なぜかコメントが書き込めないので、別エントリにて書きます。



八束さんの「批評としての建築」の中にある、近代を巡る円環性とその内部構造の変化についての記述がちょうどうまく当てはまる気がするのでここに引用します。

「〜とはなにか」、と問い始めると五里霧中の中に彷徨いこんだ感覚に陥りますな。

以下引用ーーー


『(ポストモダン期に)機能主義、あるいはもっと広く行って「近代」一般が人間に関して重要な何ものかを欠落させ、それがいわゆる人間の疎外に繋がっていったが、そこでは回復されるべき何者かが要請されており、それがつまり「人間」に他ならないのだ』と。(中略)しかしこのような議論によって『近代』を超越しようとする企ては、実際には、建築における『近代』よりも遙かに古くから、繰り返し繰り返しなされているものにすぎない。(中略)それが「意味」の不在であったことは、危機の退廃した一つのプログレマティックなアイロニーというほかはないものである。(p17〜19)

ーーーーーーー

ここでは建築における「意味」の表れについて、ポストモダン期になされた議論の構造が啓蒙主義期のルソー、また産業革命期のフッサール、ベンヤミン、ぜードルマイヤーらの言説の中に見いだせるし、それはさらに過去にも見いだせると書かれている。この場合の「意味」は純粋な意味(ってなんだ?)ではなくて、当時における近代を超越するために建築を抽象化していったときに「象徴」とか「空間」とかいった言葉を援用するときにその背後に期待されるものとして解釈した方がよさそうだが、ともかく土居さんの

少なくとも「近代」は、ア・プリオリな与件ではなく、具体的な思考の中で反省的に繰り返し構築されるものである。

という言説と同じように「近代」とはその都度新に設定されるものであるらしい。でもモダニズムにおけるそれはそれ以外とは趣が違うように思えるが・・・

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