マイソフの創作と資料とチラシの置き場です。

米英軍の補給






陸軍補給軍(Army Service Forces)


 マーシャル陸軍参謀総長とスチムソン陸軍長官がそれぞれ率いる組織は、日本の陸軍省と陸軍参謀本部がそうであったように、補給に関して重複があり協力関係に齟齬があった(U.S.War Dept. General Staff[1947]、p.23)。真珠湾攻撃後の1942年2月、陸軍省の指揮下に創設された陸軍補給軍(Army Service Forces)が本国での(航空器材を除く)陸軍物資調達を一手に管轄することになり、この重複は基本的に整理された。Wikipediaの該当項目によると、このようになった主な理由は、平時に積み上げられてきた制度をそのままにして戦争に入ると、陸軍参謀本部に直属する組織が少なくとも61出来てしまうからだった。

 ASFは物資調達に関しては陸軍次官の指揮に服し、それ以外の点では陸軍参謀本部の指揮に服した(Huston[2004]、pp.414-415)。


 Somervell少将は工兵畑の人間で、ニューディール政策の一翼を担って建設事業を創出した公共事業促進局に数年間出向し、ペンタゴンビルの建設などを手がけた。速戦即決で実行が速く、将軍としては無名だった。マーシャル参謀総長は1942年1月に少将に進んだばかりのソマベルを中将に進め、ASF(1943年3月まではServices of Supplyといった)を任せた。ちなみにソマベルは戦後実業界に転じて当時は鉱山会社だったKoppers社の利益を3倍に伸ばす大成功を収めた。今秀吉といったイメージの人物である。

 陸軍補給軍は6つの専門組織(Technical Services、1943年5月まではSupply Servicesと呼ばれていた)と協力し、各組織の要求を調整し、持っている資源を差し出させる必要があった。各専門組織はASFの区処(specific direction)を受けた。
 アメリカ全土は9つの軍管区(corps area)に分かれていたが、その任務は現代的な軍組織の一部としては曖昧だった。専門組織との分業関係が次第に整理されて行き、corps areaはservice commandに改称された。

 ASFに属する部隊兵士の訓練と、兵器修理工、蹄鉄工など専門職の(学校形式での)訓練は最初からASFの仕事だった。また、徴兵の各部門への振り分けを主任務とするReception centerもASFに属していた。しかしASFと陸軍地上部隊・陸軍航空隊の職務分担は最後まであいまいで、次第に本国で新編される部隊の初期訓練もASFの仕事になって行った(U.S.War Dept. General Staff[1947]、pp.113-117)。旧日本軍のアナロジーで言うと、連隊区事務所と学校の一部がASFに属していたのが、次第に留守師団・師管区司令部の仕事にまではみ出して行ったということである。さらに陸軍病院の運営も一部行っていた。

 原則的にASFの独立性は確保されていたが、オーストラリア周辺ではマッカーサー元帥が補給の優先権について有無を言わさぬ裁量を行い、同地ではASF地域司令部の権威は限定された(Gropman, Alan(ed.)[1997]、pp.312-313)。

後方(第二次大戦期)

補給計画


The Deputy Chief of Staff of the Army, G-4(兵站担当陸軍参謀次長)のオフィスは今日でも参謀本部内で兵站を担当する部局である。日本風に意訳すると陸軍参謀本部兵站部と言うところか。

 パールハーバー以前には、このG-4が色々なケースについて物資の必要量を算出していたのが、戦時補給計画のすべてだった。これは調達や生産の実際についてまで考えたものではなかったので、実施するには不十分だった(U.S.War Dept. General Staff[1947]、p.57)。

 この記述はやや単純に過ぎるかもしれない。アメリカも日本ほどではないが、資源配分が縦割りになっていて、全体の計画を立てる権限を持つ部署がなかったのである。1920年の国防法(National Defense Act)は、陸軍次官補(Assistant Secretary of War)に陸軍省の調達全般を総覧する権限を与えた。この陸軍次官補は1940年に陸軍次官(Under Secretary of War)と改称(格上げ)され、パターソンが引き続きその任に当たった。平時にはG-4が(予算の範囲内で)必要物資のリストを陸軍省に出し、陸軍省のもとで上記の専門組織群が実際の調達を行っていた。「G-4が色々なケースについて物資の必要量を算出」というのは、平時の手続きの延長として試みたものであり、調達能力に関するデータはすべて陸軍省にしかない中で参謀本部が立てた計画だから、実情に合わないのは当然なのである。シビリアン・コントロールの意味で陸軍省に調達の実務をやらせつつ、要求はあくまで制服組から出させるという政治的妥協が、トータルな戦時補給計画策定を邪魔したのである。参謀本部にはG-4のほかレインボープラン策定で知られるWar Plans Divisionがあったが、補給に関してはG-4と同様に実権を持たない悲しさで、あらかじめ実用的な計画を立てることはできなかった。ただし、1920年代から陸軍次官補のもとにArmy Industrial Collegeがつくられ、1年に渡り経済、政治、産業、行政、法制を学ぶようになっていた(Huston[2004],pp.404-406)。

 陸軍補給計画(Army Supply Program)は1942年4月に初めて策定され、以後終戦まで改定され続けた。6つの専門組織からの要求を取りまとめたものだが、計算能力の限界から、必ずしも実際的な数字ではなかった(U.S.War Dept. General Staff[1947]、p.57)。

 陸軍省の側では産業全体の実態を把握していたので、戦時にこれを統制する計画(Industrial Mobilization Plan)を1930年には完成させており、1939年にはその改訂版が実施寸前まで行ったが、統制経済を嫌う世論を押しきれずとん挫した(Huston[2004],p.409)。


 アメリカは1940年5月にルーズベルトが政権を握ったのち、1940年9月の駆逐艦基地協定(アバロンヒル社の「第三帝国」にルール化されていたのをご記憶の方もいるかもしれない)を皮切りに、1941年3月のレンド・リース法成立を待たず、軍需物資の提供に深入りしていった。1941年1月にthe Office of Production Management(OPM)、同年7月にthe Supply, Priorities, and Allocations Board (SPAB)が組織され、軍需品の調達と合わせて、生産や原料調達に関する優先順位管理が行われるようになった。これを発展的に吸収する形で、戦時生産委員会(War Production Borad)が1942年1月16日に設置された。通信販売・百貨店業者シアーズ・ローバックの副会長をしていたドナルド・ネルソンは前述のOPMやSPABで指導的な地位にいたが、そのまま全国レベルの戦時生産委員会の議長となった。新しい戦時生産委員会の主要な役目は、州レベルの戦時生産委員会やさらに下位の地方事務所を駆使して、アメリカの産業を戦時生産体制に転換することだった。全国レベルの戦時生産委員会メンバーは陸軍長官、海軍長官、農務長官のほか、戦時経済に関係する組織の責任者たちだった。

 戦時生産委員会は陸軍補給計画に、現有資源では実行不可能な点があることを指摘した。これは統合参謀本部にフィードバックされ、作戦計画そのものの改定を経て、統合参謀本部が補給計画の縮小を命じ、それに沿って1942年11月に陸軍補給計画が改定された。この過程で、輸送船と航空機への資源・設備割り当てが拡大された(U.S.War Dept. General Staff[1947]、pp.57-58)。

 このフィードバック関係は興味深い。ASFは調達と輸送を司り、物資要求を取りまとめる。資源割り当てと生産を司るヒエラルキーが別にあって、省部が大統領のもとで生産統制に加わりつつ、調達要求に無理があると統帥部に談判して作戦上のゴールを引き下げさせる。そして戦時生産部門のトップは流通業者、調達・輸送部門のトップは土木屋なのである。

 この場合「作戦」とはイギリスに大陸反攻のための物資を集積するボレロ作戦であろう。輸送船と航空機の優先順位が上がったのは、実際に1942年に起きたことから考えると、輸送のペースを上げつつアメリカ戦略空軍をイギリスから作戦可能にするということだったろうか。

 陸軍補給計画が年単位のものであったのに対し、1944年3月から補給統制システムの運用が始まった。これは1900種類の主要物資について、月次または四半期の調達実績と需要予測を示すものだった。このころになると新規調達よりも更新需要のほうが多くなっていて、過去の実績を実地調査することによって予測が示せるようになったのである。1900の物資が全調達価額の80%を占めていたが、これに次いで重要な850000の物資についても、やや大雑把なものになったが、同様の数字が示された(U.S.War Dept. General Staff[1947]、p.58)。

 特定の作戦に必要な物資を予測し、間に合うように調達することは困難だった。ASFと統合参謀本部が共同してこの問題に取り組んだ。例えばノルマンディー上陸作戦時に予想されるシェルブール港の修復に必要な資材は、1943年8月に必要量が取りまとめられ、調達が始まった(同書p.39)。補給統制システムは基本的に月次計画であり、状況が急変したときは原料の追加などが行われた。また、銃身など生産中断後の再開に時間がかかるものについては、予備的な在庫が大きめに許容された。急変への対処が必要であった場合、それは効率的な生産とは言い難いものになった(同書、p.69)。

 ソビエトへのレンドリースに仕向けられる物資の量は年単位で計画された。自由フランス軍を武装するための資材は計画に入っておらず、[実際には少なくとも19個師団が編成されたが]戦略予備として10個師団分用意されていた物資で何とかするしかなかった(同書p.39)。このように、あらゆる努力にもかかわらず、必要量の予測は不完全だった。

ゴム


 ひとつだけ、日本が連合軍の主要供給地を押さえてしまったので、一時的に深刻な不足をもたらした物資がある。天然ゴムである。しかしそれは長くは続かず、1945年初頭、アメリカのタイヤに使われる合成ゴムの比率は80%になった(同書p.94)。

調達価格決定と契約


 調達価格の決定も難関だった。初期には「経費+定額手数料」という契約もあったが[経費を節減する誘因を生産者にまったく与えないので]これは忌避され、出来る限り定額での契約をしたうえで、コストと価格に関する情報を出来る限り蓄積し、不断に値下げ交渉をASFが仕掛けていく方法が多数を占めた。終戦までに、調達価格は平均20%引き下げられた(同書、p.70)。

 1942年4月に成立したSixth Supplemental Defense Appropriation Actのsection 403は、軍需品の調達で超過利潤を得ていたケースについては再交渉ができると定めた。この種の法的な決定事項は無料のネットワーク・リソースが乏しいので、1943年に出た雑誌の紹介記事を挙げておく。当然あらゆる企業の利害関心が交錯するところであり何度も改正を見たが、いずれにしても再交渉の細部については法律に書き込むにも限度があり、書きこまれていない以上、個別の駆け引きによる部分が大きかったと思われる。

 短い契約書書式が工夫され、とくに少額調達に威力を発揮した(同書、p.70)。1942年6月、Smaller War Plants Corporation(SWPC)が設置され、従業員500人以下で軍需生産に携わる中小企業への資金提供などの支援を行った。そのリーダーはジョンソン&ジョンソンの創業者一族で陸軍需品部の予備役准将でもあったRobert Wood Johnson IIが務めたが、多忙を理由に退き、民主党の政治家であったMaury Maverickに代わった。下請企業としての参画を含め、中小企業が戦時生産に果たした役割は大きいが、SWPCの働き如何でその成果がどの程度左右されたかははっきりしない。

 多くの専門組織は地方拠点や担当の地区割りを独自に持っており、戦車と自動車の調達センターをデトロイトに集約するなど調達窓口一本化の努力はされたが、完全ではなかったし、一本化のメリットとデメリットはそれぞれあった(同書、pp.73-74)。

倉庫管理と物流


 必要な緩衝倉庫キャパシティは1942年末までに徹底的に検討され、この時点で建設中のものまでで間に合うことがわかったので、以後の着工はキャンセルされた。専門組織が持っていたスペースは互いに再配分され、通路幅の統一など近代的な倉庫管理の手法が全国的に行き渡った。フォークリフトとパレットの使用も大きな前進だった。倉庫の分布は全体としてあまり注意を払われておらず、東海岸に偏り過ぎていることが次第に問題になってきたが、すでに遅かったので根本的な対策はとれなかった(U.S.War Dept. General Staff[1947]、pp.74-76)。

 1942年1月までは、軍管区(corps area)が新編部隊の物資をいったん受け取り、それから部隊に支給していたが、直接工場から部隊近くのpost(depot)に発送するように改めた。depotには6つの専門組織が管理するものや空軍向け物資だけを扱うものと、物資が混在するgeneral depotがあった。一般に、訓練中の部隊では装備充足率は低く、相対的に旧式なものをあてがわれていたが、海外出征が決まると可能な限り最新資材を定数いっぱいに与えられた。したがって部隊と部隊で装備を申し送る必要が頻繁に生じた。部隊から上がって来る個別の物資要求は各専門組織のstock control point、陸軍航空隊のair material commandにまとめられ、優先順位を検討の上で割り当てが認められると、工場からdepotに届けられた(同書、pp.78-83)。

 一部の物資は結局大戦を通じて不足から脱却できなかった。戦略的な方針に沿って、欧州・地中海向けが第一、太平洋戦線が第二、レンドリースと対中・対友好国援助が最後と言う優先順位が守られた(同書、p.79)。

 1944年3月から始まった補給統制システム(supply control system)については「補給計画(第二次大戦期)」で言及したが、これは在庫管理については1943年3月から先駆けて実施され、全国的な文書書式統一や在庫の平準化も加わって画期的な改善をもたらした。

 1942年3月、ASFはそれぞれの海外司令部について、aerial port of embarkation (APOE:積出港)とaerial port of debarkation (APOD:荷揚港)をひとつずつ指定し、そこにすべての物資が集まるようにした(同書、p.80)。積み出し港はともかく荷揚げ港をひとつに限っていられたのは当初のうちだけだったろうと思う。

 U.S.War Dept. General Staff[1947]がそのような書き方をしたのはおそらく、1939年時点において、陸軍が積み出し港としての設備を持っているのが東海岸のニューヨーク、西海岸のサンフランシスコだけだったと言う事情がある。1941年12月から1945年8月までの間にアメリカの積み出し港から送りだされた人員は7293354人。うちニューヨークが3172778人、サンフランシスコが1657509人で、上位2港で全体の66%を送り出している(McGee & McGee (eds.)[2009]、p.327)。同じ表から、このふたつのほか、使われた港の一覧を示しておこう。
乗客、貨物Boston, Hampton Roads, Charleston, New Orleans
Los Angels, Seattle, Portland, Prince Rupert
貨物のみSearsport, Philadelphia, Baltimore


 POEにはその戦域向けの補給全般を取り仕切るOverseas Supply Divisionが置かれ、それらをASF司令部にいるDirector of Plans and Operationが統括した。陸軍航空隊は海外向けの物資を取り扱うair intransit depotを別に持っていた。これらは積み出しを行う一方、海外基地からの物資要求を国内のdepot、あるいは割り当ての必要な重要物資ならASF司令部に取り次いだ。

 消費・損耗量が報告されたら、その量をそのまま補充する方法をautomatic supplyという。automatic supplyは指揮官が多忙で必要度を評価・調整する余裕がない時期、例えば上陸作戦直後に適用されることはやむを得ないが、逆にそれは自分の財布を持たず、現場からの要求に対して弾力的に対応する余裕は認めないと言うことである。従ってできる限り早く現地司令部が倉庫に在庫を持ち、自分の判断で要求にこたえられるようにされた。

食料調達


 生鮮食料品は全米35ヶ所のquartermaster market centerで、缶詰などの保存食品は3ヶ所のdepotで購入された。quartermaster market centerは陸軍施設同士が価格で争わないように作られたものだが、買い入れ価格は地域の市価より高くも安くもなく、取引は強制されなかった。食糧の国内在庫は在米部隊必要量の75日分、在外部隊必要量の60日分を超えないこととされ、在外部隊の現地での在庫は75日分を目安とされた(同書、p.102)。こうサラっと書かれてしまうと突っ込む元気もない。なお、3つのDepotとはシカゴ、サンフランシスコ、ニュージャージー州ジャージーシティである。その中でも食料調達の中心となったのはシカゴのデポである(Millet[1998]、p.240)。

 ところでアメリカの著作権法にはフェアユース条項があって、著作権者の利益を犯す具体的なデメリットと、それを広く利用するメリットを見比べて著作権侵害を判断することになっている。日本だったらアウトだと思うのだが、こういうサイトはアメリカの法においてはグレーどまりだろうから、A、B、C、D、Kレーションの概要を知るために便利なサイトとしてリンクしておく。


レンド・リースと装備・弾薬の割り当て


 アメリカが参戦した当初、ルーズベルトはレンド・リース対象国との弾薬配分を、ルーズベルトやチャーチルに直属する委員会で決めさせたいと考えていた。マーシャル陸軍参謀総長が強硬に反対し、アメリカ・イギリス合同参謀本部(Combined Chiefs of Staff)の下に弾薬配分会議(munitions allocation board)を作らせた。このMABはその下に多くの委員会を持ち、装備・弾薬の国別配分はこの枠組みにおいて決まった(Gropman, Alan(ed.)[1997],p.283)。

海運


 第2次大戦期には、陸軍の必要とする空輸は陸軍航空隊の空輸司令部(Air Transport Command)が行っていたので、1942年にASFのもとに創設されたアメリカ陸軍輸送部(Transportation Corps)は空輸だけは管轄外だった。

 ASFのもとで陸軍輸送部は国内輸送、積み出し港の運営、そして戦地への輸送船手配を担当した(U.S.War Dept. General Staff[1947]、p.140)。

 1930年代から、アメリカには海運委員会(United States Maritime Commission)があって戦時標準船などの商船造船・補助金計画を取り仕切ってきたが、大戦が始まると新たに戦時海運管理庁(War Shipping Administration)をつくり、WSAに造船以外の仕事すべて(民間船舶の買い上げ、徴用、陸軍・海軍・特設艦艇といった各用途への割り当て、用途に応じた改装、要員の訓練)を移した。このうち要員の訓練は、のちに沿岸警備隊がさらに引き継いでいる(Wikipedia、USMCの項)。

 ふたつの組織が円滑に協力できるよう、ランド海軍中将が両方の長を兼ねた。ランド中将は兵学校を出てから技術畑に進み、主に潜水艦の設計で実績を積んだ人物である。

 アメリカとイギリスは統合海運調整会議(combined shipping adjustment board)で互いのリソースを利用し合った。開戦時にはイギリスのほうが船腹があったが、大戦中に逆転した。ただしアメリカの新造船舶は貨物船に偏っており、クイーンメリー号やクイーンエリザベス号を代表として、イギリスの兵員輸送船がアメリカ兵のために活用された。大戦後半になるとまず病院船、最後には復員船が必要になったので、貨物船から兵員輸送船への改装も盛んに行われた。タンカーの甲板に航空機を積める構造物を仮設するなど、稼働率を上げる試みがなされた。

 戦略輸送委員会(Strategic Shipping Board)は、マーシャル、キング、ランド、ホプキンスの会合だった。陸軍参謀総長、海軍軍令部長、USMC委員長、レンドリース担当大統領特別顧問という顔ぶれである。主要な話題はもちろん、輸送能力の取り合いであっただろう。この委員会は1941年12月につくられたが、対立するばかりであまり機能しなかった。1942年2月にWSAが作られると、SSBがやるはずだった調整はこちらの仕事になったが、形式上SSBは廃止されなかった(McGee & McGee (eds.)[2009]、pp.317-318)。

 上記のUSMCが発注・管理するのは、商船または商船の基本設計と共通性を持つ特設艦艇である。例えば護衛空母、LSTなどはUSMCを通じて建造された。純然たる軍艦は海軍の予算と指揮により建造した。1941年から1945年までに、前者が130億ドル、後者が180億ドルの予算を使った。同様に予算額でみると、東海岸(メキシコ湾を除く)では海軍の発注額がUSMCの約2倍であったし、逆に西海岸ではUSMCの発注額が海軍の2倍を超えていた(McGee & McGee (eds.)[2009]、pp.9-10)。USMCのもたらした巨大な新規重要を満たすため、その援助のもとで新たな造船所が作られた。いくつかの古参造船所はもっぱら海軍のために働いたが、1940年にかけて海軍の大拡張が認められると、海軍もいくらか造船所の設備拡張に資金を出さざるを得なくなった。造船所の中には船渠を海軍用とUSMC用に分けたところもあった(McGee & McGee (eds.)[2009]、pp.22-28)。


 USMCは1936年に創設された。日本の優秀船舶建造助成施設が1937年に始まったことを想起すべきであろう。USMCは、航路の重要性や船の新しさを勘案しながら、競合する外国船舶と国内海運会社の運航費差額と、国内・国外の造船コストの差額を援助した(McGee & McGee (eds.)[2009]、pp.10-11)。日本の制度に比べて、少なくともスタート時点では、軍事問題というより産業振興、もっとはっきり言えば雇用問題に焦点を当てた制度であると言えるだろう。USMC発足当時の委員長はルーズベルトの有力後援者で実業家のジョセフ・P・ケネディである。ドイツがオーストリアに間断なく圧力をかけていた(アンシュルスの前月)1938年2月、ケネディはランドと交代して駐英大使に栄転する。ルーズベルトと(カトリックの出世頭として潜在的な政敵であった)ケネディの微妙な関係が、このポストの重要性が高まった時にケネディを棚上げする人事を招いたと考えるのは、少し書き過ぎであるかもしれない。

 大戦後の船腹過剰状態から、1918-1922年に完成した船舶が更新されぬまま船齢を重ねており、USMCの助成制度は商船隊の若返り政策でもあった。この間、イギリスはクイーン・メリー号、フランスはノルマンディー号を完成させ、大西洋最短横断記録で抜きつ抜かれつ競争しており、アメリカは蚊帳の外だった。満を持して1936年に起工された大型客船アメリカ号は、結局兵員輸送船ウエストポイントとして第二次大戦期を過ごす羽目になるが、もともと担っていたのはアメリカ商船隊興隆であった(McGee & McGee (eds.)[2009]、p.15)。

 もともとアメリカが自分のために用意していたのは、14ノットを出せるC1型貨物船のように、蒸気タービンエンジンを持った高速商船だった。T2型タンカー(基本型で最大速力15ノット)も同様の経緯で標準化されたものである。Uボート対策を念頭に置いてアメリカ海軍は高速な商船隊を望み、船主たちは経済性を重視してもう少し遅いものを希望したが、これらはその妥協の産物である。

 ところが1941年になってレンドリース法が成立し、イギリスが次々に喪失してゆく船腹をアメリカが補充することになると、これでは足りなくなった。イギリスは前年にすでに、イギリスで設計した商船をアメリカに注文していたので、このときの設計をもとにした、もっと低スペックな船をつくることになった。

 イギリスが注文していた商船は、油田はないが炭鉱はあるイギリスのために石炭で走るレシプロエンジンだったが、C重油で動くものに置き換えられた。蒸気タービンエンジンを作れる工場はもうUSMCと海軍が取り合った後だったので、工作精度を比較的要求されないレシプロエンジン(自動車やプロペラ航空機が積むような、まず燃料のエネルギーをピストン運動として取り出し、それから回転運動に直すエンジン)で我慢するしかなかった。

追記 上記の説明だと外燃機関であるレシプロ蒸気機関が内燃機関とごっちゃにされているではないかというご指摘を頂いた。ごもっともであるので加筆する。こちらのページの62ページをご覧いただきたい。eccentric rod(偏心器棒)によってslide valve(滑弁)が開閉して、吹き込まれた蒸気がピストンを押し上げたり、押し下げたりする。リバティ船のエンジンの場合、少しずつ温度を失いつつ蒸気は3つのピストンを次々に上下させ、それが1本の推進軸を回す。その様子はこのページ中ほどでアニメ化されている。自動車やプロペラ航空機が積むような内燃機関はエンジン内で熱が発生するのだが、レシプロ蒸気機関では機関外部の熱源で湯を沸かし、水蒸気を引きこんで動力とする点が異なっている。


 リバティ船は排水量約14000トン、積載量約10000トンに対し、2500馬力のエンジンを積んでいる。船としては低出力だが、当時の航空機用レシプロエンジンと比べるなら最大級であり、戦車や自動車のエンジンでは勝負にならない。最初にエンジンの生産に当たったホーヴェン=オーエンス=レントシュラー社は、工場の動力や発電用に使われる蒸気機関でかつて全米のトップメーカーだった。

 工作機械は今も昔もノウハウの塊であり、これを自分で作れることが先進工業国の証である。この点でもやはり、すいすいと船舶用レシプロエンジンを量産できるアメリカと、焼玉機関に頼った日本の国力は隔絶していたと言わざるを得ない。
船舶砲兵

 日本の船舶砲兵や海軍警戒隊に相当するのは、Navy Armed Guardであった。Wikipediaのエントリと、1946年ごろに出された報告書によると、第2次大戦期には延べ14万5千人がこの任務に就いた。

陸運


 国防輸送局(Office of Defense Transportation)は1941年12月18日に創設され、物資・兵員の陸上運輸に関する統制をつかさどった。戦時に創設された組織のリスト中にその任務に関する詳しい説明がある。1945年7月に発売された雑誌記事の中で、その長が'Col. JM Johnson. ODT head'と紹介されている。大佐に率いられているのでは、政治的調整はこの組織では行えず、専門的なアドバイスと事務処理がせいぜいであったと思われる。

 アメリカ陸軍需品部(Quartermaster Corps)の長であるquartermaster generalとThe Deputy Chief of Staff of the Army, G-4(兵站担当陸軍参謀次長)の権限がオーバーラップしていることは深刻な問題であり、陸軍補給軍の創設を経て、両方から人員を出し合って新しい組織を作ることになった。新しい組織は短期間に何度か名前が変わったが、1942年7月に港務、鉄道、本国での陸上交通統制などをつかさどる陸軍輸送部(transportation corps)となった(McGee & McGee (eds.)[2009]、pp.321-324)。例えば陸軍所属の救難飛行艇部隊などというややこしいものがあって、これは1943年までは輸送部所属で、その後陸軍航空隊に移った。また前線のトラック部隊はquartermasterという名称を残していたが、陸軍輸送部に移った(Colley[2000]、p.76)。

整備


 注油マニュアル、整備マニュアルなどの制作と印刷も、ASFが陸軍で初めてやったことだった。ASF自身は整備設備を持たなかったが、専門組織がそれらを拡張することを支援した。複数の専門組織が同じような工具をバラバラに発注しているケースや、古い工具がまだ調達リストに載っているようなケースが洗い出され、統一的な最新の工具が専門組織の壁を越えて行き渡るように配慮された(U.S.War Dept. General Staff[1947]、pp.88-90)。

 整備負担を軽減する観点から、ASFは調達物品の規格を異なる企業間で統一するよう要望した。[たぶんASF発足から終戦までに]40種類あった空冷エンジンは20種類、91種類の液冷エンジンは44種類になった(同書、p.90)。

 トラックなどの車種が統一されていないことについては、さすがのアメリカもどうすることもできなかった。

Tank Depot


 戦車の生産には民間工場と国営工場が当たった。ただし国営工場の運営は実質的に特定の民間企業に任されていた。Detroit Tank Arsenalはクライスラー社が、そのすぐ近くのミシガン州Grand BlancにあったTank Arsenalは、GMのために車体を供給してきたFisher Bodyが管理した。ちなみにGMは多くの企業を合併し、車種の多様性でフォードに対抗した時期もある企業であり、多くのブランドをそのまま内部に残している。それぞれの部門をdivisionと呼ぶので、Fisher Bodyという社名の代わりにFisher Divisionとよく呼ばれる。

 M7プリーストのような車体改造は、4つのOrdnance Tank Depotが担当したとU.S.War Dept. General Staff[1947]のp.93にある。Toledo(のちLimaに移転)、ChesterRichmondLongue Pointe(カナダ、モントリオール)の4つがそれだと思われる。

 修理や改装はTank Depotの機能の一部であって、出荷を待つ戦車庫としての役割がむしろデポ本来の機能である。

研究開発へのASFの関与


 一般に、比較的基礎研究に近いものはヴァネヴァー・ブッシュの率いるアメリカ国防研究局(ODRC)が、実用的な開発は陸軍省が(つまり相当部分、ASFの区処を受ける6つの専門組織が)担当した。例えばVT信管はイギリスで防空システムの開発に当たっていたW. A. S. ButementのアイデアをODRCが引き継いで完成させたもので、基礎研究・応用研究の区分は曖昧である。ASFは各専門組織の研究をコーディネートする立場にあった(U.S.War Dept. General Staff[1947]、pp.62-63)。

生産性向上へのASFの関与


 ASF発足から1942年末ごろまで、machine tools[日本語の語感が誤解を与えるといけないので訳出を避ける。たぶん生産ラインを構成する工作機械の中でも、旋盤あたりまでシンプルなものを含む]の不足が生産拡大のボトルネックだった。ASFは戦時生産委員会と協力して、ASF自体が購入した分もそうでない分についても、machine toolsの生産拡大を進め、その各産業・各専門組織への割り当てに関与した。また、特に希少な工具ができる限り24時間使われ続けるよう調整したが、実際には保守作業などのため16〜18時間にまで伸ばすのが精いっぱいなことが多かった(U.S.War Dept. General Staff[1947]、pp.65-66)。

 工場の規模も戦争初期に生産拡大のボトルネックとなった。民間企業の工場新設・拡大はもちろん、主に非民生品の生産において、政府や軍の所有する工場が新設・拡大された。民間大企業から軍・政府に契約によって基幹要員が派遣され、事実上それらの人々が工場運営を一任されることも多かった。民生品工場の軍需品転換は工場新設よりも低コストであったから推進された。1942年の計画があまりに野心的で、コントロールできる生産規模を超えているという懸念が戦時生産委員会から陸軍省に示され、1943年の生産規模拡大が利用できる原材料の量を超えないよう、ASFは計画を抑制した(U.S.War Dept. General Staff[1947]、pp.66-67)。

 初期の原材料不足に対して、各産業における必要量の見積もりそのものが結果的に過大であったことも手伝って、ASFはあまり有効な割り当てができなかった。1942年11月、陸軍補給計画と連動した重要物資統制計画(Controlled Material Plan)が始まった。Cuff[1990]によると、戦時生産委員会のもとに必要量委員会(Requirement Committee)が作られ、これがCMPの司令塔だった。ここでの決定を経て、戦時生産委員会の下部組織を通じて金属などの統制物資が割り当てられて行った。その中心人物は、M&Aで辣腕を振るっていた銀行家のFerdinand Eberstadtだった。ただし様々な反対や準備状況から、この統制に従うことが義務化されたのは1943年7月以降だった。

 ニューディール政策による景気浮揚は第2次大戦勃発直前には失速を見せていたと言う見方がある。その見方の当否には深入りしないとして、少なくとも大戦初期には、労働力の不足がボトルネックにならない経済状況があった。1944年から1945年にかけて、陸海軍の動員が最高潮に達する中、労働力の不足はボトルネックとしての深刻さを増して行った。必要な労働力を労働者の類型別に集計することがうまくいかなかったため、ついに終戦までASFは労働力不足をボトルネックで無くすほどの対策を打てなかった(U.S.War Dept. General Staff[1947]、p.68)。


参照文献


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