時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

国籍ブラジル統合主義連邦
生年月日1944年11月10日〜(53歳)
性別男性
出身地サン・パウロ州
所属政党ブラジル統合主義運動(1973〜1995)
宗教キリスト教カトリック
職業政治家、銀行員、日雇い大工

来歴

1944年11月10日、サン・パウロ州サンパウロ市の郊外に生まれる。彼の両親はねじ工場を経営していた。
幼い頃から度々両親のねじ工場を手伝い、従業員とも親しかったという。当時の夢は「学校の先生」。
ピリトゥバ基幹学校、サンパウロ州学校を卒業。1年間の従軍の後、サンパウロ連邦大学の経済学部に入学した。
サンパウロ連邦大学2年生の1964年、両親の工場が全焼。操業中の火災だったため従業員の避難を優先した結果、両親は焼死した。
彼はこのことでひどく落ち込み、引きこもりがちとなり、大学を中退した。大学中退後の1年間は食事と読書くらいしかすることがなく、何に対しても無気力であった。
貯金を切り崩して生活していたが、生活費が底をついたため日雇い大工として働いた。しかし日雇い大工として訪れていたリオデジャネイロで、詐欺に会い無一文となる。
その時に入った教会でとある女性に一目ぼれし、司祭からその女性がリオデジャネイロ連邦大学の生徒であることを聞いたため、リオデジャネイロ連邦大学を目指すこととなる。
22歳の1966年、リオデジャネイロ連邦大学の経済学部に入学した。大学では経済学の他に、友人からの誘いで行政学も度々学んだという。
ちなみにその女性とは学部が違ったため会うことは無かった。
26歳の1970年、リオデジャネイロ連邦大学を卒業し、ブラジル銀行に入社する。
ブラジル銀行入社当時はサンパウロ支店で働いていたが、半年程度で力量を買われリオデジャネイロ本店で営業マンとして働いた。その1年後ポルト・アレグレに赴任して、1年間支店長を務めた。
ポルト・アレグレでの支店長時代には売り上げが前年比の二倍を達成して、リオデジャネイロ連邦大学在学時に行政学を学んでいたことから「自分はもしかしたら政治家もいけるかもしれない」と思ったという。
そのため支店長の任期が終了するとともにブラジル銀行を退社し、29歳の1973年にブラジル統合主義運動に入党してサン・パウロ州議会に立候補し、当選した。
五年間の議員生活を経て、1978年サン・パウロ州知事に立候補し、当選した。知事時代の5年間の任期中には、中小企業の成長から成る労働者の地位向上を掲げたため、社会主義的だと非難された。その一方で、サンパウロ農林評議会、サンパウロ企業体評議会を設立し、産業の集産性を高める政策も行った。
39歳の1983年には連邦議会総選挙にサン・パウロ州から立候補し、当選した。
41歳の1985年には第二次バルミロ・メリノ・バリオス大統領内閣で内務省大臣に就任した。
そして、46歳の1990年、ブラジル大統領に就任した。

趣味・好物

日雇い大工として各地を転々としていた時から、バイクが趣味だという。また文学にも通じていて、好きな本はミヒャエル・エンデの「モモ」。
好物はワインとチーズ。ワインは量を飲むのが彼なりの流儀らしく、友人からの話によれば「気づいたらデカンタが空になっている」とのこと。
チーズは癖が強ければ強いほどいいと言う。しかしカース・マルツゥを食べた際は、腹を下した。
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