ギリシャ国 Ελληνική Πολιτεία Hellenic State | |
国の標語: Ελευθερία ή θάνατος(自由か死か) | |
国歌: Ύμνος εις την Ελευθερίαν(自由への賛歌) | |
公用語 | ギリシャ語 ドイツ語 イタリア語 |
首都 | アテネ |
最大の都市 | |
政府 ドイツ国全権代表 首相 | |
面積 総計 ㎢ | |
人口 総計 人 | |
GDP USD | |
通貨 | ドラクマ |
時間帯 | |
現在 | ![]() |
1945年、第二次世界大戦が終結するとドイツ・イタリアはギリシャの統治権を傀儡のギリシャ国に返還した。しかしブルガリア王国は返還せず、その後の領土問題・第三次バルカン戦争へと発展する。
独伊両国の撤退によりギリシャ国は統治を回復したが、パルチザン等の反政府勢力やギリシャ亡命政府といった問題が襲いかかった。
独伊両国の撤退によりギリシャ国は統治を回復したが、パルチザン等の反政府勢力やギリシャ亡命政府といった問題が襲いかかった。
詳しくは『第三次バルカン戦争』を参照
1955年6月2日、第三次バルカン戦争真っ只中にギリシャ国はブルガリアへ侵攻を開始し、セルビア陣営で参戦した。ブルガリア領マケドニアでマケドニア分離勢力がスコピエ等の各都市で蜂起、これにセルビア・ギリシャ連合軍が介入した。ブルガリアは9日、ルーマニア、ハンガリーの戦争離脱と経済的混乱からセルビア政府と南セルビアの割譲(現セルビアの南部国境)、マケドニアの領有権の放棄とマケドニアの独立を認めるなどの正式な停戦協定を調印し始め、またブルガリア政府は個別にギリシャ政府とアテネ条約を調印しトラキア地方の一部と南部マケドニア地方のギリシャ編入に合意しギリシャ国はこれにより戦争に勝利したこととなり戦前領土の完全回復を果たした。
1955年6月2日、第三次バルカン戦争真っ只中にギリシャ国はブルガリアへ侵攻を開始し、セルビア陣営で参戦した。ブルガリア領マケドニアでマケドニア分離勢力がスコピエ等の各都市で蜂起、これにセルビア・ギリシャ連合軍が介入した。ブルガリアは9日、ルーマニア、ハンガリーの戦争離脱と経済的混乱からセルビア政府と南セルビアの割譲(現セルビアの南部国境)、マケドニアの領有権の放棄とマケドニアの独立を認めるなどの正式な停戦協定を調印し始め、またブルガリア政府は個別にギリシャ政府とアテネ条約を調印しトラキア地方の一部と南部マケドニア地方のギリシャ編入に合意しギリシャ国はこれにより戦争に勝利したこととなり戦前領土の完全回復を果たした。
詳しくは『ギリシャ内戦』を参照
ギリシャ国体制下において、いわゆる議会という組織は設立から滅亡まで置かれることはなかった。しかし、代わりとなる組織として『救国管理委員会』が設置されていた。
この委員会は事実上の議会として機能しており、政権を構成する大臣等は同委員会が選出する決まりとなっている。
ただし同委員長は首相を兼任する暗黙の了解があり、首相は同委員会を掌握することが可能であった。
この委員会は事実上の議会として機能しており、政権を構成する大臣等は同委員会が選出する決まりとなっている。
ただし同委員長は首相を兼任する暗黙の了解があり、首相は同委員会を掌握することが可能であった。
任期は3年、政権より指名された委員長によって委員は選出される。委員長を除き、委員と大臣を兼任することは稀であり基本的には任命・選出はされない。しかし委員は実質副大臣格扱いであることから兼任が稀なのは妥当とも言える。
同委員会は事実上議会であるものの、正式には議会ではないため委員会内で実質的な副大臣として役職が存在しており、
例外として同委員会において委員長補佐と呼ばれる人がおり、この名称は委員会正式の役職ではなく副首相が委員会に出席する為に付けられたものである。
同委員会は事実上議会であるものの、正式には議会ではないため委員会内で実質的な副大臣として役職が存在しており、
- 内務委員
- 国防委員
- 経済委員
- 外交委員
- 治安委員
- 労働委員
例外として同委員会において委員長補佐と呼ばれる人がおり、この名称は委員会正式の役職ではなく副首相が委員会に出席する為に付けられたものである。
ギリシャ国における首相は、大戦中はギリシャにおけるドイツ国全権代表と枢軸国占領当局によって選出・任命が行われた。
しかし戦後にギリシャ占領統治を完了させドイツ・イタリアが撤退すると当時の首相 イオアニス・ラリス(ゲオルギオス・ラリスの父。以降はイオアニス)に統治権が回復した。イオアニスはギリシャ国の統治体制を確固とするために憲法制定および議会設置を目指したが保守派の抵抗によって不完全な『救国管理委員会』という組織を設置し首相を辞任させられた。
イオアニスを失脚させ保守派の推薦を受けて首相となったのはゲオルギオス・バコスであった。バコスはツォラコグル政権時代に国防大臣を務めた生粋の親ドイツ主義者であった。バコス政権時代に救国管理委員会を更なる独裁体制を築く組織とすべく委員長に権力を集中させた。
彼は49年の任期満了で首相を辞任しなければならなくなったが、再選を目論んでいた。
その再選を目論む派閥会合に出席すべく首相官邸から出立しようとしたバコスだったが、ゲリラの仕掛けた爆弾により専用車両が爆発。バコス含め、運転手1名・護衛1名が即死する『ゲオルギオス・バコス爆殺事件』が発生した。
突然の指導者を失った保守派は自然崩壊し、救国管理委員会はこの時に指導力を失うことが起きた。
ギリシャ国政治は最大の混乱を迎えた。最終的に権力を掌握したのはエクター・ツィロニコスであった。
彼はロゴセトプロス政権では農業・食料大臣を、イオアニス政権では財務・国民経済大臣・副首相・国民福祉大臣を歴任した重鎮だった。
ツィロニコスはギリシャ国最長の政権を築くが、反政府運動を押さえきれず内戦が勃発しギリシャ亡命政府(ギリシャ王国)軍によるクレタ島上陸と失陥を理由に1956年の内戦中に失脚した。
戦時指導者として選ばれたのがニコラオス・ブーランタスであり、彼は市警察の自動車部隊の司令官として治安維持活動に従事しておりその経験を見込まれてのことであった。一方で内戦中は治安に関する命令を多数出しているものの作戦会議に出席した記録は少なく、何故か署名は未出席の作戦会議から直ぐに署名していることから彼に戦争指導の権限はなく、本当に治安維持を目的に首相にされた可能性がある。なぜ治安委員ではなく首相になったかは不確かであるが最も有力なのが
1、ブーランタスは政務経験が少なくツィロニコス政権の閣僚が多く続投していることから傀儡にしやすかった
2、数少ない交代した内務大臣のアンゲロス・エバートは亡命政府に協力している疑惑があることから圧力をかけやすいように。
等である。
しかし最終的にブーランタス政権は長く続かず内戦において敗北した。
しかし戦後にギリシャ占領統治を完了させドイツ・イタリアが撤退すると当時の首相 イオアニス・ラリス(ゲオルギオス・ラリスの父。以降はイオアニス)に統治権が回復した。イオアニスはギリシャ国の統治体制を確固とするために憲法制定および議会設置を目指したが保守派の抵抗によって不完全な『救国管理委員会』という組織を設置し首相を辞任させられた。
イオアニスを失脚させ保守派の推薦を受けて首相となったのはゲオルギオス・バコスであった。バコスはツォラコグル政権時代に国防大臣を務めた生粋の親ドイツ主義者であった。バコス政権時代に救国管理委員会を更なる独裁体制を築く組織とすべく委員長に権力を集中させた。
彼は49年の任期満了で首相を辞任しなければならなくなったが、再選を目論んでいた。
その再選を目論む派閥会合に出席すべく首相官邸から出立しようとしたバコスだったが、ゲリラの仕掛けた爆弾により専用車両が爆発。バコス含め、運転手1名・護衛1名が即死する『ゲオルギオス・バコス爆殺事件』が発生した。
突然の指導者を失った保守派は自然崩壊し、救国管理委員会はこの時に指導力を失うことが起きた。
ギリシャ国政治は最大の混乱を迎えた。最終的に権力を掌握したのはエクター・ツィロニコスであった。
彼はロゴセトプロス政権では農業・食料大臣を、イオアニス政権では財務・国民経済大臣・副首相・国民福祉大臣を歴任した重鎮だった。
ツィロニコスはギリシャ国最長の政権を築くが、反政府運動を押さえきれず内戦が勃発しギリシャ亡命政府(ギリシャ王国)軍によるクレタ島上陸と失陥を理由に1956年の内戦中に失脚した。
戦時指導者として選ばれたのがニコラオス・ブーランタスであり、彼は市警察の自動車部隊の司令官として治安維持活動に従事しておりその経験を見込まれてのことであった。一方で内戦中は治安に関する命令を多数出しているものの作戦会議に出席した記録は少なく、何故か署名は未出席の作戦会議から直ぐに署名していることから彼に戦争指導の権限はなく、本当に治安維持を目的に首相にされた可能性がある。なぜ治安委員ではなく首相になったかは不確かであるが最も有力なのが
1、ブーランタスは政務経験が少なくツィロニコス政権の閣僚が多く続投していることから傀儡にしやすかった
2、数少ない交代した内務大臣のアンゲロス・エバートは亡命政府に協力している疑惑があることから圧力をかけやすいように。
等である。
しかし最終的にブーランタス政権は長く続かず内戦において敗北した。
代 | 名前 | 任期 |
1 | ゲオルギオス・ツォラコグル | 1941年 - 1942年 |
2 | コンスタンティノス・ロゴセトプロス | 1942年 - 1943年 |
3 | イオアニス・ラリス | 1943年 - 1946年 |
4 | ゲオルギオス・バコス | 1946年 - 1949年 |
5 | エクター・ツィロニコス | 1949年 - 1956年 |
6 | ニコラオス・ブーランタス | 1956年 - 1957年 |
ツォラコグル政権
ロゴセトプロス政権
イオアニス政権
バコス政権
ツィロニコス政権
ブーランタス政権
役職 | 名前 |
首相 | ゲオルギオス・ツォラコグル |
副首相 | コンスタンディノス・ロゴセトプロス |
外務大臣 | |
内務大臣 | パナギオティス・デメスティカス |
宗教・教育大臣 | コンスタンティノス・ロゴセトプロス(兼任) |
経済大臣 | |
財務大臣 | ソティリオス・ゴッツァマニス |
国民福祉大臣 | |
公共交通大臣 | |
農業大臣 | |
国防大臣 | ゲオルギオス・バコス |
食糧大臣 | |
労働大臣 | |
商業海運大臣 | |
クレタ島担当大臣 |
ロゴセトプロス政権
役職 | 名前 |
首相 | コンスタンティノス・ロゴセトプロス |
副首相 | レオニダス・ツィリゴティス |
外務大臣 | |
法務大臣 | ニコラオス・マルコウ |
内務大臣 | アナスタシオス・タブーラリス |
宗教・教育大臣 | コンスタンティノス・ロゴセトプロス(兼任) |
経済大臣 | |
財務大臣 | ソティリオス・ゴッツァマニス |
国民福祉大臣 | |
公共交通大臣 | |
農業大臣 | |
国防大臣 | |
食糧大臣 | |
労働大臣 | |
商業海運大臣 | |
クレタ島担当大臣 |
イオアニス政権
役職 | 名前 |
首相 | イオアニス・ラリス |
副首相 | |
外務大臣 | |
法務大臣 | |
内務大臣 | |
宗教・教育大臣 | |
経済大臣 | |
財務大臣 | |
国民福祉大臣 | |
公共交通大臣 | |
農業大臣 | |
国防大臣 | ゲオルギオス・バコス |
食糧大臣 | |
労働大臣 | |
商業海運大臣 | |
クレタ島担当大臣 |
バコス政権
役職 | 名前 |
首相 | ゲオルギオス・バコス |
副首相 | |
外務大臣 | |
法務大臣 | |
内務大臣 | |
宗教・教育大臣 | |
経済大臣 | |
財務大臣 | |
国民福祉大臣 | |
公共交通大臣 | |
農業大臣 | |
国防大臣 | |
食糧大臣 | |
労働大臣 | |
商業海運大臣 | |
クレタ島担当大臣 |
ツィロニコス政権
役職 | 名前 |
首相 | エクター・ツィロニコス |
副首相 | |
外務大臣 | |
法務大臣 | |
内務大臣 | |
宗教・教育大臣 | |
経済大臣 | |
財務大臣 | |
国民福祉大臣 | |
公共交通大臣 | |
農業大臣 | |
国防大臣 | |
食糧大臣 | |
労働大臣 | |
商業海運大臣 | |
クレタ島担当大臣 |
ブーランタス政権
役職 | 名前 |
首相 | ニコラオス・ブーランタス |
副首相 | |
外務大臣 | |
内務大臣 | アンゲロス・エバート |
宗教・教育大臣 | |
経済大臣 | |
財務大臣 | |
国民福祉大臣 | |
公共交通大臣 | |
農業大臣 | |
国防大臣 | |
食糧大臣 | |
労働大臣 | |
商業海運大臣 | |
クレタ島担当大臣 |
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