薬をモントゴメリーに取られ始めていたバットンは、いったんメス付近での突破を捨ててナンシーの南北から第7戦車師団の半分ずつを渡河させ、包囲を図った。9月11日のことである。第3・第15装甲擲弾兵師団が反撃した。包囲が解けないとみて、G軍集団のブラスコウィッツ元帥は13日、ナンシーの部隊に脱出を命じた。

幽霊装甲軍


 9月11日、マントイフェルはG軍集団司令部にやってきた。司令部に備えるべき電話設備が足りないので、間借りするためである。

 第21装甲師団は戦車がない状態で休養再編中だったし、第106装甲旅団が壊滅し、危機のアーヘンに第107・第108装甲旅団が転用されると(結局どちらもアーネム方面に再転用される)、マントイフェルの指揮下に来るべき部隊は3つの装甲旅団(第111〜113)だけということになる。そしてヒトラーが予定していた攻勢発起地点はもうドイツのものではなかった。

第112装甲旅団の全滅


 ヒトラーの最初の計画では、マントイフェルはフランス=スイス国境から北西に攻め上がり、バットンの背後を突くことになっていた。地図の上では、これは有望な戦策である。8月にはまだ南フランスからのアメリカ軍はノルマンディーからの友軍と手をつないでおらず、バットンは右側面(南側面)をがら空きにして前進を急いでいたからである。もちろん局所的にはということであって、ドイツにはもうそんな余裕がなかったことはすでに述べたとおりである。

 バットンは第15軍団を新しく受け取ったので、最も南にこれを配置した。その主力は自由フランス第2戦車師団である。G軍集団は間借り人の第5装甲軍に対し、防衛線強化のために戦力を差し出すようせっついた。そして差し出されたのが、第112装甲旅団である。本来の戦力に加え、第29装甲連隊第I大隊を配属されていた。この大隊は本来、レニングラードからクールラント(クアラント)に退却中の第12装甲師団に属していたが、この時期には独立大隊のように運用されていた。だから旅団でありながら、第112装甲旅団はじつに90両の戦車・自走砲を持っていた。

 これがナンシーから南に50kmほどの小村ドンペールであっさりと全滅する。それも自由フランス第2戦車師団の先遣戦闘団にあっさりと負けてしまうのである。

 旅団は例によって部隊を2分して進んでいた。そして半分がドンペールに野営したが、ここは浅い谷の底ともいうべき地形だった。北アフリカ以来の老巧部隊である自由フランス第2戦車師団は、夜のうちにアメリカ空軍と支援の話をつけただけでなく、周囲の高い地形で見晴らしのいいところに観測所を構えてしまった。そして朝になると、間接砲撃と空襲がドイツ軍を見舞ったのである。残り半分もあわてて救援に出てきたが、フランスの住民が動静を知らせて来るので待ちかまえられ、単なる逐次投入になってしまった。カタログスペックでは劣るM10戦車駆逐車がいい場所を取って側面砲撃を加え、多数のパンターを含むドイツ戦車隊を壊滅させたのである。戦いが終わったとき、旅団の行動可能な戦車・自走砲は21両になっていた。

 もはや当初の攻撃作戦は取れないが、G軍集団のブラスコウィッツ上級大将も攻勢全面中止を上申できない事情があった。彼は1939年10月に上級大将に進んだが、これが彼の第2次大戦における最初で最後の昇進だった。翌年にブラスコウィッツはSS(おそらくいわゆるアインザッツトルッペン)のポーランドにおける残虐行為を批判し、ヒムラーはもちろんヒトラーの忌避を受け、フランス駐留の第1軍司令官に左遷されてしまう。その上級部隊としてG軍集団が創設されたので、ようやく軍集団司令官になったのであった。とにかく上の覚えがめでたくない。

注 ケッセルリンクの回想によると、ヒトラーがポーランドで「前線兵士の食事」を取らせろと命じたところ、ブラスコウィッツがテーブルに花を置いたり気を遣いすぎたので、ヒトラーが怒って帰ってしまった事件があったという。政治的な問題「だけ」の不興ではないようだ。

 こうしてブラスコウィッツが提案し裁可を受けたのが、アラクールの戦いとして知られる攻勢であった。

アラクールの戦い


 アラクールというのはここである。メスやナンシーからたっぷり20kmは東にある。すぐ南をマルヌ=ライン運河が東西に通っている。だからドイツ軍の攻勢には運河を境に2つの部隊が参加していた。北からは第113装甲旅団と第15装甲擲弾兵師団。南からは第111装甲旅団と第112装甲旅団の残余、そして結局ほとんど戦車を受け取れなかった第21装甲師団。最終的な目標はナンシーとメスの中間にあるアメリカ橋頭堡の破壊である。マントイフェルの弱弱しい抗議は無視され、攻勢発起は9月18日と命じられた。前日にMG作戦が始まっても命令の変更はなかった。

 南の部隊は重要道路の分岐点であるリュネヴィルの確保にかかった。小規模な歩兵や偵察部隊が小競り合いを繰り返していて、アメリカ偵察部隊との遭遇戦が起こった。勇敢にもパンター戦車に立ち向かったM8自走榴弾砲は6両が次々に破壊されたが、歩兵が勇戦して午前11時までドイツ軍を足止めした。その間にアメリカ第4戦車師団と第6戦車師団が体制を整えて出動し、ドイツ軍は街を確保することなく北へ合流を目指さざるを得なくなった。そして南の部隊から第111装甲旅団だけを北に合流させ、ふたつの装甲旅団はナンシーで孤立するドイツ軍の救援に向かい、残りの部隊は高まりつつあるアメリカ軍の圧力に対して守勢を取ることになった。アラクールはナンシーへの途上にある街であって、結果的に戦いはアラクールの東で始まり、東で終わって、街そのものは戦場にならなかった。

 前哨となる偵察部隊の戦闘力に大きな差がついていたので、マントイフェルはアラクール方面の敵情がわからなかった。逆にリュネヴィルの戦いは小競り合いに過ぎず、ドイツが攻勢をかけて来ると思わないまま、バットンは第4・第6戦車師団に東への前進命令を出していた。

 翌19日は朝から濃霧だった。いくつかの小部隊が前進するドイツ戦車を視認し、見つからずに無線機のあるところまで脱出して急報できた。そしてここはまだフランスであり、映画のようなイベントがドイツ軍を襲った。北へ急行する第111装甲旅団が道を尋ねたフランスの農夫は間違った道を教え、19日の戦いに合流できなくなったのである。それでもドイツ軍が戦車の数では優勢だったが、互いの連絡が悪く、アメリカ戦車隊のほうが正確な地形情報を持っていた。アメリカのM4中戦車とM18戦車駆逐車にも大きな損害が出たが、それを上回る損害を出したのはドイツ軍だった。

 20日には立たされ坊主のように、第111装甲旅団が単独での攻勢続行を命じられ、数的には劣勢ではないアメリカ戦車の前に壊滅した。ブラスコウィッツは21日に解任されバルク大将に交替した。攻撃が再興された22日、第113装甲旅団長はP-47の機銃掃射で戦死し、第111装甲旅団長はマントイフェルから電話で叱責を受けた後、不用意に敵に身をさらして機関銃射撃を受け戦死した。さすがのヒトラーも、もうアーネムとアーヘンを差し置いてロレーヌに増援する気にはなれなかった。

 もっともバットンも幸せにはなれなかった。23日に第6戦車師団を取り上げられ、補給をさらに削られて守勢を取らざるを得なくなったのである。

 マントイフェルは五月雨式に増援されてくる戦車も加えて、守勢に入ったアメリカ軍にアラクール東で攻撃を続けたが、アメリカ軍は砲兵と空軍の優位でドイツ軍の企図をくじき、戦線は膠着した。

フォート・ドリアン(その2)


 あぶないあぶない。「フォート・ドリアン(その1)」で1905年にフォート・ドリアンが完成したと書いておいて、それを完成させたのは誰なのか確認しなかった。もちろん、ドイツである。1905年にはロレーヌはドイツ領ロートリンゲンなのだから。もちろんフランス軍のドリアン将軍の名前が冠せられたのはずっと後で、完成当時はFeste Kronprinzという名前だった。

 メスは司馬遼太郎氏だったら衢地(くち)と評したであろう土地柄である。もともと衢地というのは「孫子」に出てくる表現で、「諸侯之地三属先至而得天下之衆者為衢地」とある。諸侯3家の領地が接し、そこを確保すれば全国の人々との交流の道が開けるのが衢地であり、転じて交通の要衝をいう。フランスがドイツを攻めるにも、ドイツがフランスを攻めるにも、メスを通らねばならない。だからドイツはロートリンゲンを確保すると、メスを囲む防衛ラインを構築し、その中には当然西からのモーゼル川渡河を阻止する位置の陣地地帯もあったのである。

 フランスは第一次大戦後、マジノ線の後方地帯としてメス周辺も要塞地帯に加え、ドイツが残した陣地もできる限り活用した。そして本来の持ち主であったドイツ軍が戻ってきて、要塞に本来の機能を果たさせようというのであった。

 だがホッジスがアーヘンを迂回できないように、バットンもメスを確保しなければドイツへの兵站ルートを確保できない。そしてブラッドレーの停止命令にもかかわらず歩兵と砲兵を活発に動かしたところは、バットンもホッジスも全く同じだった。

10月の平穏


 第5歩兵師団は9月27日から10月12日にかけてフォート・ドリアンを正面から攻略しようとしたが、守備兵が極端に少ないとする捕虜の証言を信じ、最も強力な堡塁を1個大隊で目指してしまった初動のミスが最後までたたり、大きな戦果を挙げることができなかった。

 アーヘンでそうであったと同様に、アメリカ軍兵士たちは新兵であろうとなかろうと、要塞戦の訓練どころか、がっちり膠着した戦線を突破する浸透戦術の訓練も受けていなかった。だから補給の不足で大攻勢が取れない10月のアメリカ軍は、偵察作戦を繰り返す中でそうした訓練を計画的に織り込んだ。

 ドイツ軍は10月の平穏を何よりもフォート・ドリアンの強化に使った。Fahnenjunkerschuleだけでなくいくつかの学校から兵員がひねり出され、最終的に第462歩兵師団(すぐ第462国民擲弾兵師団と変更、さらにメス要塞師団に)に整理された。G軍集団はもちろんメスの放棄を提案したのだが、ヒトラーが認めるはずはなかった。実際、フランス軍の用意した砲と弾薬が十分に破壊されないままドイツ軍の手に渡っており、残しておくには惜しいリソースではあった。

 マントイフェルと第5装甲軍司令部は戦線を去り、ぼろぼろになったままのSS第17装甲擲弾兵師団ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンが休養を取り消され、戦線の一部を担った。この師団はノルトヴィント作戦までこの戦線に関わり続けることになる。

 第5装甲軍が去ったので、この戦線全体が第1軍の担当となった。10月下旬になって、第11装甲師団が軍予備に戻ってきた。この師団はアラクールの戦いとタイミングを合わせて少し離れたところで攻撃に出ていたのだが奏功せず、この時期になってようやく防衛ラインから抽出する余裕ができたのである。10月1日には25両しかなかった戦車が、11月1日には48両(うち32両がパンター)まで回復していた。ただ突撃砲はなく、おそらくマルダーと思われる自走対戦車砲が5両あるだけだった。アラクールで共に戦った第15装甲擲弾兵師団は、アルデンヌ攻勢のために引き上げられた。

Madison作戦


 第3軍の11月攻勢はMadisonというコードネームを与えられた。60年後、英語版「カードキャプターさくら」で知世の名前がMadisonに変えられることをアメリカ軍は知らなかったが、知っていてもどうすることもできなかっただろう。

 Madison作戦の要点は、第90歩兵師団が北から、第5歩兵師団が南からフォート・ドリアンを迂回してメスの市街を先に攻略するというものだった。教科書通りの挟み撃ちであるだけに、偽無線や部隊移動で主攻勢がどれなのか悟らせない努力が払われた。G軍集団はおおむねこれを正しく予測していたが、南が主力だと考えて北への備えは薄かった。もっとも、G軍集団全体がひどく不如意であるので、認識の問題を強調するのはミスリードであるかもしれない。

 いっぽう本音ではメス防衛をあきらめているG軍集団のバルク大将は、ドイツのザールブリュッケンに至る縦深陣地の構築に努めていた。OKWは第1軍そのものがメスで包囲を受けても持ちこたえることを考えていたが、メスを迂回する南北の対独侵攻ルートもあることをG軍集団から説得され、結果的にG軍集団の思惑を通すことになった。

 11月8日、前日来の悪天候で泥だらけになりながら攻勢は発起された。アメリカ第4・第6機甲師団は駆け付けたドイツ第11装甲師団と南の侵攻路で撃ち合い、アメリカ軍は全体としてゆっくりと前進を続けた。

 11月17日には、OKWはフォート・ドリアンの守備隊を置き去りにして、残りの部隊を東進させることを渋々認めた。ヒトラーは名指しで、SS第17装甲擲弾兵師団の部隊はメス要塞に残さず撤退させるよう要求した。アメリカ軍はドイツ本土侵攻作戦のため砲弾を温存し、孤立した堡塁群はひとつまたひとつと食糧不足によって降伏した。12月13日までこの緩慢な過程は続いた。このときには、第1軍はドイツ国境までの撤退を終えていた。

 ここでラストオブカンプフグルッペIIIが10月26日発売予定であることをお伝えし、この項を終える。(10月21日了)


参照文献


  • Kaufman, J.E. & E.W.Kaufmann[2006],Fortress France: The Maginot Line and French Defenses in WWII, Stackpole Press
  • Nevenkin, Kamen[2008]Fire Brigades: The Panzer Divisions 1943-1945,J.J.Fedorowicz
  • Zaloga, Steven J.[2000],Lorraine 1944: Patton vs. Manteuffel, Osprey
  • Zaloga, Steven J.[2012],'''Metz 1944: Patton's fortified nemesis''', Osprey
  • Fortifications of Metz(Wikipedia)
  • Metz 1944by COL Scott Pritchett (1944年12月に授与が決定されたメス従軍袖章の解説文)

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