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ミリタリ関係



ハインツ・シュナウファーとその時代



以下、頁数だけを示したときはHinchliffe P.[1999],Schnaufer:Ace of Diamondsからの参照頁である。

部隊配属まで


 ハインツ・シュナウファーレントより若く、大戦前と大戦がはじまってからの訓練の違いなどを中心に見て行きたいと思う。

 シュナウファーはカルフの生まれである。ドイツの南西端に当たるこの地域はシュヴァーベンと呼ばれ、第2次大戦期にはエルヴィン・ロンメルとエルンスト・ハインケルを輩出した。シュナウファーの家庭はこの街の旧家であり、何度か商売替えをしたが、ハインツの父アルフレッドが第一次大戦が終わってからワイン商を始め、成功していた。近くを通るナゴルト川は最終的にはライン川に合流するが、カルフは川の水運と陸路の輸送を積み替える交通の要衝であって、ワイン産地ではないがワイン商人の仕事はちゃんとあったのである。

 小学生時代のシュナウファーは勉強もスポーツもできて、ピアノやアコーディオンも得意だった。1933年にはレントも指導員を務めたユングフォルクに参加し、そして1938年、16才のハインツはバックナングにあったナポラのひとつに入学した。これはNSDAP式の教育をする国立学校で、制服を着用し規則のやかましい生活を送ったが、卒業後の進路がこれと決まっているわけではなかった。

 ハインツは第二次大戦がはじまると空軍に志願し、1939年11月に士官候補生としてFliegerausbildungsregiment 42(航空訓練連隊)に配属された。これは生徒隊である第I大隊と飛行学校を組み合わせたもので、同様のものが多数あった。シュナウファーの実戦部隊配属は2年後の1941年11月(または10月末)であって、大戦前に課程を終えたレントと同じだから、表面上の課程短縮はないように見えるが、よく見ると観測手などの役割を学ぶ課程がこの2年に含まれているし、少尉任官が1年半後の1941年4月なので、実質的な短縮がある。

 レントは1936年4月に基礎訓練を始め、A/Bライセンスを1937年10月に取得した。およそ18ヶ月である。シュナウファーは1939年11月1日に訓練を始め、1940年8月20日にA/Bライセンスを得ているから、10ヶ月足らずである。レントは入隊から23ヶ月後に少尉となったが、シュナウファーは1941年4月1日だったから17ヶ月後である。A/Bライセンスを得た後、多発機訓練、計器飛行訓練などを専門にする飛行学校を経て、Wunstorfにある駆逐機学校にやってきたとHinchliffeは記している(p.28)。II./Zerstoererschule 2がWunstorfに移駐したのが1941年7月で、シュナウファーの無線手となるルンペルハルト一等兵がWunstorfに配属されてきたのがやはり1941年7月だから、この学校で間違いないであろう。

 ルンペルハルトのここまでの軍歴は少し変わっているから詳しく書いておこう(p.29)。彼はシュナウファーよりふたつ年上である。もう少しでアビトゥアー(大学入学資格)が取れるという1938年末、ルンペルハルトは空軍に志願した。空軍はアビトゥアーが取れてから召集するつもりで、彼の志願を保留した。ところが彼がアビトゥアーを取った直後、空軍より先にRADがルンペルハルトを召集した。1940年2月になって空軍が出しぬかれたことに気付き、あらためてRADの建設部隊にいた彼を招集した。ルンペルハルトは対空砲部隊を希望していたのだが、1年半の間に対空砲部隊の定員はいっぱいになっていたので、ルンペルハルトは通信科に割り当てられた。フランス戦の頃まで、空軍の対空砲部隊は後方の都市防空にほとんど割り当てられていたので、ルンペルハルトは最前線に出たくなかったのかもしれない。幸い無線士になったことで、空軍地上勤務師団への転属だけは避けられたのだが。

 ふたりともバツイチであった。シュナウファーの最初の無線手は空中機動に耐えられずリタイアしたし、ルンペルハルトの相棒はパイロットとして不適格とされた。シュナウファーはルンペルハルトと一緒に念入りにエアロバティクスを試した後、一緒にやろうと決めた。

 1941年7月は、レントが月間7機撃墜を果たした月である。駆逐機学校にも、戦果の上がり始めた夜間戦闘機部隊から転属勧誘に人が来るようになった。ふたりは転属を志願し、Nachtjagdschule 1(第1夜間戦闘機学校)での教育を経て、1941年11月にII./NJG1に配属になった。飛行中隊は5./NJG1だったので、レントが直接の上司と言うわけではない。

5./NJG1、そしてStab/NJG1


 シュナウファーが着任した時、5./NJG1はレントの4./NJG1が実績を上げたヒンメルベットによる「暗い夜間戦闘」の方式を取っていた。駐屯地はフランス語(ベルギーで言うとワロン語)でいうとサン=トロン。グーグル・マップはフラマン語の発音を取ってシントトルイデンと表記している。ベルギーの東部にあり、ルール地方への爆撃機をさえぎるのにいい位置だった。

 レントたちが十分にテストしたヒンメルベットシステムを最初から使わせてもらえるのは大きな利点だったが、新品少尉のシュナウファーにはレントが経験しなかった苛立ちの種があった。「ヘルムート・レントとその時代」でも解説したように、「暗い夜間戦闘」はひとつのエリアに1機のドイツ戦闘機だけを出撃させ、1機のイギリス爆撃機まで誘導するアリジゴクのようなシステムである。敵機がレーダーに捕らえられたとき、熟練した上級士官から順に出動命令が出ることになる。シュナウファーの出番はなかなか回って来なかった(p.40)。配属が晩秋で、イギリス軍の出撃そのものも不活発だった。Lexikon der WehrmachtはII./NJG1の全部がシュナウファー配属以前からサン=トロンにいたように書いているが、Hinchliffは1942年1月15日までは5./NJG1はハンブルク近郊のシュターデにいたと書いている(p.41)。また、1942年2月にチャンネルダッシュを護衛する昼間任務についたのち、中隊はボンの近くに移ったと書いている。おそらくLexikon der Wehrmachtは中隊単位の細かい移動を追い切れていない。

 1942年4月、まだ撃墜ゼロのシュナウファーは飛行隊の技術士官に任じられて、中隊を離れサン=トロンの飛行隊本部所属になった。機体の整備状況、装備の更新など技術面の責任者である。出撃の機会がないわけではなかったが、いずれにせよ上記の事情でヒヨッコは有望なタイミングと哨戒空域を実績のある先輩に譲らねばならなかった。

 シュナウファーに機会を与えたのは、ハリスの登場だった。爆撃隊の規模を大きくしたことでヒンメルベッド・システムがきしみ、ヒヨッコも迎撃に駆り出されるようになったのである。初撃墜は6月1日から2日にかけての夜で、あまりにも年月がかかったので、1機も落とさないうちにルンペルハルトは伍長に進級してしまっていた。エッセンを狙った1000機爆撃だった。

 この撃墜はまだヒンメルベット・システムによるもので、管制官が「(レーダーの)目標に重なった」と伝えてきてから、シュナウファーたちが機影を見つけるまで数分かかった。ハリファックス爆撃機の後ろ下方から攻撃し、首尾よく最初の攻撃で仕留めた。

 管制官はふたつ目の目標をあてがってきたが、すぐに追跡は放棄された。別の空域からその目標を追ってきた先約者がいたからだった。ワルター・エーレ大尉(のち少佐、戦死までに39機撃墜、騎士十字章)だったと思われる。3つ目の目標は高速だった。なかなか命中弾が出ないまま、3度目の射撃に反撃され、燃料が漏れ、方向舵も利かなくなった。エルロンと左右のエンジン出力調整だけで旋回し、シュナウファーはサン=トロンまで帰り着いたが、シュナウファーはふくらはぎに被弾しており、ルンペルハルトは無事だった。

 シュナウファーは6月25日にはもう退院し、その日のうちに出動した。当分飛べないだろうと思ったルンペルハルトは休暇を取ってしまっていたので、別の無線手を都合しての飛行だった。

 7月31日、シュナウファーは1時間で3機を撃墜した。ヒンメルベット・システムによるもので、レーダー管制官の腕にも大きく依存した。その直後の8月5日、シュナウファーたちは機上レーダー「リヒテンシュタイン」を載せて初めて飛んだ。8月25日、初めてシュナウファーは機上レーダーを使って撃墜戦果をあげた。これで通算5機となり、エースの仲間入りをした。スコアは劇的には伸びず、年末時点で7機だった。このころのコールサインは'Adler 52'だった(p.62)。52はII./NJG1でのローカルな士官リスト番号である。

 1942年末のシュナウファーは、まだ「主人公の誠実な友人」といったところで、主役どころか名前を歴史に刻めるかも怪しいものだった。

オランダ、そしてドイツへ


 「ヘルムート・レントとその時代」で触れたように、1943年になるとイギリス爆撃隊の規模が大きくなって、戦闘機隊の戦果拡大が地上の被害縮小につながらず、パイロットからも上層部からもヒンメルベットにこだわるカムフーバーへの風当たりが強くなっていった。そして1943年9月、カムフーバーは第XII航空軍団長の職を解かれて名目だけの夜間戦闘機総監、そして11月にノルウェーの第5航空艦隊司令官に補され、棚上げされた。逆に言えば、1943年夏の時点では、ヒンメルベットからの情報と機上レーダーでの索敵は併用されていた。

 シュナウファーはと言うと、1943年1月から4月までまたまた坊主が続いた。5月に2機を撃墜した後、ルンペルハルトは士官課程に推薦され、9月までほとんどシュナウファーの無線士席を他人に明け渡す羽目になった。9月18日に帰ってくると……ルンペルハルトは非常に困ったと思うが、シュナウファーの撃墜数は25に伸びていた。

 レントとは対照的に、最初の25機の撃墜の中で、1晩で3機を撃墜したのが3回、2機が3回ある。その日の集中状態にムラがある人なのかもしれない。

 先任順位が上がり、有望な空域に早く上げてもらえるようになったことが影響しているかもしれない。しかし7月25日夜からツァーメ・ザウ戦法による広域的な出撃が始まったことは、固め撃ちの得意なシュナウファーには有利であったろう(p.89)。

 1943年7月1日に中尉になったが、これは戦時としては遅めであるし、シュナウファーの少なくはないスコアを考えても遅い。理由は不明である。ちなみにルンペルハルトの不在期間中にシュナウファー少尉と組んだ無線士には少尉もいたし、中尉になった後は中尉の無線士と組むことすらあった。

 1943年7月、もうひとつ重要な決断があった。ドイツ国境に程近いサン=トロンにいるより、もっとイギリスに近いところから出撃したほうが早く警報に反応でき、夜を長く使える。シュナウファーはオランダ北西部のレーワルデン基地に目を付けた。条件にぴったりだし、ちょうど夜間戦闘飛行隊がいる。IV/NJG1である。その隊長がサン=トロンを訪問したとき、シュナウファーは転属希望を申し出たものらしい。レント少佐である。

 8月になって、撃墜されイギリス軍捕虜となった12./NJG1飛行中隊長の後任として、シュナウファーは転属した。幸か不幸かその直前、レントはNJG3司令に栄転したところで、後任はヤブス大尉(のち少佐、柏葉付騎士十字章)である。バトル・オブ・ブリテンでもスピットファイアだけで8機落とし、1940年10月に騎士十字章をもらった駆逐機エースである。昼間戦闘ではエースだが、彼の生涯夜間撃墜数は28機だとWikipediaにある。ということは転属時点で夜間ばかり20機撃墜のシュナウファーに、夜間の撃墜数では負けていたのではないか。そんなこともあってか、当初は険悪な場面もあったらしい。

 せっかく転属したレーワルデンだったが、ツァーメ・ザウの採用と爆撃目標のドイツ中心部への移動で、優位が失われてしまった。イギリス爆撃機編隊がコースと推定目標をさらした後、本土の目標近くで待ち受ける方が都合が良いのである。ドイツとオランダの国境に近い北西ドイツのクヴァーケンブリュックが新しい基地だった。ルンペルハルトが戻ってきたのもここだった。まだ士官任官前で、空曹になっただけだった。

 このころ、シュナウファーも僚機にならって、3人目のクルーを迎えた。ドリッターマン(第3の男)と呼ばれる3人目の役目は、爆撃機とレーダーにかかりきりになるふたりの代わりに、近づいて来るイギリスのボーファイターやモスキートを見つけることだった。レーダーがあっても最終的には目で見つける必要があったから、ドリッターマンが当の爆撃機を見つけることもよくあった。ゲンスター伍長はベッカー中尉のドリッターマンを務めた男で、目の良さでは定評があった。メカの調子を読み取ることにも長けていた。

そしてサン=トロンへ


 斜め銃の先駆となる上向き機銃架は第1次大戦中に登場し、戦間期にもさまざまなバリエーションが試された。ドイツの第2次大戦での初撃墜は1943年5月(日本語版Wikipediaには6月とあるが英語版やHinchliffeを採る)だった。ルンペルハルトが戻ってきた1943年10月には、シュナウファーの機体にすでに装着済みだった。

 嫌うパイロットもいたが、シュナウファーはこれを好む側だった。敵機の真下についてからじりじり高度を上げ、右主翼の真下30メートルほどまで肉薄した。この位置は爆撃機のクルーにとって死角だった。そして射撃は最小限の弾丸で、20発とかからなかった。あとは応射と機体の破片を避けて一目散に逃げるのだ。前方機銃で攻撃することもあったが。

 シュナウファーは頭が良く、適切な例をいつも思いつく、熱心なリーダーだった。良い意味で個人主義者であり、同僚や部下に自分の結論を押しつけることをしなかった。

 1943年12月、シュナウファーたちはクヴァーケンブリュックから、もとのレーワルデンに戻った。シュナウファーのスコアは36まで伸びていた。航続距離ぎりぎりのドイツ中央部をハリスが狙うようになり、そうなると直線に近いコースを取らざるを得なくなって、目標を見極めることの利点が薄れたので、またドイツ夜間戦闘機が水際重点にシフトしたのである。

 12月16日のベルリン空襲で、シュナウファーは4機のランカスターを落とし、スコアを40として、12月31日付で騎士十字章を受章した。Hinchliffeが指摘するように、スコアが40になるまで(すべて西部戦線の多発機、多くが4発重爆であるのに)騎士十字章をもらえないのは最も不運に属する。中尉昇進が不自然に遅れたことも合わせると、なにか空軍上層部で彼を忌避する理由があったのかもしれないが、今となってはよくわからない。

 3月1日、飛行隊長のヤプスがNJG1司令に栄転し、まだ中尉だったシュナウファーがその後任としてIV./NJG1の飛行隊長に補された。出世が遅れているといっても、まだ22才で複座戦闘機30機の親玉となったのである。そして部隊はサン=トロンに戻ってきた。5月1日、シュナウファーは大尉になって遅れを取り戻した。シュナウファーに個人的な栄達への興味はなかったと彼を知る者たちの証言は一致している。ヤブスはシュナウファーを端的にこう評している(p.153)。

He was no Wittgenstein.

 プリンツ・ハインリッヒ・ツゥ・ザイン=ウィトゲンシュタイン少佐ペーター・ウィトゲンシュタイン大公の系譜に連なる貴族である。といってももともとこの家は地方領主で伯爵を名乗っていた。ペーター・ウィトゲンシュタイン大公は帝政ロシア軍の将軍としてナポレオンやトルコと戦って重きをなした人物で、大公(Furst)位は引退後にプロイセン国王から贈られたものである。

 ハインリッヒは1943年12月からII./NJG2の飛行隊長、1944年1月からNJG2の司令となったが、ぎりぎりまで司令室の戦況地図で爆撃隊の進路についての情報を集め、滞空中の部下たちに「ウィトゲンシュタインだ。道を開けろ(Hier Wittgenstein, geh Weg!)」と打電し、順番を抜かして先に誘導を受ける男だった。

栄光、そして退場


「サン=トロンの幽霊」というあだ名がいつ頃から広まったか、Hinchliffeは記していない。冷静に考えれば、RAF Bomber Command(Wikipedia)によるとイギリス空軍は都市爆撃で8325機の損害を出しており 、そのうちたった121機しか落としていないシュナウファーを特に恐れる理由はない。しかし1943年末に42だったシュナウファーのスコアは6月末には84だった。あのウィトゲンシュタインは、「ヘルムート・レントとその時代」に記したように、すでに2月に劇的な戦死を遂げていた。この84機目のスコアは、ウィトゲンシュタインを抜いてシュナウファーが夜間戦闘機隊第2位のエースとなるもので、柏葉付騎士十字章が授与された。

 7月28日、シュチュットガルト爆撃を迎撃したシュナウファーは「マスター・ポマー」を撃墜する偉功を立てた。マスター・ポマーは目標上空を旋回しながら後続機を誘導する役目の爆撃機で、これが撃墜されると爆撃精度がガタ落ちになる。

 この功が大きく響いたか、7月30日に柏葉剣付騎士十字章受賞の通知が来た。ヒトラーとは左手で握手しなければならなかった。ヒトラーは先月の20日に右手を傷めて、包帯が取れなかったからである。8月8日にはランペルハルト少尉とゲンスター一等空曹も騎士十字章をもらった。しかし9月に入ると、部隊はドイツ国内のドルトムントに退却しなければならなかった。

 レントが事故死を遂げた直後、シュナウファーは100機を撃墜して、10月10日にダイヤモンド柏葉剣付騎士十字章を受けた。続く10月26日には、NJG4司令に任ぜられた。ヤプス少佐とはすっかり仲良くなっていたが、それはそれ、これはこれ。経験あるパイロットをNJG1から引き抜くことをヤプスがきっぱり拒否したので、シュナウファーは自分のクルーだけを連れての単機赴任となった。司令部はマインツにあったが、赴任して間もなくギュータースローに移った。このころのコールサインは'Adler 133'だった(p.221)。

 12月5日、シュナウファーの弟がNJG4の無線士として赴任した。彼の乗ったJu88はシュナウファーのBf110に続いて離陸した直後を(おそらく)モスキートに狙われ、撃墜された。それでもシュナウファーはそのまま出撃し、着陸したフランクフルトで弟の行方不明を電話で確認するとがっくり落ち込んだ。「母さんになんと言おう……」というつぶやきをランペルハルトは聞いた。

 じつは弟は脱出して無事だったと後でわかった。「初飛行で撃墜され脱出して助かった男を私は他に知らない」とランペルハルトは書いているが、概ねこうした「不名誉で練成不足な」理由をこじつけたのであろう。シュナウファーは弟の飛行を二度と認めなかった(pp.224-225)。

 このころになると飛行場空襲、爆撃機数のさらなる増加、燃料不足などあらゆる物量的側面がバランスを崩し、夜間戦闘機隊の戦果は減少していた。早期警戒網が崩れ、イギリス機の接近を知ってから空に上がってはもう遅く、早くから集結させると逆にそれを連合軍に探知されコースを変えられるという事情もあった。シュナウファーのスコアも停滞したが、1945年2月20日深夜と21日夜の2晩に渡り、シュナウファーは24時間以内に9機撃墜という夜間戦闘機の世界記録を打ち立てた。だが陸の劣勢はいかんともしがたく、3月6日に撃墜したランカスターが最後のスコアとなった。ギュータースローを追われてからも4月11日までは出撃していたが、もう戦果を上げられる状況ではなかった。ドイツ降伏の日まで、NJG4は戦い続けた。

 戦後については、Wekipediaが短く記している通りである。

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